第四章 第四十二話 黒髪の女
西の尾根が夕闇に沈んでも、バルドは荷車を村へ進めようとはしなかった。六台の荷車は街道脇の開けた場所に停められ、御者たちは馬に水を飲ませていた。ガレスは見張りの位置を確かめ、ニアには村へ続く道を、ローデンとミックには荷車の両側を警戒するよう伝えた。アレンと鈴葉はテオの近くに残っていた。少年は食べ物を少し口にしたものの、物音がするたび、母親が戻ってきたのではないかと顔を上げた。
「夜になったら、村に明かりがつくかな」
テオの問いに、アレンはすぐには答えられなかった。テオ以外の村人は、まだ誰も見つかっていない。西の尾根で見た黒い九尾の狐についても、少年に伝えられるような確かな説明はなかった。
「分からない。でも、道は見張っている。誰かが戻ってきたら、気づけるようにしてあるよ」
テオは小さくうなずき、膝の上で毛布の端を握った。鈴葉は彼の手が震えているのを見て、母親のことをこれ以上尋ねなかった。安心させる言葉を重ねるより、そばに人がいることのほうが、今は助けになるように思えた。
ニアが短く声を掛け、片手を上げたのは、そのときだった。彼女は村の入口を指していた。アレンが立ち上がると、閉ざされた家並みの間から人影が一つ、街道へ出てきた。昼過ぎから村を調べていた間には見かけなかった人物だ。歩幅は小さく、急ぐ様子もない。夕暮れの残る空を背に、長い髪が肩の外へ流れていた。
「そこで止まってくれ」
ガレスが荷車から離れすぎない位置で声を掛けた。人影は足を止め、ゆっくりと顔を上げた。女だった。黒い髪は背中まで伸び、旅装の襟元で何筋かが絡まっていた。灰色の外套の裾には乾いた泥が付き、片方の袖口にも擦れた跡があった。薄闇のため表情の細部までは分からなかったが、女の両手は体の脇に下がり、こちらへ近づこうともしなかった。
「商隊の方たちね」
落ち着いた声だった。ガレスは女との距離を保ち、ニアが後方で弓を構えずに見張っているのを確かめた。バルドも荷車のそばから歩み出たが、女を御者や馬のほうへ近づけるつもりはないらしかった。
「そうだ。村に人がいない理由を調べている。あんたはどこから来た?」
「村の中から。日が落ちる前に出るつもりだったのだけれど、思ったより遅くなったわ」
「いつ入った? 俺たちは昼過ぎから辺りを見ていたが、誰も見なかった」
「あなたたちがどこを見ていたのかまでは知らない。私は西側の家ばかりを歩いていたわけじゃないもの」
それだけで嘘だと決めつけられる答えではなかった。四人が調べた範囲は限られ、村中の家や道を見渡していたわけではない。アレンは女の足元から村へ続く土の道へ目を向けた。靴の先には細かな砂が付いていたが、どこを歩いてきたのかを示す特徴は見当たらなかった。
「一人か?」
ガレスは女の背後へ目を向けた。家並みにはほかに人影がなく、遅れて誰かが現れる様子もない。女は少し間を置いて答えた。
「ここへ来たのは、一人よ」
今も一人なのか、以前は誰かといたのか。その言葉だけでは分からない。ガレスは問いを重ねる前に、村へ入った目的を確かめた。
「何を探していた?」
「人を。ここに来れば、何か分かるかもしれないと思ったの」
「誰を?」
「……その名前は、あなたたちには話せない。ごめんなさい」
女は視線を逸らさずに謝った。挑発するような口調ではなかったが、答えを拒む相手を信用する理由にもならない。バルドは一歩前へ出て、荷車と女との間に立った。
「こちらには守るべき荷と人がいる。事情を話せない相手を近くへは通せん。道を聞くならここで答えるが、商隊の中へ入るのは遠慮してもらう」
「それで構わないわ。あなたたちに何かしてほしくて来たわけじゃないもの」
女は静かにうなずいた。アレンはその顔から目を離さなかった。テオが語った女も、村で人々が騒いでいる中を歩いていたという。しかし少年は髪の色も顔もよく覚えておらず、目の前の人物と同じだと確かめる材料はない。アレンが問い掛けようとしたところで、鈴葉が先に口を開いた。
「村の人には会った?」
「私が歩いたところでは、誰にも」
「争った跡や、怪我をした人も見ていない?」
「怪我をした人は見ていないわ。争いがあったかどうかまでは、分からない」
鈴葉は女の袖口に残る擦れた跡を見た。どこで付いたものかを尋ねようとしたが、女は視線を街道へ移した。鈴葉もその先を一度確かめ、問いを変えた。
「村の外へ向かうの? 暗くなれば道も見えにくくなるわ」
「ええ。戻る場所はあるから」
女はそれだけ答え、街道の東へ続く道を見た。荷車のほうから馬具の音が響き、テオが毛布の中で身じろぎした。アレンは振り向き、少年が御者のそばにいるのを確かめた。テオをここへ呼び、女の顔を見せて、少年が覚えている人物かどうか確かめさせようとは思わなかった。暗い小屋で怯えていた子供を、正体の分からない相手の前へ連れ出す理由はない。ガレスは女が立ち去る前に、もう一つ尋ねた。
「名前くらいは聞かせてもらえるか」
女はすぐに答えなかった。夕闇の中で唇を引き結び、ガレスの顔を静かに見返した。露骨な敵意は感じられなかったが、名乗ることへのためらいは隠そうとしない。やがて彼女は、ゆっくりと首を振った。
「今は、言わないでおくわ。疑われても仕方ないと思っている」
「なら、俺たちも警戒を解けない」
「それでいいと思う」
女は憤ることなく答えた。その落ち着きが場違いにも感じられ、アレンは肩に力が入るのを覚えた。人の消えた村から一人で出てきた女は、悲しんでいるようにも、安堵しているようにも見えなかった。ただ、旅を続ける前に必要なことだけを確かめているようだった。
「もう行くわ。あなたたちも、気をつけて」
女は軽く頭を下げ、荷車の間を通ろうとはせず、道の端を歩いて東へ向かった。ニアは見える範囲で後ろ姿を追い、ガレスも相手が十分に離れるまで警戒を続けた。女が街道脇の低い土手の向こうへ消えると、バルドは御者たちに持ち場を離れないよう改めて指示した。
「名前も、誰を探しているのかも確かめられなかったな」
ガレスが小さく言うと、アレンはうなずいた。相手が答えを拒んだ以上、さらに問いを重ねても確かな話を聞けるとは限らない。何より、女を追って商隊の警戒を崩すわけにはいかなかった。
「少なくとも、村から出てきた人が一人いた。そこは俺たちも見た。でも、あの人が何を知っているのかは分からない」
鈴葉は二人のやり取りを聞きながら、女が去った道を見つめていた。外套の泥や袖口の擦れ跡が何を意味するのかは、結局、分からずじまいだった。テオにあの女のことを尋ねるにしても、今夜これ以上問いを重ねるつもりはなかった。少年はようやく落ち着き始めたところだった。
夜の冷え込みが草地を渡り始めた。バルドは見張りの交代を確認し、荷車をその場に留めた。アレンがテオのそばに戻ると、少年は毛布から顔を出していた。黒い狐を見た尾根とは別の道へ、黒髪の女は消えていった。彼女が村で何を見つけ、誰を探していたのかは分からない。家々に明かりはともらず、テオは母親の姿を探すように、暗い村を見つめ続けていた。
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