第四章 第四十七話 逃げる信徒
午後の陽が西へ傾くにつれ、村の外に停めた六台の荷車の影も長く伸びていた。車輪の点検を終えた御者たちは馬具を締め直し、バルドは翌朝の出発に使える道があるか、ガレスの手帳を見ながら確かめていた。身元の分からない男の遺体は、食料と馬から離れた日陰に布を掛けて安置されている。灰の粉を収めた小瓶はニアが預かり、テオは荷車の陰で眠っていた。鈴葉がそばに付き、別の御者も少年の様子を見守っている。火山の方角へ去った七人の旅人は、すでに街道から姿を消していた。
その静けさを破ったのは、東の道から近づく慌ただしい足音だった。ガレスが槍を持ち直し、村の入口を警戒していたニアも顔を上げた。畑道が街道と合流する曲がり角から、若い男が転がり出るように現れた。肩に掛けた袋がずれ、何度も足をもつれさせながら走っていた。右腕には細い灰色の布が巻かれていた。アレンは少し前、畑の分かれ道で話した三人組の一人だと気づいた。
「止まれ。荷車には近づくな」
ガレスの声に若者は急に足を止め、勢いを殺しきれず道端に膝をついた。顔は汗と土で汚れ、息を吸うたび肩が大きく揺れた。アレンが近寄ろうとすると、ガレスは片手で制した。若者は二人の顔を見比べ、ようやく声を絞り出した。
「頼む……少しだけ、ここにいさせてください」
「何があった。さっきは二人と山へ向かっていたな」
「もう、あそこには戻れません。俺が戻ったら……」
言いかけて、若者は東の曲がり角を振り返った。追ってくる者の姿は見えない。バルドは御者たちを荷車の間へ下がらせ、ローデンとミックには両側の守りを崩さないよう合図した。鈴葉はテオを起こさぬよう、付き添いの御者に少年を任せてからアレンたちのいる道端へ向かった。
「話は聞く。だが、荷車の中には入れん。水を渡すから、そこに座っていろ」
バルドが告げると、若者は何度もうなずいた。アレンが水筒を届く場所に置いて一歩退くと、若者は震える指で拾い、むせないよう少しずつ飲んだ。服には土が付いていたが、目立つ出血は見えなかった。ガレスは彼の右腕を指した。
「その布は何だ。先に通った四人も、似たものを巻いていた」
若者は反射的に袖を引き、布を隠しかけた。しかし、自分の腕を見下ろして手を止め、長い沈黙の末に顔を上げた。
「……信徒の印です。山で祈る者は、これを巻けと教えられました」
「何を信じているんだ?」
アレンの問いに若者はすぐ答えず、遠い山の方角を見つめた。その目に浮かんだものが後悔なのか恐怖なのか、アレンには読み取れなかった。
「灰が降っても、家を失っても、山が静まればやり直せるって。祈ればその日が早く来ると、俺の村では聞かされていました。最初は……信じたかったんです」
誰に祈るのか、祈りを教えた者が誰なのかまでは語られなかった。火山が静かになり始めたことは事実でも、祈りとの関係が確かめられたわけではない。不死鳥と出会ったアレンたちでさえ、山の変化を何がもたらしたのか断言していなかった。
「それなのに、どうして戻ってきたの?」
鈴葉が尋ねると、若者は水筒を両手で包み、うつむいた。走ってきた道のことより、そこで聞かれた言葉を思い出すほうがつらそうだった。
「一緒に歩いていた二人が、途中で別の人たちに会ったんです。そこで名前を聞かれました。俺のだけじゃなくて、家に残してきた人の名前まで。答えなきゃ先へ進めないって……」
ガレスは、若者が誰に名前を問われたのか、まだ説明していないことに気づいた。本人が見聞きしたことを確かめるため、声を落として問い掛けた。
「誰にそう言われた?」
「知らない男です。右腕に同じ布を巻いていました。一緒の二人は、ためらわずに答えました。でも、俺は嫌だった。家族の名前まで教える理由が分からなくて」
「断ったら、どうなった?」
「答えるまで道の脇で待てと。二人は先へ行って……すぐ戻ると思ったのに、戻ってこなかったんです。だから、その男がよそを見た隙に、走って逃げました」
若者は灰色の腕布をほどこうとして、途中で指を止めた。布の縁が肌に食い込み、赤い跡がついていた。二人が戻らなかった理由も、名前を聞かれた目的も、本人には分からない。ただ、答えを拒んでその場を離れたことは、自分の言葉として語っていた。アレンは今すぐ仲間が危害を受けたと決めつけず、若者が呼吸を整えるのを待った。
そのとき、ニアが小さく息をのみ、東へ視線を向けた。曲がり角の上に続く斜面で、背の低い灌木が揺れたように見えた。二つの暗い輪郭が一瞬重なり、すぐに見えなくなった。人影だったのか獣だったのか、夕方の光では判断できない。若者はその方角を見るなり水筒を取り落とした。
「来た……もう、ここまで……」
「まだ何も確かめていない。荷車へ走り込むな」
ガレスは槍を構え直し、若者に動かないよう命じた。アレンは転がった水筒を拾い、若者から少し離れた場所に置いた。鈴葉も身をかがめたが、斜面を見ただけで相手の正体を言い当てようとはしなかった。
「怖いのは分かるわ。でも、声を落として。あなたが見た人たちなのか、私たちにはまだ分からない」
若者は両手で口元を押さえ、浅い息を何度も繰り返した。静かになるのを待ち、ガレスはもう一度だけ尋ねた。
「山へ集まる連中は、誰が呼んでいる?」
「分かりません。行く場所を、人から人へ伝えられただけです。祈れば変わると思って……でも、向こうで会った男の名前も知らない」
信徒と名乗ったからといって、集まりを動かす者まで知っているとは限らない。灰色の布が共通していても、死んだ男の左手の下にあった灰の印と関係があるかどうかは不明だった。ガレスは若者の話を手帳に書き留めることにし、それ以上無理に聞き出そうとはしなかった。
バルドはガレスを数歩離れた場所へ呼び、短く相談した。追手がいると確かめられない以上、逃げてきた若者を危険な道へ追い出すことも、商隊へ自由に入れることもできない。二人は、若者を街道脇の見通せる場所に留め、御者に食べ物を届けさせると決めた。テオのいる荷車には近づけず、ローデンとミックも持ち場を守る。若者は二人の相談が終わったのを見て、ためらいがちにバルドへ尋ねた。
「今夜、あなたたちが出発するなら、俺も一緒に行けますか」
「今夜は動かん。明日の行き先もまだ確かめているところだ。同行の約束はできん。ただ、今すぐ道へ追い返すつもりもない。指示した場所で休め」
若者は深く頭を下げ、街道脇に座り直した。灰色の布は右腕に巻かれたままだった。アレンが荷車へ戻ると、テオはまだ眠っており、付き添いの御者が静かに見守っていた。鈴葉もまもなく少年のそばへ戻った。母親を待つ子供も、家族の名前を告げるのを恐れて逃げてきた若者も、事情は違っていても今は帰るべき場所へ戻れずにいる。そのことが、アレンには重く感じられた。
ガレスは若者から聞いたことと、自分たちが見たことを分けて手帳に記した。灰色の腕布を信徒の印だと呼ぶ者がいたこと。山へ向かう道で家族の名前を問われ、拒んだ若者が引き返したこと。そして、斜面に何かの影を見たものの、正体は確かめられなかったこと。夕暮れの街道は再び静まり返ったが、若者だけは何度も東を振り返り、そのたびに右腕の布を握りしめていた。
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