第四章 第三十五話 山を下りた先
長い下り坂へ入ってからも、商隊はすぐには足を止めなかった。夕暮れの光が低地の草原を赤く染める頃には、背後の火山は岩壁の向こうへ半分以上隠れ、空気に混じっていた灰の臭いもほとんど感じなくなっていた。道の両側には丈の低い草が戻り、ところどころに黄色い小花まで咲いていた。ここ数日、黒い岩と白灰色の世界ばかり見てきたせいか、その色が妙に鮮やかに見えた。
「やっと山を抜けた感じがするな」
アレンが言うと、隣を歩く鈴葉は少しだけ肩の力を抜いた。
「まだ麓ではあるけどね。でも、少なくとも灰除け布を顔に巻かなくてもいいくらいには下りてきたわ」
その言葉どおり、ニアも前方で布を首元まで下ろしていた。ガレスは先頭で道の状態を確かめ、ローデンとミックは後方の車輪がぬかるみに取られないよう注意していた。火山側では乾いた地面ばかりだったが、低地へ近づくにつれて土は湿り気を取り戻し、細い水路が街道の脇を流れ始めていた。風にも草と湿った土の匂いが混じり、馬たちも時折鼻先を上げて周囲の空気を嗅いでいた。
バルドは日が落ち切る前に、水場の近い平坦な場所で商隊を止めた。六台の荷馬車を半円状に寄せる頃には、馬たちも明らかに落ち着いていた。御者の一人が水を汲みに行き、戻ってきた桶を覗き込んで笑った。
「灰が浮いてねえ水なんて、何日ぶりだ?」
「飲む前に煮ろよ」
バルドが即座に釘を刺すと、男は分かっていると手を上げた。火山から離れた安堵はあっても、警戒そのものまで解くつもりはなかったらしい。夕食の支度が始まると、久しぶりに灰を払いながら鍋を守る必要もなく、御者たちの会話もここ数日より少し明るかった。アレンも火山を振り返ることはあったが、遠くの山影から地鳴りが届いてこないことに気づくたび、ようやく旅が次の場所へ進み始めたのだと実感した。
◇
翌朝、商隊は日の出とともに西へ進み始めた。空は薄い雲に覆われていたが、それは灰ではなく、ごく普通の雲だった。背後を振り返っても火山は遠く、山頂から上がっていた細い煙だけが、その存在を示していた。
道は緩やかな丘陵を抜け、やがて広い耕作地へ入った。石で区切られた畑には麦に似た穂が揺れ、低い果樹の列も続いていた。山側で見た荒れた景色とはまるで別の土地で、古い水路には澄んだ水が流れ、その脇には荷車の車輪が何度も通った跡が残っていた。少なくとも、人の生活圏へ戻ってきたことは間違いなさそうだった。
「ここまで来れば、普通の村もあるだろうな」
アレンが畑を眺めながら言うと、バルドが前方から振り返った。
「ある。今日中に一つ寄れるはずだ。水と干し草が買えりゃ助かる」
「泊まるのか?」
「様子次第だな。荷馬車を入れられる宿があれば一泊、なけりゃ補給だけして先へ進む」
商隊にとっては、それがいつもの旅の判断なのだろう。アレンも特に疑問を持たず、鈴葉と並んで歩き続けた。しばらくすると道端に古い石柱が現れ、表面には西側の集落までの距離が刻まれていた。灰や風雨で文字の一部は削れていたが、ここから半日もかからない場所に村があることだけは読み取れた。
「もう近いな」
ガレスは石柱を確認して先頭へ戻った。商隊もそのまま進んだが、それから間もなく、アレンは街道の周囲に少しずつ違和感を覚え始めた。
◇
最初に違和感を覚えたのは、畑だった。作物は育っており、畝も崩れておらず、水路にも水が流れていた。それなのに、見渡せる範囲に働いている人の姿が一人もなかった。
「時期じゃないだけか?」
アレンが呟くと、鈴葉は周囲を見渡した。
「収穫にはまだ早そう。でも、この広さで誰も見えないのは少し変ね」
畑の端には木製の鍬が一本、地面へ立てかけられていた。捨てられたようには見えず、すぐ戻るつもりで置かれたような状態だった。少し先には小さな籠があり、中にはまだ乾ききっていない草が入っていた。風雨に晒されて長く放置されていた様子もなく、人だけが作業の途中で姿を消したように見えた。
さらに進むと、街道沿いに一軒の農家が現れた。煙突から煙は出ていなかったが、屋根も壁も壊れていなかった。戸口の脇には薪が積まれ、洗ったばかりらしい布が一本の綱に掛けられていた。風に揺れていたその布や、壁際に置かれた水桶は、人の生活がそこにあったことを示していた。
「留守なのか?」
ミックが後方から声を上げた。
「一軒ならな」
ローデンが答えたが、その先にも同じような家が二軒、三軒と続いた。どこも荒らされておらず、窓も戸も壊れていなかった。家畜小屋さえ倒れていなかったのに、人も家畜も外へ出ていなかった。バルドは商隊を止めなかったものの、明らかに歩調を落とした。
「ニア、前を見てこい。遠くへは行くな」
「了解」
ニアは弓を背負ったまま街道の先へ走り、しばらくして戻ってきた。息を整えながらも、その表情には普段より強い警戒が浮かんでいた。
「村は見える。柵も門も壊れてない。でも……外に誰もいない」
その報告に御者たちの間から小さなざわめきが起きたが、バルドはすぐに手で制し、全員へ周囲をよく見るよう指示した。
◇
昼を少し過ぎた頃、商隊は低い丘を越え、その向こうに一つの村を捉えた。大きな集落ではなく、石と木で造られた家が数十軒ほど集まり、外周には低い柵が巡らされていた。中央には井戸らしい屋根と小さな鐘楼が見え、畑も家も整っていた。火事や争いの痕跡は見当たらなかった。それなのに、村の内外に動く人影は一つもなかった。
普通なら、六台もの荷馬車が近づけば誰かが気づく。子供が見に来てもおかしくないし、犬が吠えることもあるだろう。商人が通る街道沿いの村なら、なおさらだった。ところが、距離を縮めても聞こえてくるのは荷馬車の車輪と馬の蹄、そして風に擦れる草の音だけだった。
「妙だな」
ガレスが低く言った。バルドも返事をせず、村を見つめていた。門は開いていた。そこへ続く道には新しい車輪跡も残っており、人が長く不在だった場所ではないことだけは、それだけでも分かった。
「入る前に止める」
バルドは街道脇の広い場所を指し、御者たちへ荷馬車を寄せるよう命じると、そのまま護衛たちへ指示を飛ばした。
「ガレス、ニア。入口まで見ろ。中にはまだ入るな。ローデンとミックは荷馬車を守れ。アレンと鈴葉もここに残ってくれ」
「分かった」
アレンは頷いたが、視線は村から離れなかった。開いた門の向こうには一本の道がまっすぐ伸びており、家々の扉は閉じていたものもあれば、半分開いたままのものもあった。井戸のそばには桶が置かれ、軒先には洗濯物まで残っていた。生活の痕跡だけを見れば、つい先ほどまで誰かが普通に暮らしていたと言われても信じられる光景だった。
「逃げた村には見えないな」
アレンが小声で言うと、鈴葉はすぐには返事をしなかった。目を細め、村の入口だけでなく、屋根の向こうや畑の端まで気配を探るように静かに見渡してから答えた。
「……そうね」
「何か分かる?」
「まだ何も。だから、余計に気になる」
山を下りた先にあったのは、荒れ果てた土地でも、火山から逃げてきた人々で溢れる避難地でもなかった。家も畑も道具も残り、暮らしがつい先ほどまで続いていたように見えた。それなのに、人の声も、家畜の鳴き声も、村の鐘の音も聞こえなかった。
アレンは開いた門の奥を見つめた。そこにあったのは、誰かがついさっきまで暮らしていたように見えたのに、生活から声だけが抜け落ちてしまったような村だった。
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