第四章 第二十一話 山が鳴く夜
グリフィンが山の方角へ飛び去ってから、野営地には再び夜の静けさが戻った。
アレンは金属の羽根を荷の奥へしまい直したあと、焚き火の近くへ戻った。夕食は硬いパンと塩漬け肉、それに薄い豆の煮込みだった。風は弱く、灰も昼間ほど舞っていなかった。ローデンとミックは交代の見張り順を確認し、ニアは弓弦に灰が入り込んでいないかを確かめていた。ガレスは火のそばで槍の穂先を布で拭き、バルドは翌日の道程を御者たちと短く相談していた。
表面だけを見れば、いつもの野営と変わらなかった。それでもアレンの頭には、グリフィンの言葉が残っていた。羽根を知っていること。自分が持っているのを偶然とは思っていないこと。そして、語れない理由があること。
「まだ考えてる?」
隣へ座った鈴葉が、煮込みの器を手にしたまま聞いた。
「少しだけ」
「少しだけって顔じゃないわね」
「でも、今は答えを決めつけてない」
「そこは偉い」
「子供扱いしてない?」
「してないわよ。たぶん」
「今の絶対してるだろ」
鈴葉が小さく笑った、その時だった。地面の下から低い音が響いた。最初は遠くで岩が崩れたのかと思ったが、音は一度で終わらず、野営地の下をゆっくり這うように続いた。焚き火の炎が揺れ、水の入った鍋の表面に細かな波紋が広がる。荷馬車の脇へ吊った水袋まで、誰も触れていないのにわずかに揺れた。
アレンと鈴葉は同時に立ち上がった。
「今の……」
「地面から」
ガレスも槍を手にし、ニアは火山の方角へ顔を向けた。その直後、足元がごくわずかに震えた。
◇
「全員、荷馬車から離れすぎるな!」
バルドの声が野営地へ飛んだ。
御者たちは馬の手綱を確かめ、ローデンとミックは荷車の車輪止めを見直した。揺れそのものは強くない。立っていられないほどでもなく、荷物が崩れるほどでもなかった。それでも、王都でバルドから聞いた「最近、小さな揺れが増えている」という話が、アレンの頭に蘇った。
「これも、最近増えてるって言ってた揺れ?」
アレンが尋ねると、バルドはすぐには頷かなかった。
「揺れだけならな」
「だけなら?」
「音が長い」
バルドは地面へ片膝をつき、掌を灰の上へ当てた。
「麓じゃ小さな震えは珍しくねえ。最近は確かに増えてた。だが、こんなふうに地の底で音が長く続くのは、俺も何度も聞いたことはない」
「危ない?」
「今のだけで決めるな。揺れが強くなるのか、これで終わるのかも分からねえ。ただ、崖際と細い谷道は避けた方がいい」
断定する口調ではなかった。知らないものを知っているように言わない。その慎重さに、アレンは余計な想像を飲み込んだ。
やがて最初の震えは収まり、野営地に静けさが戻ったが、誰もすぐには元の作業へ戻らなかった。馬たちは落ち着かず、何度も鼻を鳴らしている。遠くの岩場にいた小さな灰色の鳥も一斉に飛び立ち、夜空の東側へ消えていった。数羽ではない。岩陰に隠れていたものまで次々と飛び出し、山から離れるように低い空を流れていく。
「逃げてるのかな」
ミックが呟いた。
「そう見えるだけかもしれない」
ニアが答える。
「でも、今夜は上をよく見た方がいい」
その言葉にミックが頷いた。アレンも空を見上げたが、グリフィンの姿はなかった。
バルドは焚き火の周囲を一度見回し、御者たちへ火のそばに余分な荷物を置かないよう指示した。大きな揺れが来た時、慌てて足を取られないためだ。六台の荷馬車も改めて車輪止めを確認され、馬の綱はすぐ外せるよう結び直された。野営地は眠るための場所から、何かが起きた時にすぐ動ける場所へ変わっていった。
◇
夜が深くなるにつれ、山はもう一度鳴った。今度の音は先ほどより近く、ゴォォ……という風の音にも似ていたが、震えているのは空気ではなく岩そのものだった。野営地を囲む岩壁から細かな砂がぱらぱらと落ち、荷馬車につながれた金具がかすかに鳴る。馬の一頭が前脚で地面を掻き、御者がすぐに首筋を撫でて落ち着かせた。
鈴葉は地面へ手を置き、目を閉じた。
「どう?」
アレンが聞く。
「普通の足音じゃない。大きな生き物が歩いてる感じでもないわ」
「じゃあ、山?」
「少なくとも、音はもっと深いところから来てる。でも、それ以上は分からない」
鈴葉が手を離すと、アレンは火山へ目を向けた。峰は夜の闇に沈み、輪郭しか見えない。数日前には遠雷のような音と赤い光を見た。二日前には火口の方角から咆哮を聞いた。そして今夜は、地面そのものが低く鳴っている。それらがすべてつながっているのかは、まだ分からなかった。
「飛行魔獣の時みたいに、何かが山から出てくる可能性は?」
ガレスが尋ねた。
「分からん」
バルドは火山から視線を外さなかった。
「だから決めつけるな。地面なら地面、空なら空を見る。今分かってる危険だけ潰せ」
ガレスが短く頷くと、バルドは焚き火を少し弱め、見張りを二人ずつに増やした。
「道が崩れるような揺れが来たら、すぐ全員を起こせ。馬が暴れ始めてもだ」
「進むのは?」
ローデンが尋ねる。
「夜中に動く方が危ねえ。今はここで待つ。朝になって道と山を見てから決める」
誰も反対しなかった。その後も地鳴りは一定の間隔では来ず、すぐ次が響くこともあれば、長い静寂が続くこともあった。規則性がないせいで、かえって誰も完全には気を緩められなかった。
◇
アレンは最初の見張りを終えたあとも、なかなか眠れなかった。外套を肩まで引き上げ、荷馬車の脇で横になっていても、地面から伝わるわずかな振動に何度も意識を引き戻される。隣では鈴葉もまだ目を閉じていなかった。
「寝てないの?」
「アレンこそ」
「山が気になって」
「私も」
二人の間にしばらく沈黙が落ちた。その静けさを破るように、やがて今までで最も低い音が遠くから響いた。それは咆哮には聞こえなかった。獣の声ではなく、巨大な空洞の中を何かが通り抜けていくような、長く重い響きだった。足元の灰がわずかに震え、焚き火のそばに置かれた空の器が小さく鳴る。
アレンは身を起こし、暗い火山へ目を向けた。
「山が……鳴いてるみたいだな」
自分でも妙な言い方だと思ったが、鈴葉は笑わなかった。
「そう聞こえるわね」
二人が火山を見つめていると、山の上空を覆っていた雲が一瞬だけ薄れた。月明かりの下、火口に近い斜面から細い灰色の筋が立ち上っているのが見える。アレンが鈴葉を見るより先に、彼女も小さく頷いた。
「見えてる」
煙なのか、灰なのか、ここからでは分からない。ただ、昼間にはなかったものだった。バルドも起き上がり、その灰色の筋をしばらく黙って見つめた。
「朝まで増えなきゃいいが」
「増えたら?」
「道を見る。それから決める」
今夜だけで何度も聞いた答えだった。分からないうちは、分からないまま備える。それ以上を問い詰めても、まだ答えはない。アレンも黙って火山へ視線を戻した。
ほどなくして風向きが変わり、冷たい何かがアレンの肩へ触れた。指先で拾い上げると、それは細かな灰だった。続いてもう一粒が鈴葉の髪へ落ち、さらに二つ、三つと暗闇の中を漂いながら地面へ降りてくる。二人が空を見上げても、夜空はまだ見えていた。雨と呼べるほどではない。それでも、風に運ばれてくる灰の数はゆっくりと増え続けていた。
いつの間にか、山の低い響きは止んでいた。代わりに、灰が外套や荷馬車の幌へ触れるかすかな音だけが夜の静けさに混じっている。アレンは肩に積もった薄い灰を払わなかった。闇の中に沈む火山の輪郭を見つめながら、鳴き止んだ山が次に何を見せるのか分からないまま、その静けさだけを聞いていた。
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