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セイクリッドボーン  神獣と忘れられた血  作者: 鈴木 明
第四章 灰の大地と二つの翼
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第四章 第四十一話 黒い九尾、遠く

岩の斜面から引き返したころには、傾き始めた陽が西の草地を赤く染めていた。ニアを先頭に、ガレス、アレン、鈴葉の順で獣道を戻っていた。往路で見つけた浅いくぼみを踏まないよう、四人は足元を確かめながら進んだ。ニアの荷物には、土ごと布に包んだ一本の獣毛が収められている。ほかに新しい物証は得られず、血の見当たらなかった窪地も、そこを通った者の無事を保証するものではなかった。


「靴跡に似たものはあった。だが、誰がいつ通ったかまでは言えん」


 ガレスの言葉にアレンはうなずいた。村の外で待つテオは、母親が迎えに来ることを願っていた。少年の話に出てきた笑う女も、村人たちが慌ただしく動いていた理由も、まだ説明がつかなかった。


「でも、分かれ道の位置は確かめられたわ。持ち帰った毛も、最初に見つけたものと比べられるかもしれない」


 鈴葉の言葉を受け、ガレスは腰の手帳に手を当てた。二つに分かれる道と岩の斜面の位置は描き留めてある。ニアも採取した毛を荷車へ戻るまで開かず、拾った場所を伝えることにしていた。似て見えるだけで、同じ獣の毛だと判断するつもりはなかった。


 灌木を抜け、村境へ下る草地に差しかかったとき、ニアが急に片手を上げた。四人はその場で身を低くした。アレンは鳥でも飛び立ったのかと思ったが、ニアは空ではなく、遠く西に重なる尾根の一角を見ていた。


「……あの白い岩の上。何かいる」


 ニアが示した先には、乾いた岩が尾根から突き出していた。その上に、黒い塊のようなものが見えた。初めは岩陰にも思えたが、輪郭がわずかに動く。尖った耳が二つ、前方へ伸びた細い鼻先が一つ。四本の脚で岩を踏み、胸元には風に揺れる毛並みがあった。獣は狐に似ていたが、距離がありすぎて体の大きさまでは測れなかった。


「ここから見るだけだ。近づくな」


 ガレスは四人の位置を確かめ、さらに低い姿勢を取った。ニアも弓を構えず、岩と獣の輪郭を見比べた。西日が斜めに当たると、肩から背にかけての毛が鈍く光った。周囲の岩に落ちる影とは違い、照らされた部分まで黒かった。


 獣が静かに体の向きを変えた。その背後から、長い尾が弧を描いて持ち上がる。一本に見えた黒い影の横から別の先端が現れ、さらにその間から幾筋もの尾が広がった。重なっていた部分がゆっくり離れると、それぞれが別々の方向へ揺れた。尾根には枝の影を落とす木もなく、細長い影はどれも獣の腰から伸びているように見えた。


「……九本、か?」


 アレンは目で先端を追いながら、小さく数え直した。


「私にも九本見える。今、右端の一本が下がった」


 ニアの示した尾が動き、その奥に隠れていた一本がはっきり姿を現した。ガレスも重なりを見直し、九本あることを確かめた。遠い白岩の上に立っているのは、黒い毛を持ち、九本の尾を広げた狐だった。村の西で見つけた九筋の跡が脳裏をよぎったが、アレンはすぐにその考えを言葉にしなかった。


 鈴葉だけは、尾の数が確かめられても黙っていた。耳を澄ませるように顔を上げ、遠い獣の姿を見据えている。アレンには彼女の表情から何を考えているのか読み取れず、声を落として尋ねた。


「鈴葉。あれが何なのか、分かるか?」


「ここから分かるのは、黒い狐の姿と九本の尾よ」


「同じ九尾なら、知っている相手なのか?」


 鈴葉はすぐに答えなかった。風に揺れる草の間で、しばらく遠い岩を見つめたあと、静かに口を開いた。


「尾の数だけで、相手が誰かは決められないわ。近くで確かめたわけでもないもの」


 言葉は穏やかだったが、いつもの鈴葉より慎重だった。アレンは、神獣である彼女なら何でも知っているはずだと、また考えかけていたことに気づいた。


「そうだな。まずは見たことだけ覚えておこう」


 鈴葉は短くうなずいた。その直後、岩の上の狐が頭をこちらへ向けた。離れすぎていて、瞳の色も表情も分からない。四人に気づいたのか、ただ草地を見渡しただけなのかさえ判断できなかった。それでもニアの指が弓弦へ寄ると、ガレスは片手を上げて制し、動かないよう合図した。


 狐は岩の上でしばらく動かず、やがて九本の尾を低くまとめると、尾根の向こうへ歩き去った。最後の尾が白い岩陰に消えても、こちらには足音ひとつ届かなかった。アレンは見失った場所を目で追ったが、岩の向こうに別の道があるのかどうかさえ見通せない。


「追わん。あそこは許された調査範囲の外だ。道も分からない」


 ガレスは手帳を取り出し、現在地から見えた尾根と白い岩の位置、獣が去った方向を記した。黒い体、狐に似た頭、九本の尾については四人の見え方が一致した。一方、獣が村へ入ったところを見た者はなく、遠い尾根まで足跡が続いていると確かめたわけでもない。


「九筋の跡を見たあとだから、同じ相手だと思いたくなるな」


 アレンの言葉に、ガレスが首を振った。


「そう考える理由はある。だが、まだつながっていない。村人が消えたこととも別だ」


 四人はそこで観察を切り上げ、村へ向かって歩き始めた。西門をくぐっても、内側から塞がれた窓や放置された道具は変わらず、通りに人影はなかった。テオが語った女の姿も見えない。アレンは遠い岩の上の狐を思い浮かべたが、女の笑顔と結びつける根拠はないと自分に言い聞かせた。


 村の外には、六台の荷車が出発せずに並んでいた。ローデンとミックが警戒を続け、御者たちは馬の様子を見ている。荷車の陰に座るテオは鈴葉を見つけると顔を上げた。彼女は少年に小さく手を振り、アレンも安心させるようにうなずいた。ガレスはバルドを呼び、ほかの者に聞こえにくい場所で手帳を開いた。


「村人は見つかったか?」


「いいえ。ですが、西の遠い尾根で黒い狐を見ました。尾は九本。四人で確認しています」


 バルドは驚きを表に出すより先に、ガレスが示す白い岩の位置を確かめた。分かれ道と浅い足跡、採取した獣毛についての報告も聞き終えると、荷車のほうへ目を向けた。


「今夜は動かさん。子供もいる。正体の分からん獣を追って、商隊を危険にさらすつもりはない」


「はい。見た姿は確かですが、あの狐が村に来たかどうかも分かりません」


 ガレスの返事に、バルドはうなずいた。夕暮れが深まり、村の屋根と西の尾根が少しずつ色を失っていく。テオのそばでは鈴葉がかがんで何かを聞き、少年が小さく答えていた。アレンはその声を背に、最後に一度だけ遠い岩の方角を見た。九本の尾を広げた黒い狐は、確かにそこにいた。けれど、村に残された痕跡の持ち主なのか、消えた人々の行方を知る存在なのかは、まだ何一つ確かめられていない。岩の向こうは夕闇に沈み、白い岩の上にはもう何も見えなかった。

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