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セイクリッドボーン  神獣と忘れられた血  作者: 鈴木 明
第四章 灰の大地と二つの翼
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第四章 第二十二話 灰の雨

夜明け前から降り続いていた灰は、朝になっても止まなかった。


 アレンが目を覚ました時、荷馬車の幌も岩場も、昨夜とは別の景色になっていた。黒灰色だった地面の上にはさらに新しい灰が積もり、足を踏み出すたびに細かな粉が靴の周囲へ広がる。空は雲に覆われているわけではない。それでも山の方角から流れてくる灰が薄い幕を幾重にも重ね、朝の光を白く濁らせていた。


「雨みたいだな」


 アレンが外套の肩に積もった灰を払うと、鈴葉は髪へ落ちた灰を指先で落とした。


「濡れない雨ね。こっちの方が厄介かもしれないけど」


 息を吸うだけで喉の奥がざらつく。王都を出る前に用意した灰避けの布を口元へ巻き、水袋の口がきちんと閉じていることを確認した。周囲では御者たちも同じように顔を覆い、馬の目や鼻の周りへ積もった灰を濡らした布で拭っている。


 バルドは空と火山を交互に見たあと、全員を荷馬車のそばへ集めた。


「昨夜より降り方が強い。だが、今のところ道は残ってる。午前中は動く。ただし、いつもの速度は出さねえ」


「山は?」


 ガレスが尋ねた。


「朝から大きな揺れはない。地鳴りも止まってる」


「なら、落ち着いたってことか?」


「そう決めるには早い」


 バルドはそう言って、足元の灰を靴先で軽く払った。


「灰は増えてる。山が静かだから安全とは限らねえ。前が見えなくなったら止まる。馬が嫌がったら止まる。道が消えたら、絶対に勘で進むな」


 誰も異論を挟まなかった。


◇


 六台の荷馬車は、いつもより間隔を詰めて進んだ。先頭を行くガレスとニアが道の縁を確かめ、中央のアレンと鈴葉は左右の斜面と馬の様子を見る。後方ではローデンとミックが最後尾の車輪を何度も確認していた。


 灰は雪のように柔らかくはなかった。乾いた軽い粒が風に乗り、顔や首筋へ入り込む。荷車の車輪が通るたび、積もった灰が低く舞い上がり、その中へ新しい灰がまた降ってくる。少し前まで見えていた轍さえ、短い時間で薄れていった。


「右、寄りすぎ!」


 ニアの声が前方から飛んだ。


 先頭の御者が慌てて手綱を引く。灰の下には道と同じ色をした浅い崩れ跡が隠れており、右輪があと半歩ずれていれば斜面側へ取られていた。


 アレンは近くまで行き、靴先で灰を払った。下から割れた岩と乾いた土が現れる。


「昨夜の揺れで?」


「分からない」


 ニアは首を振った。


「前から崩れてた場所に灰が積もっただけかもしれない。今は見えなくなることの方が危ない」


 その言葉の通りだった。灰そのものが襲ってくるわけではない。だが、道の境目も石の凹凸も、古い亀裂も隠してしまう。危険が消えるのではなく、見えなくなる。


 それから商隊はさらに速度を落とした。数十歩進むたびに先頭が足元を確かめ、荷馬車がそこを通り終えるまで次へ進まない。時間はかかったが、焦って車輪を壊すよりはましだった。


 やがて鈴葉が足を止めた。


「アレン、聞こえる?」


 アレンも立ち止まり、灰の中へ耳を澄ませた。最初は風しか聞こえなかったが、しばらくすると、どこか遠くで硬いもの同士がぶつかるような音がした。


「岩?」


「たぶん」


 直後、左手の斜面から小さな石がいくつか転がり落ちてきた。大きな崩落にはならなかったが、バルドは迷わず全員を道の反対側へ寄せた。


「ここは抜ける。休むなら先だ」


 商隊は止まらず、その一帯を慎重に通り抜けた。


◇


 昼前には、灰の降り方がさらに強くなった。


 空を見上げても青さはほとんどなく、遠くの山肌は輪郭しか見えない。口元の布はすぐに灰でざらつき、何度も水で湿らせ直す必要があった。馬たちも鼻を鳴らす回数が増え、歩調が乱れ始めていた。


 バルドは岩壁が少し張り出した場所を見つけると、そこで商隊を止めた。


「ここで昼まで待つ」


「進まないの?」


 ミックが尋ねた。


「この先は道が細くなる。今の視界で入る方が馬鹿だ」


 御者たちはすぐに馬の口元と目の周りを拭き、水を少しずつ与えた。幌の上にはすでに指の節ほどの灰が積もっており、放っておけば重みで布がたわむ。アレンたちも手分けして屋根の灰を払い落とし、縄や車軸へ入り込んだ粉を布で拭った。


 作業の途中、アレンは灰の向こうに人影を見つけた。


「誰か来る」


 全員が顔を上げる。


 山側から、三人の旅人が歩いてきた。頭から灰を被り、顔の半分を布で覆っている。うち一人は肩を貸され、足を引きずっていた。


 ガレスとニアが前へ出たが、武器は抜かなかった。


「どこから来た?」


 バルドが尋ねると、先頭の男は荒い息の合間に火山側を指した。


「上の道だ。二週間前に崩れた北の旧道、その手前まで行ってた。朝から灰がひどくなって、引き返してきた」


「怪我は?」


「岩に足を取られた。折れてはいないと思う」


 鈴葉とアレンが近づき、足を確認した。足首は腫れていたが、骨が不自然に曲がってはいない。応急的に布と木片で固定すると、男は何度も礼を言った。


「旧道には他にも人がいるのか?」


 バルドが聞く。


「いる。俺たちだけじゃない。火山の様子を見に行った連中が何組か」


 アレンは顔を上げた。


「崩れてる道を?」


「崩落したのはもっと上だ。途中までは入れる。麓の集落から来た奴らもいて、灰が増えた理由を確かめたいって言ってた」


「火口まで行くつもりなのか?」


 男はすぐには答えなかった。


「少なくとも、そっちへ向かってた。崩れた先をどう越えるつもりかまでは知らない」


 灰が荷馬車の幌を細かく叩く音だけが、しばらく周囲に残った。


◇


 三人の旅人には商隊の予備の水を分け、足を痛めた男は空いている荷台の端へ乗せることになった。彼らは西へ下る途中で、次の分岐までなら同じ道を進めるという。


 バルドは地面へ広げた簡単な道図を灰から守るよう片手で押さえながら、旅人の一人へ確認した。


「北の旧道は、崩れた場所まではまだ通れるんだな?」


「ああ。昔は採掘に使ってた道だ。崩落地点までは歩けるし、火口側へ上がるなら今もあれが一番近い。ただ、その先はまともな道じゃない」


「今朝、そこへ入った奴らを見たんだな?」


「ああ。少なくとも七、八人。村の連中もいた」


 バルドは黙り込み、ガレスも険しい顔で山の方角を見た。


「止めに行く?」


 ミックが言うと、バルドはすぐに首を振った。


「俺たちの仕事は荷を届けることだ。勝手に道を外れるわけにはいかねえ」


 正しい答えだった。それでも、灰が増え続ける中で、崩落した旧道を通って火口側へ向かった者たちがいるという事実は、誰の胸にも引っかかった。


 鈴葉がアレンの隣で小さく息を吐いた。


「気になる顔してる」


「そりゃ気になるだろ」


「でしょうね」


「でも、今すぐ追うとは言ってない」


「そこは成長したわね」


「だから子供扱いするなって」


 鈴葉がわずかに笑った。


 昼を過ぎても灰は止まなかった。むしろ風が吹くたびに降り方が強まり、山の輪郭はさらに遠ざかって見えた。バルドはしばらく空を見たあと、この日は予定より早い時刻に野営へ入ることを決めた。


 商隊が再び動き出す頃には、道も荷馬車も人の肩も、同じ灰色に染まり始めていた。アレンは口元の布を直しながら、一度だけ北の旧道が分かれる方角を見た。灰の向こうには何も見えない。ただ、崩落した道の先へなお進もうとしている者たちがいるという話だけが、降り続く灰の中に重く残っていた。

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