第四章 第三十九話 笑っていた女
鈴葉の袖をつかんだまま、テオは村のほうを見ようとしなかった。荷車の陰には乾いた草と馬具の匂いが漂い、すぐ近くでは御者が馬をなだめる声が聞こえていた。それだけ人の気配があるにもかかわらず、少年の指は強くこわばっていた。
鈴葉は返事を急がなかった。西の草地で見つけた足跡や九筋の掃き跡は、何かがそこを通った可能性を示している。しかし、それをテオが恐れる女と結びつける証拠はなかった。
「分からないわ。私たちが村を調べた間は、人の姿を見なかった。でも、誰もいないと確かめられたわけじゃないの」
「……じゃあ、来るかもしれない」
「そうかもしれない。だから、みんなで周りを見ているのよ。テオは今、私たちのそばにいて」
少年は鈴葉の言葉を聞いて、ようやく握っていた袖から少し力を抜いた。アレンは彼の正面に腰を下ろしたが、問いただすように身を乗り出すことはしなかった。荷車の帆布が風を受けて鳴るたび、テオはびくりと肩を震わせた。ニアが差し出した器をテオが両手で受け取り、ひと口水を飲むと、震える手から傾きかけた器を鈴葉がそっと支えた。乾いた食べ物も用意されていたが、少年はまだ手を伸ばせずにいた。
ガレスは少し離れたところから、テオと鈴葉の様子を見ていた。何か尋ねかけたところで少年の怯えた顔を見て、口を閉じた。バルドも近くで様子を確かめ、ローデンとミックには引き続き荷車の両側を見張らせた。御者たちが集まってこないよう促すと、ガレスのそばに留まった。アレンはテオの表情を見ながら、静かに尋ねた。
「その人が怖かったのか?」
テオはうなずきかけて、途中で首をかしげた。
「分かんない。最初は……怖い人に見えなかった」
テオは両手で器を包み、こぼれた水滴を見つめた。途切れ途切れの言葉を待つ間、アレンには小屋で聞いた「知らない声なら出るな」という母親の言いつけが思い出された。何を見てそう命じたのかは、まだ分からない。アレンは少年の記憶を急かさないよう、見た場所だけを尋ねた。
「その人を見たのは、どこだった?」
「西のほう。うちの近くじゃない……物をしまう小屋に行く前。母さんと歩いてた。みんな、窓を閉めろって言ってて、走ってる人もいた」
アレンは少年自身が見たものと聞いたものを混同しないよう、問いを絞った。
「その人たちが、どうして走っていたのか分かる?」
「知らない。僕には分からなかった。母さんが手を引いて、前を向いてって……手が痛くなるくらい強く引かれた。あんな母さん、初めてだった」
テオはそのまま黙り込んだ。鈴葉は器を取り上げず、少年がもう少し飲めるまで待った。人が走っていたという証言は、家の内側に残る防御の跡と矛盾しない。だが、走っていた理由も向かった先も分からず、騒ぎの始まりさえ少年は知らなかった。母親が強く手を引いたのも、目の前に差し迫った危険を見たからなのか、周囲の騒ぎに急かされたからなのか、テオの記憶だけでは区別できなかった。
「女の人は、走ってなかった?」
今度は鈴葉が尋ねた。テオはうなずいた。
「歩いてた。ゆっくり。誰かを探してるみたいに、家を見てた。でも、僕がちゃんと見たのは、ちょっとだけ」
鈴葉はテオが言葉を探すのを待ち、もう一度静かに尋ねた。
「服や顔は覚えてる?」
「……あんまり。母さんの後ろから見たし、すぐ隠れるように言われたから」
鈴葉はそれ以上、特徴を無理に思い出させなかった。服装や顔を思い出せないことと、人影そのものを見ていないことは違う。反対に、女らしい人影を見たからといって、その正体を決められるわけでもなかった。
テオはしばらく黙っていたが、器を置くと自分から口を開いた。
「……笑ってたんだ」
鈴葉が短く聞き返した。
「その女の人が?」
「うん。みんな大きな声で呼び合ってたのに、その人だけ、笑ってた。声は聞こえなかった。口が、こう……。母さんはあの人を見て、何も言わなくなった」
少年は自分の頬へ指を当て、口の端を持ち上げようとした。しかし途中で手を下ろし、膝の上で握りしめた。笑顔を真似ることさえ恐ろしいのか、唇が震えていた。アレンには、女の表情そのものより、それを見た母親の変化のほうがテオを怯えさせているように思えた。それでも、少年の語る順序が実際の出来事の順序と同じかどうかは確かめられない。
アレンは慎重に言葉を選び、もう一つだけ尋ねた。
「誰かに笑いかけていたのかな」
テオは首を振った。
「分かんない。家のほうを見てたと思う。でも、窓は閉まってた。そこに誰かいたかどうかも知らない」
アレンはすぐには返せなかった。恐ろしい出来事の最中に微笑んでいる人がいたとしても、それだけで悪意があるとは限らない。誰かを安心させようとしていたのかもしれず、少年が別の場面の表情を重ねている可能性もある。それでも、家々が内側から塞がれた村で、その笑顔がテオの記憶に焼きついていたことは軽く扱えなかった。
「それから、お母さんと小屋へ行ったのね?」
鈴葉が確かめると、テオはうなずいた。
「うん。母さんが箱を動かして、下に入れって。暗くても出るなって言った。あとで迎えに来るからって……僕、待ってたのに。何度も外の音がしたけど、知らない声だったら駄目だと思って、ずっと」
声の最後が崩れ、テオは目元をこすった。鈴葉は無理に続きを求めず、肩へそっと手を添えた。アレンも、母親が小屋を離れた後に何が起きたのか尋ねなかった。少年が知っているのは、待つように言われたことと、迎えが来なかったことだけなのだ。外で聞こえた物音の正体を今ここで一つずつ確かめようとしても、傷ついた記憶を無理に掘り返すことになる。
少し離れたところで話を聞いていたバルドが、ガレスに目配せした。二人は少年からさらに距離を取り、声を落として話した。
「西で騒ぎがあったのは確からしいな。だが、女の話と足跡が同じ出来事に属するかも分からん」
「はい。家の塞ぎ方と少年の証言には重なる部分があります。ただ、走っていた人たちがどこへ向かったのかは、まだ分かっていません」
「捜すなら、あの西の跡をもう少し確かめる必要がある。だが、荷車は動かさん。まずここを守る」
ガレスはうなずいたものの、それ以上の探索をその場で求めはしなかった。西へ続く道はまだ十分に調べられていない。だが、幼い生存者が見つかった以上、護衛の人数を減らす判断には慎重さが必要だった。
テオは鈴葉に寄り添いながら、ようやく乾いた食べ物を小さくかじった。周囲には馬の鼻息や革紐の軋む音が戻っていたが、少年は何度も村の入口へ目をやった。その視線に気づいた鈴葉が静かに尋ねた。
「どうしたの?」
「母さんが帰ってきたら……僕がここにいるって、分かるかな」
アレンはすぐに答えられなかった。母親が無事かどうか、今どこにいるかも知らない。それでも、テオを再び小屋で待たせることだけはできなかった。
「バルドに君のことを伝えた。誰かが村から戻ってきたら、ここにいると分かるようにする。俺たちも気をつけて見ているよ」
テオは小さくうなずき、もう一度食べ物を口に運んだ。鈴葉はその手を見守りながら、少年が覚えていた笑顔のことを考えた。テオの記憶では、人々が慌ただしく声を掛け合う中、その女だけが笑っていた。その光景をどう受け止めるべきか、今は判断できなかった。
少し離れたところで、ガレスは西の草地を見つめていた。村の境で見つけた足跡は、その先へ続いている。子供にこれ以上の答えを求めるよりも、まだ踏み込んでいない道に残るものを自分たちの目で確かめるべきだと、彼は考えていた。
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