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セイクリッドボーン  神獣と忘れられた血  作者: 鈴木 明
第四章 灰の大地と二つの翼
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第四章 第十七話 神獣グリフィン

巨大な翼が雲の向こうへ消えてからも、アレンはしばらく空を見上げたままだった。商隊は止まらず、六台の荷馬車は灰の積もった街道をゆっくり西へ進み続けていた。先ほど尾根の上で見た巨体はもうどこにも見えなかった。それでも、鋭い嘴、獣のような後半身、岩へ食い込んだ巨大な鉤爪、そして空そのものを覆うように広がった翼は、目を閉じればすぐに思い出せるほど鮮明に残っていた。


「鈴葉」


 アレンがもう一度呼ぶと、隣を歩く鈴葉は前を向いたまま小さく息を吐いた。


「分かってる。さっきの話でしょう?」


「見覚えがあるって言ったよな」


「言ったわ」


「今も、まだ言えない?」


 鈴葉はすぐには答えなかった。街道の先ではガレスとニアが周囲を警戒しながら進み、後方のローデンとミックも何度か空を確認していた。バルドは御者たちへ声をかけ、馬の歩調が乱れていないかを見ていた。誰もが先ほどの存在を気にしていた。それでも、その正体について何か知っていそうなのは鈴葉だけだった。


「姿だけなら、ほとんど間違いないと思う」


「じゃあ――」


「でも、名前を口にするなら、もう少しだけ確かめたい」


 鈴葉の声は慎重だった。アレンは問いを重ねかけたが、すぐにやめた。ここまで来て、曖昧なものを無理に答えへ変える必要はない。それは自分自身が何度も学んできたことだった。


◇


 日が西へ傾き始めた頃、街道は岩山の間から少し開けた場所へ出た。黒灰色の斜面の向こうに広い空が見え、そのさらに奥には火山の峰が大きくそびえていた。バルドは近くに風を避けられる岩棚があるのを確認し、そこで短い休憩を取ることにした。


 馬へ水を与え、幌や縄を確認している間、アレンは鈴葉と少し離れた場所に立った。遠くの空には小さな鳥すら見えなかった。


「七神獣の話、覚えてる?」


 不意に鈴葉が尋ねた。


「母さんから聞いた話?」


「そう」


「忘れるわけないだろ」


 アレンは子供の頃の記憶を辿った。炎の中から蘇る不死鳥。空を駆ける翼ある王。森を巡る狐。水の底を渡る蛇。大地を支える巨獣。そして麒麟と、愛と平和を象徴する最後の存在。幼い頃はどれも遠い物語の中にしかいなかった。それが今では、その一体である鈴葉が自分の隣に立っている。


「空を駆けるものの話も覚えてる?」


「翼のあるやつだろ。山より高く飛んで、嵐の上を渡るって母さんが言ってた」


 鈴葉は静かに頷いた。


「私が覚えてる姿も、それに近い」


 アレンは彼女の横顔を見た。


「じゃあ、さっきのが……」


「まだ」


 鈴葉は短く止めた。


「もう一度、ちゃんと見たい」


 その慎重さに、アレンはそれ以上急かさなかった。


 その時、馬の一頭が低く鼻を鳴らし、続いて別の馬も首を上げた。ニアが素早く空を仰ぎ、短く告げる。


「来る」


 全員の視線が同じ方向へ向いた。


◇


 山側の雲の下に、小さな黒い点があった。最初は遠すぎて鳥と区別がつかなかったが、それは数呼吸のうちに急速に大きくなった。翼が一度動くたび、距離が縮まっていく。商隊の護衛たちは武器へ手をかけたものの、バルドがすぐに低く命じた。


「構えるだけにしろ。先に手を出すな」


 黒い点はやがて、これまで何度も目にしてきた巨大な影へ変わった。さらに近づくにつれ、翼の輪郭がはっきりしていく。鋭い嘴、金色に近い瞳、力強い前脚と鉤爪、獣の胴体、長い尾。先ほど尾根で見た存在と同じ姿だった。


 巨大な翼が広がり、街道から少し離れた岩場へゆっくりと降下してきた。地面へ触れる直前、大きく羽ばたいた翼が灰を巻き上げた。前脚が岩に着き、続いて後脚も地面を捉えた。翼はゆっくりと折り畳まれ、その巨体が岩場に落ち着いた。


 馬たちは怯えていたが、飛行魔獣に襲われた時ほど激しく取り乱さなかった。巨大な存在も近づこうとはせず、十数歩ほど離れた場所から商隊を見ていた。


 鈴葉が一歩前へ出た。


「鈴葉?」


「大丈夫。たぶん」


「たぶんって」


「アレンはそこにいて」


 彼女はさらに数歩進み、巨大な存在と向き合った。金色の瞳が鈴葉へ向いた瞬間、その姿勢がわずかに変わった。警戒して身構えるというより、何かを確かめるように、ゆっくりと頭を傾ける。


 鈴葉も動かなかった。長い沈黙のあと、彼女の表情から迷いが消えた。


「……やっぱり」


 アレンが息を詰める中、鈴葉は振り返らず、静かに言った。


「グリフィンよ」


「グリフィン……?」


「七神獣の一体。空を司る神獣、グリフィン」


 その名を聞いた瞬間、アレンの中で幼い頃の物語と目の前の巨体が初めて一つに重なった。


◇


 アレンはしばらく言葉を失っていた。神獣が実在すること自体は、もう知っていた。鈴葉がキツネであると知った時から、母が語っていた七つの物語がただの昔話ではないことも理解していた。それでも、二体目をこうして目の前にすると、知識として受け入れることと、実際に見ることはまるで違った。


「本当に……七神獣なんだな」


「ええ」


「鈴葉と同じ、七神獣の一体」


「そうよ」


 それだけで十分だった。今は、目の前にいる存在の名前を知った。それ以上を一度に理解しようとする必要はない。


 グリフィンは二人のやり取りを理解しているかのように、じっとこちらを見ていた。やがてその視線がアレンへ移ると、彼の背筋は自然に伸びた。金色の瞳には、飛行魔獣のような獰猛さはない。だが、親しげとも言い切れない。測られているような感覚があり、アレンは逃げずにその視線を受け止めた。


「俺は、アレン・ヴェイレン」


 名乗ってから、自分でも何をしているのだろうと思った。相手が人の言葉を理解する保証などない。


 それでも、グリフィンは目を逸らさなかった。


「鈴葉の……仲間だ」


「そこ、ちょっと迷ったでしょう」


「今それ言う?」


 鈴葉が小さく笑った。


 その声に反応したのか、グリフィンが低く喉を鳴らした。昨日、火口の方角から届いた咆哮とは比べものにならないほど小さな音だったが、アレンの胸には重く響いた。


「今の、返事?」


「分からない」


「そこは分からないんだ」


「何でも分かると思わないでって言ったでしょう」


 いつもの調子で返され、アレンは少しだけ緊張が解けた。


◇


 バルドたちは距離を保ったまま、二人とグリフィンを見守っていた。ガレスもニアも武器を下ろしてはいなかったが、今すぐ戦う姿勢ではなかった。


「神獣って、本当にいたんだな……」


 ミックの声が遠くから聞こえた。


 アレンも同じ気持ちだった。ただ、自分の場合はこれが二体目だ。それでも驚きは薄れなかった。


 グリフィンはしばらくアレンと鈴葉を見たあと、山の方角へ顔を向けた。遠くの火山は灰色の霞に覆われ、頂上近くの輪郭は見えなかった。そのまま一度だけ空を仰ぐと、再び巨大な翼を広げた。


「もう行くのか?」


 思わずアレンが言った。


 グリフィンは振り返らなかった。巨大な翼が一度、二度と空気を打ち、灰を巻き上げながら巨体が宙へ浮かぶ。数度の羽ばたきで岩場を離れ、山の方角へ高度を上げていった。アレンはその姿を目で追いながら、隣の鈴葉へ声をかけた。


「母さんの話に出てきた神獣を、また一体見た」


「そうね」


「変な感じだな。昔は全部、いつか会えたらいいなって思ってただけなのに」


 鈴葉は少しだけアレンを見て、それから空へ視線を戻した。


「会えたからって、分からないことまで一度に答えになるわけじゃないわ」


「分かってる」


 空高く上がったグリフィンは、やがて山の前を横切る小さな影へ変わった。王都へ向かう途中で見た影と同じ存在なのか、火口から響いた咆哮の主なのか、それらはまだ確かめられていなかった。それでも、目の前に降り立った存在が七神獣の一体、グリフィンであることだけは、もう疑いようがなかった。アレンは遠ざかる翼を見上げながら、子供の頃に聞いた「空を駆ける翼ある王」という言葉を静かに思い返した。物語の中にしかいなかったはずの存在が、今は同じ空の下を飛んでいる。その事実を胸に刻み、アレンは再び西へ続く街道へ向き直った。

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