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セイクリッドボーン  神獣と忘れられた血  作者: 鈴木 明
第四章 灰の大地と二つの翼
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第四章 第四十八話 麗華の残像

日が沈むころ、村の外に留めた六台の荷車の周囲には、昼間とは違う緊張が漂っていた。東の道から逃げ戻った若者は、バルドに指定された街道脇の場所に座り、渡された乾いたパンにもほとんど手をつけていない。灰色の腕布は外さず、何かを確かめるように何度も曲がり角を振り返っていた。昼前に運び出した男の遺体は布を掛けたまま別の場所に安置され、ニアが預かる灰の小瓶も、ガレスの手帳も、まだ何ひとつ答えを示してはいなかった。


 バルドは御者たちに馬を荷車の内側へ寄せるよう指示し、夜のあいだは火を小さく保つと決めた。ガレスとニアは村の入口と東へ続く街道を見張り、ローデンとミックは荷車の後方を中心に左右を警戒する。アレンは人手の足りないところへ動けるよう中央に残り、鈴葉はテオのそばについていた。少年は目を覚ましたものの、まだ母親の行方を尋ねることはなかった。その沈黙を前に、誰も安易な慰めを口にできずにいた。


「一つ、確かめさせてくれ」


 見張りの位置を確認したガレスが、道端の若者に声を掛けた。若者は肩を震わせたが、立ち上がろうとはしなかった。ガレスも距離を詰めず、手帳を開いたまま問いを続けた。


「名前を聞かれた場所には、何人いた。お前が見た範囲でいい」


「俺たちを止めた男と、少し先にもう二人……だと思います。木があって、道の向こうまでは見えませんでした」


「その三人も灰色の布を巻いていたのか?」


「止めた男は巻いていました。あとの二人は、遠くて……」


 若者は口を閉じ、視線を足元に落とした。何か言い忘れたことがあるように眉を寄せていたが、ガレスは急かさなかった。乾いた風が道端の草を揺らし、荷車の軋む音が短く聞こえたあと、若者は思い出したように顔を上げた。


「……女の人も一人いました。ただ、あの男たちと一緒だったかは分かりません」


 アレンはガレスの少し後ろで、その言葉を聞いた。ガレスは手帳に書きかけた文字を止め、若者に続きを促した。


「どんな女だった?」


「長い黒髪で、灰色の外套を着ていました。俺が道の脇で待たされているとき、向こうの細い道を歩いていたんです。顔は横から少し見えただけで、年もよく分かりません。でも、歩き方が妙に落ち着いていて……」


「声を聞いたのか?」


「いいえ。名前を聞いていた男が一度そちらを見たのは覚えています。でも、話したかどうかまでは見ていません。俺も早く逃げることばかり考えていましたから」


 若者はそう言うと、握ったままのパンを膝へ置いた。若者の証言では、女はただ細い道を歩いていただけだ。そもそも、集まりと関係していたのかさえ不明だった。ガレスは証言をそのまま書き留め、確かでない部分には印をつけた。


 東を見張っていたニアが、近くに立つアレンと目を合わせた。彼女も、前の晩に村の外へ現れた黒髪の女を覚えていた。名乗らず、誰かを探しているとだけ告げ、東へ歩き去った女だ。灰色の外套と長い黒髪という特徴は重なる。しかし、旅装の女なら似た姿の者がいてもおかしくない。


「昨夜の女も、東へ行ったわ」


 ニアが小声で言うと、アレンはうなずいた。若者の話に出た女が同じ人物なら、東へ続く道のどこかで姿を見かけても不思議ではない。けれど、向かった方角と服装だけで同一人物と決めるわけにはいかなかった。


「その人は、灰色の布を巻いていた?」


 アレンが若者に尋ねると、若者は困ったように首をかしげた。


「見えませんでした。外套の袖に隠れていたのかもしれないし、最初からなかったのかもしれません」


「分かった。見えなかったなら、それでいい」


 答えを聞いても、アレンの胸には落ち着かないものが残った。村から人が消えたこと、夜の家で死んだ男が見つかったこと、火山へ向かう信徒たちが家族の名前を尋ねられていたこと。別々の出来事を一つの答えに押し込めれば、かえって見落とすものが増える。アレンはそう自分に言い聞かせ、ガレスの手帳へ目を戻した。


 夜の見張りが始まる前、バルドは若者から聞いた話を簡単に確認した。東の道に知らない者がいたとしても、声を掛けるために持ち場を離れないこと。とりわけ、村の家並みへ単独で踏み込まないこと。テオを遺体の安置場所へ近づけないことも、改めて全員に伝えた。御者がもう一度水を届けると、若者は短く礼を言ったが、それ以上は何も話さなかった。


 空の赤みが失われると、村の屋根は一枚の黒い影のように連なって見えた。アレンは荷車の前方から、入口に近い家の窓を見つめた。村の家々の西向きの窓には、内側から板が打ちつけられていた。何を避けるためだったのかは、今も分からない。テオを隠した母親がどこへ行ったのかも、確かな手掛かりは見つかっていなかった。


「アレン、あの角を見て」


 見張りを続けていたニアが、弓に手を添えたまま囁いた。村の入口から少し入ったところ、屋根の欠けた家の角で、暗いものが一瞬動いた。アレンが顔を向けたときには、何かが壁の向こうへ消えるところだった。人影にも、風で揺れた布切れにも見えたが、正体を見極められるほど長くは見ていない。


「誰かいたのか?」


「分からない。動いたのは見た。でも、顔も髪も見えていない」


 ニアはそう答え、無理に弓を引かなかった。アレンも剣へ手を掛けることなく、屋根と壁の境を注意深く見守った。再び何かが動くことはなかった。風が戸板を叩き、壊れた雨樋が小さく鳴っただけだった。


 ガレスが二人の様子に気づき、槍を手に近づいてきた。アレンたちが見たものを説明すると、彼は村へ入らず、入口の見通せる位置を守るよう指示した。誰かがいる可能性を否定する必要はない。しかし、正体の分からない影を追って護衛を減らせば、若者とテオを含む商隊の守りが薄くなる。バルドにも報告し、見張りの目を増やすだけにとどめた。


 荷車の陰では、鈴葉がテオに温めた水を渡していた。少年は両手で器を支えながら、空を見上げている。アレンがそばへ戻ると、鈴葉は声を落として尋ねた。


「村のほうで何かあったの?」


「影が動いたように見えた。でも、誰だったのかも分からない。追わずに見張ることにしたよ」


「そう。今は、ここにいる人たちを守るほうが大切ね」


 鈴葉の言葉にアレンはうなずいた。鈴葉はそれ以上問い詰めず、テオに向き直った。少年が器を返すと、鈴葉はそれを受け取り、肩まで毛布を引き上げた。


 夜が深まる前に、ガレスは手帳へ新たな記録を加えた。若者が見た黒髪の女の服装、目撃した場所、本人にも分からない点。そして、村の入口付近でニアとアレンが確かめた、一瞬の動き。どちらも誰かの正体を示す証拠にはならなかった。アレンは東へ延びる道を見つめた。前夜の女について、彼が知るのはニアたちから聞いた長い黒髪と灰色の外套、そして誰かを探していたという話だけだった。今日、若者が見かけた女と同じ人物なのかも分からない。前夜の女は誰を探していたのか。答えのないまま、東へ続く夜道は闇に沈んでいた。

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