第四章 第三十三話 二つの神獣
不死鳥の視線は、今度は鈴葉だけを捉えていた。赤金色の瞳には敵意も親しさもなく、ただ相手の内側まで見通そうとするような静けさがあった。鈴葉も目を逸らさず、銀色の髪を朝の風に揺らしながら、その視線を正面から受け止めていた。
「次は、お前だ。銀の狐」
「聞いてるわ」
「なぜ、人の子と歩く」
問いは短かった。けれど、アレンにはその一言が思っていた以上に重く聞こえた。鈴葉はすぐには答えず、隣にいるアレンを見ることもなく、不死鳥だけを見たまま少し考えるように息を吐いた。
「私がそうしたいから」
「役目ではなく?」
「違うわ」
「命じられたわけでもなく?」
「誰にも」
不死鳥の翼の縁で細い炎が揺れた。
「ならば、お前は自ら選んで人の傍らにいるのか」
「そうよ」
鈴葉は迷いなく答えた。その声には、誰かに決められたのではなく、自分で選んだことへの揺らぎがなかった。
◇
アレンは黙って二体のやり取りを聞いていた。昨日、鈴葉は七神獣が一つの意思で動く集団ではないと話していた。目の前で交わされていた言葉は、その説明をそのまま形にしたようだった。
「理解できぬ」
不死鳥が言った。
「人は短命だ。変わり、迷い、時に自ら決めたことさえ忘れる。その歩みに神獣が長く寄り添う理由は薄い」
「あなたはそう思うのね」
「お前は違うのか」
「違う」
鈴葉は即答した。
「私は、人と関わること自体を自分の役目から外れたことだとは思ってない。自然の中には人もいるもの。全部を遠くから眺めるだけが、私のやり方じゃない」
不死鳥は口を挟まず、その先を促すように鈴葉を見つめていた。
「短いから意味がないとは思わない。変わるから価値がないとも思わない。迷うことも、間違えることもある。でも、それでも誰かと一緒に歩くことを選べるなら、その時間には意味がある」
「その人の子が、お前の役目を妨げるとしても?」
「その時は私が決める」
「情に流される可能性がある」
「あるでしょうね」
鈴葉はあっさり認めた。
「でも、何も感じないことだけが正しい判断じゃないわ。役目があるからって、心まで捨てる必要はない」
アレンは思わず鈴葉を見た。彼女はいつもと同じ穏やかな表情をしていたが、その声には普段より強い芯があった。不死鳥はしばらく何も言わず、岩壁の上では炎だけが静かに揺れていた。
◇
「お前は変わった」
やがて不死鳥がそう告げると、鈴葉の眉がわずかに動いた。驚いたというより、その言葉の意味を測ろうとしているようだった。
「前の私を知ってるみたいな言い方ね」
「知っている」
「どこまで?」
「答える必要はない」
「そういうところ、グリフィンと似てるわね」
「同列にするな」
初めて、不死鳥の声にわずかな不満が混じった。アレンが思わず口元を緩めると、不死鳥の視線が一瞬だけこちらへ向いた。
「笑うところではない」
「悪い」
「全然悪いと思ってないでしょ」
鈴葉に言われ、アレンは口を閉じた。重かった空気が少しだけ和らいだが、不死鳥はすぐに鈴葉へ視線を戻した。
「以前のお前は、もっと距離を置いていた」
「昔の話でしょ」
「神獣にとって、昔と今の境は人ほど明確ではない」
「だからって、ずっと同じでいろっていうの?」
「そうは言っていない」
「なら、変わったっていいじゃない」
そう言って、鈴葉はそこで初めてアレンを見た。その視線には迷いも気負いもなく、ただ自分の選択をそのまま示そうとする静かな強さがあった。
「私はこの人に出会って、旅をして、いろんなものを見た。それで考え方が変わったなら、それも私の選んだ結果よ」
アレンは何か返そうとしたが、言葉が出なかった。鈴葉が自分との旅をそんなふうに捉えていたことが少し意外で、その反応を読んだように彼女はすぐ目を細めた。
「別に、変な意味じゃないからね」
「何も言ってない」
「顔に出てる」
「出てないだろ」
そのやり取りを見ていたガレスが小さく咳払いし、二人へ呆れたような視線を向けた。
「お前ら、今は神獣同士の話の途中だぞ」
二人は顔を見合わせ、それ以上は何も言わなかった。
◇
不死鳥はそのやり取りを見ても表情を変えず、赤金色の瞳を再び鈴葉へ向けた。
「人と関われば、神獣もまた影響を受ける」
「それが嫌?」
「良いとも悪いとも言っていない。変化には代価があると言っている」
「分かってる」
「本当にか」
「あなたまでそれ言うの?」
鈴葉が露骨に嫌そうな顔をすると、不死鳥の炎がわずかに揺れた。笑ったのかどうか、アレンにはやはり分からなかった。
「人の子よ」
「今度は俺?」
「銀の狐が自ら選んでお前と歩いていることを忘れるな」
アレンは一瞬、答えに詰まったが、不死鳥から目を逸らさなかった。
「……忘れない」
「守られているだけだと思うな。守るだけだとも思うな」
その言葉に、鈴葉が不死鳥を見た。
「それ、どういう意味?」
「互いに歩くなら、片方だけが与える関係では長く続かぬ」
アレンは黙ってその言葉を受け止めた。これまで鈴葉に助けられたことは何度もある。逆に、自分が彼女のために何を返せているのかと聞かれれば、すぐには答えられなかった。
「……覚えておく」
「覚えるだけでは足りぬ」
「厳しいな」
「甘さを求めるなら、私に問うな」
その返しに鈴葉は小さく笑った。
「そこは昔から変わってないのね」
「お前も口だけは変わっていない」
「喧嘩売ってる?」
「事実を述べただけだ」
今度はアレンだけでなく、ガレスまで口元を押さえていた。
◇
しばらくして、不死鳥は翼をゆっくり広げた。白金色の炎が羽根の隙間を走り、朝の空気が一段温かくなった。
「問いは終わりだ」
鈴葉は少しだけ目を細めた。
「それだけ?」
「何を期待した」
「もう少し何かあるかと思っただけ」
「お前が人の傍らを選んだ理由は聞いた。それで足りる」
不死鳥はそう言うと、窪地の外、火山の方角へ顔を向けた。その直後、足元の岩がごく小さく震え、アレンとガレスは同時に姿勢を低くした。だが、昨日までの不規則で荒い揺れとは違った。地の底から響いていた唸りは弱く、一度震えただけで、それ以上続かなかった。
「今のは……」
鈴葉が山を見た。遠くの火口上空に残っていた赤黒い雲は、朝の風に押されるように少しずつ薄くなっていた。岩の隙間から立ち上っていた蒸気も、昨夜より明らかに少なかった。
「山が静かになってる?」
アレンが呟くと、不死鳥はすぐには答えなかった。
「火は燃え続ければよいものではない」
やがて低い声が落ちた。
「燃えるべき時があり、眠るべき時がある」
「火山のことか?」
「見れば分かる」
それだけ告げると、不死鳥は翼を大きく打った。熱い風が窪地を走り、灰が円を描いて舞い上がる。赤金色の巨体は岩壁を越え、そのまま火山の方角へ上昇していった。
鈴葉は、その姿が小さくなるまで見送っていた。赤金色の光が山側の空へ溶けるのを待ってから、アレンはようやく隣へ声をかけた。
「やっぱり、仲がいいようには見えなかったな」
鈴葉は腕を組んだ。
「悪くもないわよ」
「それで?」
「長く知ってる相手って、ああなることもあるの」
「俺には分からない世界だな」
「そのうち分かるかもね」
鈴葉はそう言って歩き出した。アレンも後を追おうとしたが、その前にもう一度だけ火山を振り返った。ここ数日、絶えず灰と熱と低い唸りを吐き続けていた山は、今、初めて静かに見えた。
完全に何かが終わったわけではない。それでも、荒れ続けていた巨大なものがようやく深い息を吐き終えたような静けさが、山全体を覆い始めていた。
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