第四章 第三十七話 九尾の痕跡
板で塞がれた西向きの窓を前に、四人はしばらく動かなかった。家の中には争った跡がほとんどなく、床に残っていたのは家具を急いで動かした擦り傷と、割れた食器だけだった。外から押し破られた痕跡もなかった。それでも、ここにいた誰かが西側だけを恐れていたことは明らかだった。
「外を見よう」
ガレスがそう言うと、ニアは頷き、先に玄関へ戻った。四人は家を出ると、西側の通りをさらに進んだ。こちら側では窓を板で塞いだ家が増え、扉の前に樽や薪束まで積まれていた家もあった。どの家も壊されてはいなかった。ただ、何かを遠ざけようとした跡だけが残っていた。
通りの先には村の外周柵があり、その向こうへ細い農道が伸びていた。門代わりの木柵は開いていたが、片側の柱には新しい傷が何本も走っていた。古い風雨の傷とは違い、削れた木肌はまだ白っぽく、周囲には細かな木屑が落ちていた。
「これ、刃物じゃないな」
ニアが柱へ近づき、傷の幅を目で測った。ガレスも横から傷を覗き込み、木肌に残った筋を確かめた。
「爪か?」
「それにしては長い」
ニアはそう答えると、今度は柱の根元へ視線を落とした。ガレスもしゃがみ込み、地面を調べる。乾いた土の上には人の靴跡と小さな家畜の蹄跡が入り混じっていたが、その中に形の違う跡がいくつか残っていた。アレンも近づき、その細長い形に息を詰めた。
「狐……?」
犬にも似ていたが、指の開き方と歩幅が違っていた。普通の狐より明らかに大きく、前後の足跡の間隔も長かった。鈴葉はすぐには答えず、跡の横へしゃがみ、土には触れないまま形と向きだけを慎重に追っていった。
「狐に近い足跡ね。でも、普通の狐のものには見えない」
「大きさだけの問題?」
「それだけじゃない。歩き方も少し違う」
足跡は西から村内へ向かう向きに残っており、柵の内側をしばらく進んだところで不自然に途切れていた。飛び上がったようにも見えたが、近くに着地した跡はなかった。アレンが周囲を見回すと、鈴葉は足跡ではなく、その横に倒れていた草へ視線を向けた。
「足だけ見てたら見落とす」
草は円を描くように何本も伏せられていた。風で倒れたにしては向きが揃いすぎており、中心から外へ向かっていくつもの弧を描いていた。ニアはそのうちの一つを指で示し、ほかの筋と見比べた。
「何か引きずった?」
「たぶん、尾」
鈴葉の答えを聞いたアレンは、草の上に重なる弧をもう一度見比べた。確かに、一つの線だけではなかった。
「一本じゃないな」
「ええ」
鈴葉は立ち上がらず、一つずつ弧を数えた。途中で重なっていた場所もあり、はっきり分かれるものだけでも五本以上あった。
「全部同時についた跡なら、尾が複数ある」
「複数って……どれくらい?」
「まだ分からない。重なってるから。それに、ここだけじゃ何が残した跡かまでは決められない」
鈴葉の声は落ち着いていたが、いつもより慎重だった。彼女自身が狐の神獣であることを知っているアレンには、その反応が余計に気になった。
「鈴葉にも分からないのか?」
「跡だけで決めたくないの。形が似てても、何が残したかまでは別の話だから」
その答えは、ここまでの旅で何度も聞いてきたものと同じだった。ガレスは開いた木柵の向こうを確認してから、三人へ振り返った。
「外周のすぐ先だけ見る。百歩を越えたら引き返す。それより先を追うなら、いったんバルドへ報告してからだ」
誰も異論はなかった。四人は痕跡を踏まないよう間隔を取り、村の外へ出た。
◇
農道は西へ伸び、百歩も進まないうちに畑の端へ達した。その先には背の低い草地が広がっており、そこでは足跡よりも草の倒れ方の方が目立っていた。
草地の一部が扇状に伏せ、中央から左右へ大きく広がる細い筋が何本も並んでいた。その形は風が作ったものには見えず、何本もの長いものが同時に地面を払ったようだった。
「ここなら数えられる」
鈴葉が静かに言った。
四人は少し距離を取ったまま、筋を一つずつ追った。重なっていないものを端から拾っていくと、想像していた以上に数が多かった。アレンは途中で一度数え直し、それでも最後の一本で手を止めた。
「……九?」
誰もすぐには答えなかった。今度はニアが反対側から一つずつ確認し、ガレスも重なりを見ながら数え直した。それでも結果は変わらなかった。
「九本ある」
ガレスの声が低くなった。アレンはその言葉を聞きながら鈴葉へ視線を向けた。
「九本の尾ってことか?」
「そう見える痕跡ではある」
「でも断定はしない?」
「しない。尾のようなものが九本あった可能性は高い。でも、これだけで何者かまでは決められない」
鈴葉はそう言いながらも、九本の筋から目を離さなかった。自分と同じ狐に近い足跡を見ているせいなのか、それとも別の理由があるのか、アレンには判断できなかった。
◇
草地の端には一本の古い木が立っていた。ガレスがここまでの歩数を確認し、まだ自分で定めた百歩の範囲内だと判断してから、四人は木の周囲だけを調べた。幹の表面には新しい傷があり、地面からかなり高い位置まで縦に裂けていた。爪痕にも見えたが、深さは一定ではなく、途中で何度か向きが変わっていた。
その根元には短い獣毛らしきものが数本引っかかっていた。ニアが先に気づき、周囲を警戒したまましゃがみ込んだ。毛には土と細かな汚れが絡み、元の色までは判別できなかった。
「鈴葉の毛じゃないよな?」
アレンが聞くと、鈴葉は近くから確認し、少しだけ眉を寄せた。
「違う。少なくとも私のじゃない」
「何の毛かは?」
「これだけじゃ分からない」
鈴葉は毛を持ち帰ろうとはせず、場所だけを覚えるように木と周囲の地形を見回した。ガレスも木の周囲を一周し、狐に似た足跡がさらに西へ続いていることを確認したが、その先は草が深くなり、地面も硬かった。そこから先へ進めば、先ほど自分で定めた範囲を越える。
「ここまでだ。先を追うなら、バルドに報告してからにする」
「賛成」
ニアもすぐに応じ、四人は痕跡を壊さないよう同じ道を戻った。アレンは途中で何度も振り返った。草地に残る九本の筋は、遠ざかるほどただの風跡にも見えた。それでも、一度数えてしまった数字は頭から離れなかった。
西側だけを塞いだ家々、柵の柱に残った爪のような傷、普通の狐とは異なる大きな足跡、そして地面を払った九本の尾らしき痕跡。そのすべてが同じ存在へつながるのか、村人たちが恐れていたものと本当に同一なのかはまだ分からなかった。だが、村の西側に普通ではない何かがいたことだけは、もう偶然では片づけられなかった。
門が見えてきたところで、鈴葉が突然足を止めた。顔を上げて村の中へ耳を澄ませ、そのまま数秒ほど動かなかった。
「どうした?」
アレンが振り返ると、鈴葉はもう一度静かに呼吸を整えた。
「……今、何か聞こえた」
「何が?」
「分からない。でも、村の中」
ガレスとニアもすぐに表情を変えた。九本の痕跡を追うことはいったん後回しになった。四人は顔を見合わせると、西の草地を背にして、再び静まり返った村へ向かった。
読んでくださり、ありがとうございます!
楽しんでいただけましたら、ブックマークと評価をいただけると嬉しいです。




