第四章 第三十四話 火山の眠り
不死鳥が火山の方角へ消えてからも、アレンたちはしばらく円形の窪地に残っていた。岩壁の上を渡る風は冷たく、昨日まで空気の底にまとわりついていた熱気も薄れていた。地面へ手を当てるまでもなく、山全体から伝わってきていた微かな震えは、昨日までより明らかに弱かった。
「戻るぞ」
ガレスは太陽の位置を確かめるように空を見上げてから、来た道へ顎をしゃくった。約束の時刻まで余裕はあったが、ここで長居する理由はなかった。
「バルドとの約束は昼までだ。山が静かになってるのは気になるが、ここで勝手に条件を変える理由にはならねえ」
「分かってる」
アレンが頷くと、鈴葉も異論を挟まなかった。三人が来た道へ向き直ると、窪地まで続いていた白金色の炎は、すでにところどころで細くなり始めていた。行きには風にも揺れなかった火が、帰りには朝の光へ溶けるように少しずつ透明になっていた。
「消えるのか」
「役目が終わったんでしょうね」
鈴葉の言葉どおり、谷間を戻る間にも炎はところどころで途切れ、朝の光の中へ消えていった。ただ、火が消えても下から現れた古い石畳は残っており、灰に埋もれていた道そのものまで失われるわけではなかった。アレンは一度だけ振り返ったが、不死鳥の姿はもう見えず、岩壁の向こうには薄い灰色の空だけが広がっていた。
◇
帰路で最初に気づいたのは、音の少なさだった。昨日までなら、少し歩くたびに地の底から低い唸りが響き、遠くで岩が崩れるような音が混じっていた。だが今は、自分たちの足音と風が岩肌を撫でる音の方がはっきり聞こえた。蒸気を噴いていた亀裂も勢いを失い、白い息を細く吐く程度になっていた。
「止まったわけじゃないな」
ガレスは亀裂の一つを見下ろし、噴き出す蒸気の弱さを確かめた。熱そのものは残っていたが、昨日までの荒々しさはなかった。
「まだ熱はある。でも、昨日までとは違う」
「不死鳥が言ってた。燃えるべき時と、眠るべき時があるって」
「山も眠るのか?」
アレンが口にすると、鈴葉は少し考えてから山の方角へ一度目を向けた。すぐには断定せず、様子を確かめてから言葉を続けた。
「本当に眠るわけじゃないと思う。でも、あの言い方なら、少なくとも今は大きく動く時じゃないってことなんでしょうね」
「また起きることもある?」
「火山なら、あるでしょうね。不死鳥だって『終わった』とは言ってなかったもの」
静かになったから安全になったと決めつけるのは、ここ数日の出来事から何も学んでいないのと同じだった。アレンがその答えを噛みしめながらさらに下ると、昨日まで灰に埋もれていた岩の隙間から、小さな虫が一匹、ゆっくり這い出してきた。少し先では黒い岩棚の上に一羽の小鳥が降り、周囲を警戒しながら何度か嘴で地面をつついていた。
「戻ってきてる」
アレンが言うと、鈴葉は小鳥を驚かせないよう声を落とした。視線は小鳥だけでなく、周囲の岩場や空にも静かに向けられていた。
「動物は人間より早く変化を感じることがあるわ。逃げてたものが戻り始めてるなら、それも一つの兆しね。ただ、それだけで山の状態を決めることはできないけど」
三人はそれ以上足を止めず、商隊の待つ本道へ向けて歩き続けた。静まりつつある山の気配を確かめながらも、誰もそれを完全な安全の証とは受け取らなかった。
◇
商隊の野営地へ戻ったのは、正午を迎える少し前だった。六台の荷馬車はすでに出発できる状態に整えられ、ニアが周囲を警戒しながら待っていた。ローデンとミックも荷の固定を終えていた。
「時間どおりだな」
バルドは三人の姿を確認すると短く頷いた。全員の無事を見て取ると、すぐに報告を促した。
「で?」
アレンは、炎の道が古い石畳を掘り出して円形の窪地へ続いていたこと、その場所で不死鳥と話したこと、そして山の揺れや蒸気が弱まっていることを順番に説明した。バルドは途中で口を挟まず、最後まで聞いてから火山を見上げた。
「確かに灰も減ってる」
空を覆っていた灰色の膜は薄くなり、風が吹けばところどころ青空が覗くまでになっていた。御者の一人も馬の鼻先を撫でながら、朝から馬たちが落ち着いていたと付け加えた。
「だからって、ここに長居する理由はねえな。静かなうちに山裾を抜ける。火山が本当に寝たのか、寝たふりしてるだけなのか、俺たちには分からん」
バルドはそう告げてからもう一度火山を見上げた。山の様子をしばらく確かめたあと、今度は鈴葉へ顔を向けた。
「一つだけ聞く。不死鳥が山を鎮めたのか?」
「分からない。不死鳥が山の方角へ飛び去ったことと、火山が静まり始めたことは同じ時期に起きてる。でも、それだけで不死鳥が鎮めたとは言えないわ。もともと静まる時だった可能性もあるし、私たちが知らない別の理由があるかもしれない」
「神獣でも分からねえか」
「分からないことを分かったふりする方が危ないもの」
バルドは鈴葉をしばらく見たあと、納得したように短く笑った。それ以上、原因を無理に聞き出そうとはしなかった。
「そりゃそうだ」
「だから、静かなうちに離れるって判断でいいと思う」
「神獣にそう言われりゃ、なおさらだ」
出発の号令がかかると、護衛たちはそれぞれの位置へ戻った。アレンと鈴葉は再び商隊の中央へ入り、ガレスは先頭へ向かった。御者たちも手綱を取り、静まり始めた火山を背に、六台の荷馬車がゆっくりと本道を進み始めた。
◇
昼を過ぎる頃には、火山から遠ざかっていることが景色からも分かるようになった。黒い岩ばかりだった地面に土の色が戻り、灰をかぶっていた低木の間から緑が覗き始めた。道端には細い水の流れも現れ、馬たちは久しぶりに濁りの少ない水を飲んだ。
途中、数日前に灰が激しく降った場所を通った。道端にはまだ白灰色の層が残っていたが、新しい灰が積もる様子はなく、風が吹くたび古い灰だけが薄く舞った。ニアは空を見上げ、午前中から一度も灰除け布を顔まで引き上げずに済んでいたことに気づいて笑った。御者たちも荷馬車の覆いを少し緩め、詰まっていた灰を払い落としていた。小さな変化ばかりだったが、それらが重なるほど、山の荒れ方が確かに弱まっていることが実感できた。
それでも、アレンは何度か後ろを振り返った。火山は遠くなるほど穏やかに見えた。噴煙は完全には消えておらず、山頂付近にはまだ灰色の雲が残り、時折、細い白煙が空へ上がっていた。それでも、あの赤黒い光も、絶え間ない震えも、地の底を這うような唸りも、もう届いてこなかった。
何度も後ろを振り返るアレンに気づいたのか、鈴葉が歩調を少し合わせた。彼女は前を向いたまま、隣から声をかけた。
「気になる?」
「少し。あれだけ騒いでた山が急に静かになると、逆に変な感じがする」
「分かる。でも、静かになったことまで疑ってたら何も進めないわ」
「安全だって決めつけるなって言ったのは鈴葉だろ」
「決めつけるなとは言ったけど、全部疑えとは言ってない」
「難しいな」
「慣れなさい」
アレンは苦笑しながら前を向き、鈴葉と並んで歩き続けた。その後も新たな地鳴りや灰の降下はなく、商隊は少しずつ火山との距離を広げていった。
夕方が近づく頃、本道は長い下り坂へ入った。火山地帯の高い岩場を抜け、その先には広い低地が見え始めていた。灰に霞んでいた景色の向こうへ、久しぶりに草の色が続いている。後方では火山の頂だけがまだ遠くに見えており、アレンが最後に振り返った時、山腹のどこかで赤金色の光が一度だけ瞬いた。鳥の姿までは見えないほど遠かったが、それが何なのかを確かめようとは思わなかった。
不死鳥は山の方角へ消え、山もまた、燃え尽きたのではなく、次に目を覚ます時まで深く息を潜めているのかもしれない。そう考えると、ここ数日ずっと響いていた地鳴りが消えたあとの静けさが、ようやく自然なものに思えた。アレンは火山から視線を外し、鈴葉と並んで、商隊の列とともに山を下っていった。
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