↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
セイクリッドボーン  神獣と忘れられた血  作者: 鈴木 明
第四章 灰の大地と二つの翼
102/143

第四章 第十五話 空を裂く爪

夜明け前、岩に囲まれた休息地にはまだ冷たい風が残っていた。前夜の見張りを終えた者から順に短い眠りを取り、空が白み始める頃には六台の荷馬車も再び出発の準備へ入っていた。馬の背や幌には薄い灰が積もっており、御者たちは水を使いすぎないよう乾いた布で灰を丁寧に払い落としていた。アレンも中央の荷馬車の車輪を確認しながら、ときどき火口のある山へ目を向けたが、昨日聞いた咆哮は夜の間、一度も繰り返されなかった。


「静かだな」


 アレンが言うと、鈴葉は荷紐を締め直しながら答えた。


「静かな方がいいでしょう?」


「そうなんだけど、昨日あれだけ大きな声を聞いた後だと逆に気になる」


「気になっても、分からないものは分からないわ」


「はいはい」


「返事が軽い」


 鈴葉は呆れたように言ったが、口元にはわずかな笑みがあった。やがてバルドが出発の合図を出し、六台の荷馬車は前日と同じ隊列で街道へ戻った。先頭にガレスとニア、中央にアレンと鈴葉、後方にローデンとミック。道には昨日まで以上に黒い岩が増え、場所によっては荷車の車輪が通れる程度の平らな部分しか残っていない。御者たちは馬を急がせず、一つ一つの岩場を慎重に越えていった。


◇


 午前の半ばを過ぎた頃、最初に異変に気づいたのはニアだった。


「上!」


 鋭い声と同時に、ニアの弓が空へ向けられた。


 アレンが顔を上げた時には、灰色の空を横切る黒い影がいくつも見えていた。鳥に似てはいるが、翼には羽毛がなく、硬い膜のような表面が鈍く光を返していた。細長い翼は身体に対して不自然なほど大きく、長く伸びた脚の先には湾曲した爪があった。十を超える影が山側から滑るように近づき、街道の上で大きな輪を描き始めた。


「飛行魔獣だ! 馬車を寄せろ!」


 ガレスの声が飛んだ。


 御者たちはすぐに荷馬車同士の間隔を詰め、守りを固めようとした。だが、街道が狭いため隊列そのものを大きく組み替える余裕はなかった。バルドが先頭から怒鳴った。


「間隔を詰めろ! 荷馬車から離れるな!」


 最初の一頭が急降下した。狙われたのは先頭の馬だった。黒い影が翼を畳み、矢のように落ちてくる。ニアの放った矢が進路を遮るように飛び、魔獣の翼の付け根をかすめた。軌道を乱された魔獣は先頭の馬を捉えきれず、爪で馬車の幌を裂きながら地面すれすれを抜け、そのまま上昇した。布が大きくめくれ、積荷を固定していた縄が一本切れた。


「一台目、荷を押さえろ!」


 バルドが叫ぶ。


 二頭目と三頭目が続けて降下した。今度は隊列の中央を狙っている。


「鈴葉!」


「見えてる!」


 アレンは剣を抜き、三台目の馬へ向かってくる一頭の軌道を読んだ。真正面から斬りに行けば、傷を負わせても勢いのまま馬へ突っ込む危険があった。ぎりぎりまで引きつけ、爪が馬の背へ届く直前に横から剣を振り上げた。刃は脚の外側を浅く裂き、魔獣は甲高い声を上げながら進路を変えた。


 その横では、鈴葉が四台目の御者を荷台の陰へ引き込んでいた。別の一頭の爪が空を切り、つい先ほどまで御者の肩があった場所を通り過ぎた。


「頭を下げて!」


 鈴葉の声に、御者は荷台の陰へさらに身を伏せた。


◇


 襲撃は一度では終わらなかった。空へ戻った魔獣たちは再び高度を取り、今度は隊列全体を囲むように旋回した。さらに山側から二頭、三頭と新たな影が加わり、ニアが矢を放つ一方で、ガレスは低く降りた一頭を槍で突き上げた。後方ではローデンとミックが盾を構え、最後尾の馬へ伸びた爪を受け流していた。


「荷じゃない!」


 ニアが叫んだ。


「馬を狙ってる!」


 アレンもすぐに気づいた。裂かれた幌や切れた縄は、それ自体を狙われた結果ではない。急降下の軌道はどれも、馬の背や首へ向かっていた。ここで一頭でも重傷を負えば、その馬車は動けなくなる。


「バルド!」


「分かってる! 馬車は止めるな、少しずつ前へ出せ!」


 完全に止まれば、上空から狙いを定められる。かといって速度を上げれば、岩場で車輪を壊しかねない。御者たちは暴れかける馬をなだめながら、隊列が崩れないぎりぎりの速さで荷馬車を進ませた。


 一頭がアレンの頭上へ落ちてきた。翼が空気を叩き、灰が舞い上がる。アレンは横へ踏み込み、振り下ろされた爪を剣の腹で受け流した。見た目以上に重い衝撃が腕へ走り、足元の小石が滑った。魔獣はそのまま翼を広げて上昇しようとしたが、次の瞬間、鈴葉が地面から拾った石を投げつけた。石は目元に当たり、魔獣が反射的に顔を逸らした。


「今!」


 アレンは一歩踏み込み、翼の端を斬った。黒い膜が裂け、魔獣は地面へ落ちかけながらも辛うじて姿勢を立て直し、低空のまま隊列から離れていった。


「助かった」


「あとで言って!」


 鈴葉の視線はすでに次の影へ向いていた。


 しかし、数が多すぎた。護衛六人で一頭を追い払うそばから、別の一頭がその隙へ降りてきた。馬たちは口元に泡を浮かべ始め、三台目の車輪が岩へ乗り上げて大きく跳ねた。


「右の荷を押さえろ!」


 アレンが叫び、御者と一緒に傾いた木箱へ肩を当てた。その上を二頭の影が横切り、湾曲した爪が幌をさらに裂いた。次の瞬間、周囲の空気が一変した。


◇


 最初に感じたのは音ではなく、空気そのものが押し寄せるような圧だった。山側から吹きつけた強い風が、街道に積もっていた灰を一斉に巻き上げた。視界が白く霞み、上空を旋回していた小型の魔獣たちは突風に煽られて隊列を崩した。何頭かが互いに接触し、甲高い鳴き声を上げた。


「何だ!?」


 ガレスが空を見た。舞い上がる灰の向こうで、巨大な何かが動いていた。あまりにも高く、全身の輪郭までは捉えられない。それでも、雲の下を横切った影は、これまで遠くで目にしてきたものより明らかに近かった。左右へ大きく広がった何かが空を覆い、その一振りだけで灰の流れが変わった。次の瞬間、影の下から太い脚がのぞき、その先に伸びた巨大な爪が姿を現した。小型の飛行魔獣とは比べものにならない大きさで、一本一本が剣のように湾曲していた。アレンがそれをはっきり認識できたのは、ほんの一瞬だった。


 巨大な爪が空を薙ぐと、風が裂けるような音が響いた。直接触れたのか、それとも風圧だけだったのかは分からなかった。数頭の魔獣が風に押されるように山側へ逸れ、残りも隊商への攻撃をやめて一斉に高度を上げた。


「……あれ」


 アレンは息を呑んだ。巨大な影は追撃しなかった。翼らしきものを一度大きく動かすと、そのまま山の方角へ遠ざかっていった。灰の薄い場所へ出た瞬間、頭らしき輪郭が見えかけたものの、逆光と距離のせいで形までは判別できず、間もなく岩山の向こうへ姿を消した。


 鈴葉も空を見たまま動かなかった。


「今の……」


「見えた?」


「全部は」


 彼女の声は珍しく低かった。逃げた小型魔獣たちは、その後も戻ってこなかった。


◇


 バルドは全員の無事を確認すると、すぐに被害を調べさせた。一台目と三台目の幌が裂け、固定縄が数本切れていた。馬一頭の肩には浅い擦り傷があったが、歩行に支障が出るほどではなかった。御者にも護衛にも大きな怪我はなかった。


「止まって直す」


 バルドが短く言った。


「次に来たら?」


 ガレスが尋ねる。


「今の状態で進む方が危ない。十分以内に済ませる」


 アレンは切れた縄を結び直しながら、何度も山側の空を見た。巨大な影はもう見えなかった。昨日聞いた咆哮の主と同じものなのかどうかも、まだ判断できなかった。


「鈴葉」


「何?」


「昨日の咆哮と、今の影……」


「まだ結びつけない」


 先に言われ、アレンは言葉を止めた。


 鈴葉は空を見上げたまま続けた。


「同じかもしれない。でも、違うかもしれない。私たちが見たのは、大きな翼みたいなものと爪だけ。今はそれだけよ」


「分かってる」


「本当に?」


「……今回は本当に」


 鈴葉がわずかに笑った。補修を終えた荷馬車が再び動き始める頃には、街道へ舞い戻った灰の中に、斬り裂かれた黒い膜の欠片だけが残っていた。巨大な存在が何だったのかは分からなかったが、隊商を襲っていた飛行魔獣の群れが、あの影の出現と同時に散ったことだけは確かだった。


 アレンは剣を鞘へ戻し、山へ続く街道を見た。昨日の咆哮と、今日の巨大な影。その二つを結びつける証拠はまだなかった。それでも、あの存在が現れた瞬間に小型魔獣の群れが退いたという事実は残っていた。商隊は姿を消した巨大な何かを追うことなく、灰の舞う街道をさらに西へ進んでいった。

読んでくださり、ありがとうございます!

楽しんでいただけましたら、ブックマークと評価をいただけると嬉しいです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。