第四章 第十八話 あの日の影
グリフィンの名を知ったその日、商隊は日暮れまでに岩棚の陰へ野営地を定めた。巨大な神獣が姿を見せたことで、護衛たちの警戒はむしろ強まっていたが、夜の間に新たな異変は起きなかった。火口の方角から咆哮が届くこともなく、飛行魔獣が戻ってくることもない。風がときおり灰を運び、荷馬車の幌を乾いた音で撫でていくだけだった。
翌朝、六台の荷馬車は薄い灰の積もった街道を再び西へ進み始めた。黒灰色の岩山と乾いた斜面が続き、遠くの火山には薄い雲がかかっている。前日に目の前へ降り立ったグリフィンの姿は、アレンの中にまだ鮮明に残っていた。子供の頃に母から聞いた「空を駆ける翼ある王」が本当に存在していた。それだけでも十分に大きな出来事なのに、もう一つだけ確かめたいことがある。
「まだ気にしてるでしょう」
隣を歩く鈴葉が言った。
「何を?」
「王都の手前で見た影」
図星を指され、アレンは少しだけ黙った。
「昨日の姿を見たら、余計にな」
「似ていたものね」
「でも、似てるだけじゃ同じとは言えない」
「よく覚えてるじゃない」
「誰かさんに何度も言われたからな」
鈴葉は小さく笑ったが、それ以上は何も言わなかった。彼女自身も、昨日までは同じ存在だと断定していない。だからこそ、アレンも答えを急がずにいた。
◇
昼前になると、街道は長い坂を上り、周囲の岩山より少し高い尾根へ出た。視界が一気に開け、東へ振り返れば、これまで越えてきた山並みが幾重にも重なって見える。王都そのものはもう遠すぎて見えないが、自分たちがどの方向からここまで歩いてきたのかは分かった。
バルドは尾根の上で短い休憩を取ることにした。馬へ水を与え、御者たちが車輪や荷紐を確認している間、アレンは街道脇の岩に腰を下ろした。ガレスとニアは周囲を見張り、ローデンとミックは最後尾の荷馬車についた灰を払い落としている。前日の飛行魔獣の襲撃もあり、誰も完全には気を抜いていなかった。
「ここまで来ると、王都もずいぶん遠いな」
「何日も歩いたんだから当然でしょう」
「分かってる。でも、あの時はまだ火山のことも、グリフィンのことも知らなかった」
鈴葉は答えず、東の空を眺めた。
その時、遠くで低い風切り音がした。ニアが先に顔を上げ、続いてガレスも空を見る。馬たちが耳を動かしたが、昨日ほど怯える様子はない。アレンも立ち上がり、音のした方角へ目を向けた。
東の空に、一つの影があった。
遠い。だが、もう見間違えるほど小さくはない。大きく広げられた二枚の翼、獣の胴体、長い尾。グリフィンだった。
「戻ってきた」
アレンが呟いた。
グリフィンは街道へ降りる様子を見せず、高い位置を保ったまま西へ進んでいた。大きく翼を打ったあと、長く空を滑るように進み、ほとんど高度を変えない。その飛び方を見ているうちに、アレンの胸の奥で古い記憶が重なり始めた。
「……待って」
「どうしたの?」
「飛び方」
鈴葉がアレンを見る。
「王都へ向かう途中で見た時も、あんなふうに……」
言いながら、アレンは言葉を止めた。細かな羽ばたきの回数まで覚えているわけではない。ただ、巨大なものが高空を横切り、ほとんど高度を変えずに遠ざかっていったあの感覚が、目の前のグリフィンの飛び方と重なった。
次の瞬間、グリフィンが尾根の上空へ差しかかった。ちょうど太陽の手前を横切り、その巨体から色が失われる。金茶色の羽毛も獣の胴も逆光の中へ沈み、空には巨大な黒い輪郭だけが残った。大きく広げられた翼と、その間を貫くように伸びた身体。高空を滑るように進むその姿を見た瞬間、アレンは息を呑んだ。
王都へ向かう途中で見上げた、あの日の影と同じ輪郭だった。
あの時は正体も形も分からず、巨大な何かが空を横切ったとしか捉えられなかった。だが今は、逆光の中に浮かぶ輪郭の一つ一つが、昨日間近で見たグリフィンの姿と重なっている。
「鈴葉」
「ええ」
鈴葉も空から目を離さなかった。
「私も、今ので分かった」
「じゃあ……」
「王都へ向かう途中で見た影は、グリフィンよ」
アレンはもう一度、空を横切っていく巨体を見上げた。長く引っかかっていた記憶が、ようやく目の前の存在へつながった。
◇
グリフィンは尾根の真上を通り過ぎると、そのまま西へ向かった。商隊を見下ろしたのかどうかまでは分からない。声を上げることも、降りてくることもなく、巨大な翼を広げたまま火山の方角へ進んでいった。
「じゃあ、あの日は本当に王都の近くを飛んでたんだな」
「そういうことになるわね」
「この山からずっと飛んでいったのかな」
「そこまでは分からない。あの日どこから来て、どこへ向かっていたのかまでは見てないもの」
「王都の近くを飛んでいた理由も?」
「もちろん分からない」
「だよな」
アレンは遠ざかるグリフィンを見つめた。あの日の影については一つ答えが出た。しかし、なぜあの場所を飛んでいたのか、なぜ今この火山周辺にいるのか、火口から届いた咆哮と関係があるのか――その先には、まだ確かめられていないことが残っている。
「何だろうって、ずっと思ってたんだ」
アレンが言うと、鈴葉は少しだけ首を傾けた。
「分かったら満足?」
「少しは。でも、今度は何で王都の近くを飛んでたのか気になる」
「やっぱりそうなるのね」
「仕方ないだろ」
「分からないものを急いで答えにしないなら、別にいいわ」
「もうそれは分かってるよ」
「本当に?」
「たぶん」
「そこは言い切って」
鈴葉が呆れたように息を吐き、アレンは小さく笑った。
◇
休憩を終え、商隊は再び西へ進み始めた。尾根を下る街道の先には黒い山肌が続き、その向こうに火山の峰が大きく見えている。グリフィンの姿は次第に小さくなり、やがて薄い雲の中へ消えた。
アレンは歩きながら、王都へ向かう途中で初めてあの影を見た時のことを思い返した。あの時は、空を横切ったものが何なのか分からず、その途方もない大きさだけが強く記憶に残った。今は、その影にグリフィンという名前がある。
山の向こうで、巨大な翼が一度だけ雲の切れ間に現れ、すぐに見えなくなった。あの日、王都へ向かう途中で見上げた影は、確かにグリフィンだった。アレンはその事実を静かに受け止めながら、まだ理由の分からない翼の行方を追うように、西へ続く街道を歩き続けた。
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