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セイクリッドボーン  神獣と忘れられた血  作者: 鈴木 明
第四章 灰の大地と二つの翼
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第四章 第四十三話 間に合わなかった夜

村の輪郭が夜の闇に溶け込むころ、街道脇に停めた六台の荷車にも静けさが戻っていた。御者たちは馬に水と飼葉を与え終え、外へ光を漏らさぬよう覆いを掛けた灯火のそばで休んでいた。ガレスとニアは村の入口を見張り、ローデンとミックは荷車の両側を離れなかった。日暮れ前に現れた黒髪の女は、東へ続く道を歩き去ったきり戻っていない。彼女が何者だったのか、商隊の誰にも分からなかった。


 テオは鈴葉の隣で毛布にくるまり、ときおり村のほうへ目を向けていた。アレンが水を差し出すと、少年は小さく礼を言ったものの、飲み終えても器を両手で抱えていた。母親が戻ればすぐに気づける場所にいたいのか、荷車の陰から離れたがらない。鈴葉は無理に眠らせようとはせず、風が冷たくなるたび毛布の端を直してやった。


「母さん、暗い道でも帰ってこられるかな」


「道には見張りがいるわ。誰かが近づけば、きっと気づく」


 鈴葉はそう答え、約束できないことまでは言わなかった。アレンも村の家並みを見た。窓に明かりはなく、風に揺れる雨戸の音だけが、ときおり街道まで届いていた。


 異変に気づいたのは、村側の見張りに立っていたニアだった。彼女がガレスの肩を叩き、入口に近い家の一つを指さした。細い窓に小さな黄色い光がともっている。雨戸の隙間から漏れるその光は一度弱まり、また強くなった。誰かが灯りを動かしているのか、風に炎が揺れているだけなのか、遠目には判別できなかった。


「さっきまで、あんな明かりはなかった」


 ニアの言葉に、ガレスはすぐ動こうとせず、窓を見つめた。光が三度目に揺らいだとき、暗い通りから何かを叩くような音が聞こえた。アレンも顔を上げたが、音はあまりに弱く、何が鳴ったのか分からなかった。


「人の声もした気がする」


 鈴葉が立ち上がると、テオはその袖を握りかけた。彼女がしゃがんで目を合わせると、少年は手を止めた。


「ここで待っていて。ローデンたちがそばにいるわ」


 バルドは報告を聞くと、灯りのある家が村の入口からどれほど離れているかを確かめた。入口に面した家屋で、門から奥へ入り込む必要はないとガレスが説明しても、商人の表情は険しかった。


「助けを求める者なら見捨てられん。だが、四人だけで確かめろ。入口の家を越えて進むな。様子がおかしければ引き返せ。荷車は俺が守らせる」


 ガレスはうなずいた。ローデンとミックはそのまま持ち場に残り、御者の一人がテオのそばについた。ガレスは覆い付きの手灯を持ち、鈴葉は荷車から清潔な布を数枚取った。アレンは少年に、何か分かったら戻って伝えると告げた。テオは返事をせず、村に浮かぶ小さな光を見つめていた。


 四人は街道から村の入口へ進んだ。ニアが前方を見張り、槍を携えたガレスが続き、アレンと鈴葉は背後を警戒した。村の外からは見えていた灯りが、近づくにつれて家の細い窓の奥に収まった。戸口の扉は風が吹くたびわずかに揺れていた。庭の土には足跡が重なっていたが、暗がりで新旧を見分けることはできなかった。


「中に誰かいるか。商隊の護衛だ。助けが必要なら声を出してくれ」


 ガレスが呼び掛けると、室内から何かが倒れる音がした。そのあと、かすれた息に混じって言葉が漏れた。


「……たすけ……」


 ガレスはニアに戸口の警戒を任せ、扉をゆっくり押し開けた。アレンは剣を抜かずに彼の後ろへ入り、鈴葉が続いた。台所らしい狭い部屋には椅子が倒れ、窓辺の小さな油灯が燃えていた。ガレスが手灯の覆いをわずかに開くと、床に散らばった食器と、扉のほうへ伸びる赤黒い筋が見えた。その先で作業着の男が壁にもたれ、片手を床に突いていた。四十歳前後に見えたが、顔は汗と土で汚れていた。


「聞こえるか。今、手当てをする」


 アレンが膝をつくと、男の脇腹の衣服が血で濡れているのが見えた。裂けた布の下に傷がのぞいていたが、暗さと血のため、何によって傷つけられたのかは分からない。鈴葉は持参した清潔な布を取り出し、ガレスの指示で傷口を圧迫した。アレンは男の肩を支え、体が倒れないようにした。布に血がにじみ、男の息は浅く速かった。


「痛むだろうが、少し押さえる。俺たちは村の外から来た。名前を言えるか」


 ガレスの問いに、男は唇を動かした。声になる前に咳き込み、アレンの腕をつかんだ。指の力は弱かった。


「……まだ……」


 その先は続かなかった。アレンは聞き返したかったが、男が苦しそうに息を吸うのを見て口を閉じた。鈴葉は押さえた布の位置を確かめ、男が呼吸できるよう体を支え直した。それでも血は布に広がり、男の顔色は急速に失われていった。懸命に手当てを続けているのに、何一つ間に合っていないように思えた。


「荷車まで運べるか?」


 アレンの問いに、ガレスは男の様子を確かめてから首を横に振った。


「今すぐ動かすのは危ない。まずここで手当てを続ける」


 油灯が小さく音を立てた。男は一度だけ目を開き、扉のほうへ視線を動かした。何かを伝えようとしたのか、誰かを探したのか、アレンには分からない。男の胸が大きく上下し、それから呼吸の間隔が開いた。鈴葉は声を掛け続け、ガレスが肩に触れて反応を確かめたが、返事はなかった。やがて呼吸が止まり、鈴葉は男の手首に指を添えたまま、静かに目を伏せた。


「……もう、脈がない」


 アレンは支えていた肩からすぐには手を離せなかった。呼び掛けに答えた声を聞いたばかりだった。あと少し早く灯りに気づいていればと考えたが、男がいつ傷を負ったのかさえ分からない。間に合わなかった理由を誰かのせいにすることもできなかった。


 戸口からニアの低い声が届いた。通りには動く影が見えないという。ガレスは男の顔を別の清潔な布で覆い、床に残る血の筋や倒れた椅子の位置を確かめた。傷に当てた布は動かさず、部屋の様子もそのままにした。油灯だけは火の危険がないよう消し、ガレスの手灯で足元を照らした。


「ここに残すのか」


 アレンが尋ねると、ガレスは眉を寄せた。


「連れて帰りたい。だが、遺体を運ぶには少なくとも二人の手が塞がる。夜の村で警戒する人数を減らすわけにはいかん。まずバルドに知らせ、明るくなってから人手を頼もう」


 ガレスは扉を閉め、戸口の脇に小石を三つ並べた。家の位置を覚え、入ってきた道筋を確かめてから、四人は村の入口を離れた。ニアは最後まで後方を見張っていたが、追ってくる者はいなかった。灯りの消えた窓が暗い家並みに紛れると、先ほどまでそこから声が聞こえたことさえ信じ難くなった。


 荷車へ戻ると、バルドは四人の顔を見ただけで何かあったと察した。ガレスは男を生きた状態で見つけ、その場で手当てをしたが助けられなかったこと、傷の原因も身元も分からないことを順に報告した。バルドは目を閉じて短く息を吐き、ローデンとミックへ警戒を強めるよう伝えた。ただし荷車を動かすことはせず、ほかの者を村へ送り込むことも認めなかった。


 テオは御者のそばで毛布を握り、四人を見上げた。アレンは少年に何を話すべきか迷った。男が誰なのかも分からず、テオの母親について新しく分かったこともない。鈴葉が隣に座ると、少年はその袖をそっとつかんだ。


「……誰か、いたの?」


 鈴葉は問いを避けなかった。


「男の人が一人いたわ。でも、傷がひどくて助けられなかったの。お母さんのことは、まだ分からない」


 テオは返事をせず、毛布の端を強く握った。アレンも隣に腰を下ろした。村の入口にともった明かりは、もう見えない。あとから聞こえてきた弱い声と、支えた男の肩の重さが、アレンの中に残っていた。何が男に傷を負わせ、なぜ一人であの家にいたのか。その答えにつながるかもしれないものは、暗い室内に残されたままだった。

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