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セイクリッドボーン  神獣と忘れられた血  作者: 鈴木 明
第四章 灰の大地と二つの翼
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第四章 第十六話 翼の王

飛行魔獣の群れが姿を消したあとも、商隊はしばらく速度を上げなかった。裂かれた幌と切れた縄は応急的に直したものの、馬たちはまだ落ち着かず、上空で何かが動くたびに耳を伏せて身を強張らせた。バルドは無理に先を急がせず、六台の荷馬車の間隔を保ったまま、街道の傾斜に合わせてゆっくり進ませていた。


 アレンも何度か山側の空を見上げたが、巨大な影は戻ってこなかった。灰色の雲が流れ、遠くで風に巻き上げられた灰が薄く尾を引いているだけだ。昨日の咆哮と、先ほど見た翼と爪。二つを結びつける証拠はまだない。それでも、あれほど大きな存在がこの山域にいるという事実だけは、もう噂ではなかった。


「さっきの、どれくらい大きかったと思う?」


 アレンが尋ねると、鈴葉は少し考えた。


「全身が見えてないから分からない。でも、小型の飛行魔獣とは比べる意味がないくらい大きかった」


「やっぱりそうだよな」


「だからって、勝手に大きさを決めないで」


「まだ何も言ってないだろ」


「顔に出てた」


 鈴葉はそう言って前を向いた。アレンも苦笑しながら、剣の柄から手を離した。今は追うべきでも、探すべきでもない。あの存在が敵なのか味方なのかさえ分からないのだから。


◇


 午後も半ばを過ぎる頃、街道は岩山の間を抜ける細い道へ入った。両側には黒灰色の斜面が迫り、ところどころに赤茶けた岩肌が露出している。風は強くなったり弱くなったりを繰り返し、灰が舞うたび視界が白く霞んだ。


 先頭を歩いていたガレスが足を止めたのは、その道が大きく右へ曲がる手前だった。


「待て」


 槍を上げるのではなく、片手だけを横へ伸ばす。ニアもすぐに弓へ手をかけた。


「何かいる」


 アレンは前方へ目を凝らした。最初は岩にしか見えなかった。曲がり角の先、街道より一段高い尾根の上に、巨大な黒い塊がある。やがてその塊が動き、ゆっくりと頭を持ち上げた。


 猛禽に似た鋭い嘴が横を向き、その奥で金色に近い目が光った。頭部から首にかけては硬質な羽毛に覆われているが、胸から下の輪郭は鳥とは違う。岩の陰から現れた前脚は太く、先端には先ほど空で見たものと同じ巨大な鉤爪が伸びていた。さらに身体の後方には獣を思わせる胴と力強い後脚が続き、その背には二枚の巨大な翼が折り畳まれている。翼を閉じた状態ですら、その巨体は周囲の岩壁を小さく見せるほどだった。


 あまりの姿に、誰もすぐには声を出せなかった。アレンも息を呑んだ。全身を見たのは初めてだ。それでも、翼がわずかに開いた瞬間、王都へ向かう途中で空を横切った巨大な影が脳裏に蘇った。あの時は遠すぎて形すら分からなかった。今も同じ存在だと断定できる材料はない。だが、目の前の巨体と翼の広がりは、あの日に見た影を思い出させるには十分だった。


「……あれ」


 アレンが小さく漏らすと、鈴葉も横目を向けた。


「王都の前で見た影?」


「似てる気がする」


「気がする、までね」


「分かってる」


 巨大な存在は尾根の上から商隊を見下ろしていた。威嚇するように嘴を開くことも、翼を広げて飛びかかることもない。ただ、じっとこちらを見ている。馬たちは怯え、御者たちは手綱を短く持って暴れないよう声をかけていた。ガレスも槍を構えたまま動かず、ニアは矢をつがえながらも弦を引かなかった。


「撃つな」


 バルドが低い声で言った。


「まだ何もしてない」


 ニアは小さく頷いた。


◇


 数呼吸の間、街道には風と馬の息遣いだけが響いていた。やがて巨大な存在が前脚を一歩進め、鉤爪が岩へ触れて硬い音を立てた。その動きだけで馬が一頭後ずさりし、御者が必死に手綱を引く。


 アレンも剣へ手を伸ばしかけたが、鈴葉が袖を掴んだ。


「まだ」


「分かってる」


「本当に?」


「今回は分かってる」


 巨大な存在はさらに一歩進み、尾根の端まで来た。そこで初めて、アレンはその身体の輪郭をほぼすべて見ることができた。前半身は巨大な猛禽を思わせる一方、後半身には獣のような胴と太い後脚、長い尾が続いている。翼の付け根は肩から背へ深くつながり、灰をかぶって鈍く見える羽毛の下からは、濃い金茶色がわずかにのぞいていた。


 その姿を見た鈴葉の表情が、ごくわずかに変わった。


「どうした?」


「……何でもない」


「今、何か分かっただろ」


「まだ言えない」


 珍しく曖昧な返事だった。だが、彼女の目は巨大な存在から離れない。


 その時、山の奥から甲高い鳴き声が響いた。先ほど逃げていった飛行魔獣とは違う方向で、岩山の向こうを数体の影が横切る。尾根の上の巨大な存在はそちらへ顔を向け、翼を大きく開いた。次の瞬間、風が爆ぜたように押し寄せた。


「伏せろ!」


 ガレスの声に、アレンは腕で顔を庇った。灰と砂が一斉に舞い、外套が激しくはためく。巨大な翼が一度打ち下ろされただけで、尾根の周囲に積もっていた灰が空へ巻き上がり、その巨体が滑らかに宙へ浮いた。前脚が岩を離れ、後脚が続き、広げられた翼が上昇気流を捉える。数度の羽ばたきだけで、あれほど大きかった身体が街道よりはるか高い位置へ上がっていった。


 アレンは思わずその姿を目で追った。真上を通ったわけではない。それでも、翼を広げた姿を下から見上げると、空の一部そのものが動いているようだった。鋭い嘴を持つ頭部、獣のような後半身、長い尾、そして空を切る巨大な翼。その姿は、鳥でも飛竜でもなかった。


「……何なんだ、あれ」


 誰かが呟いた。誰の声だったのか、アレンには分からなかった。


 巨大な存在は商隊へ向かわず、山のさらに奥へ進んでいった。遠くに見えた飛行魔獣の影も、その進路を避けるように散っていった。


◇


 風が弱まり、灰が落ち着くまで、誰もすぐには動かなかった。最初に口を開いたのはバルドだった。


「怪我は?」


 御者たちが順番に返事をする。馬も怯えてはいるが、怪我はない。ガレスは槍を下ろし、ニアもつがえていた矢を戻した。


「襲ってこなかったな」


 ローデンが言った。


「昨日の声の主かもしれん」


 ミックが山を見ながら続けた。


「かもしれない、だけだ」


 アレンは反射的にそう返していた。自分でも少し驚いたが、鈴葉は何も言わず、わずかに目を細めただけだった。


 バルドは尾根と山の奥を交互に見た。


「正体が分からん以上、刺激しない。それでいい。先へ進むぞ」


 六台の荷馬車が再び動き始めた。曲がり角を越えると、先ほど巨大な存在が立っていた尾根が横から見える。岩には大きな爪痕が残り、灰の一部が翼の風で吹き飛ばされていた。アレンは歩きながら何度かその跡を見た。巨大な空の影は、もう遠い噂でも、一瞬だけ捉えた輪郭でもない。確かに存在し、こちらを見て、それでも自分たちを襲わずに飛び去った。


「鈴葉」


「何?」


「あれ、知ってるのか?」


 鈴葉はすぐには答えなかった。山の奥へ消えていった翼の行方を見つめたまま、ほんの少しだけ考えるように目を細める。


「……見覚えはある」


「それって」


「まだ、私の記憶だけで決めたくない」


 アレンは問いを重ねなかった。街道の先では、黒い山肌の向こうへ巨大な翼が一度だけ姿を見せ、すぐに雲の中へ消えていった。王都の手前で見たあの影と同じものなのか、昨日、火口の方角から響いた咆哮の主なのか、どちらにもまだ確かな答えはない。それでも、あの巨体がこの山に存在していることだけは疑いようがなかった。アレンは遠ざかる翼の行方を見つめながら、まるで空そのものを領地にしているかのようなその姿を、しばらく目に焼きつけていた。

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