第四章 第十四話 火口からの声
村を出てからしばらくの間、商隊は灰の混じる街道を西へ進み続けた。昼前まで村に留まっていたため、いつもより遅い出発ではあったが、バルドは日が落ちる前に次の休息地点まで進めると判断していた。六台の荷馬車は速度を上げすぎず、先頭にガレスとニア、中央にアレンと鈴葉、後方にローデンとミックという配置を保っている。
村を離れるにつれて、道の両側から家畜の声も人の話し声も消えていった。代わりに増えたのは、風が灰を押し流す音と、車輪が黒い小石を踏む乾いた響きだった。地面は昨日までより硬く、ところどころにひび割れた岩が露出している。遠くに見えていた山も、もう背景の一部として眺めるには大きすぎた。
「近くなったな」
アレンが前方を見ながら言うと、鈴葉は少し目を細めた。
「昨日より、ずっとね」
「頂上が見えない」
「雲なのか、煙なのかも分からないわ」
山の上部には薄い灰色の層がかかり、輪郭を曖昧にしていた。風が吹くたび形を変えるため、普通の雲にも見えるし、山から流れ出たものにも見える。アレンはしばらく眺めていたが、それ以上は考えを決めつけず、視線を街道へ戻した。
村で三つの痕跡を見比べたばかりだった。見えているものと、そこから想像したものを混ぜれば、分からないものまで分かった気になってしまう。答えを急がないことも、旅の中で覚え始めたことの一つだった。
◇
午後に入ると、街道は緩やかな上り坂へ変わった。低い草はさらに減り、黒灰色の岩と赤茶けた土が増えていく。ところどころには灰をかぶった低木が残っているものの、葉は小さく、枝は風に削られたように片側へ傾いていた。
先頭を歩いていたガレスが足を止め、片手を上げた。
「道が狭くなるぞ」
少し先で街道の片側が崩れ、荷馬車が一台ずつしか通れない幅になっていた。バルドは、以前話していた北側の大規模な道崩れとは別の古い崩落跡だと告げた。御者たちは車間を広く取り、車輪を岩に取られないよう慎重に進めていく。
アレンと鈴葉も中央の荷馬車に合わせて歩調を落とした。
「この辺から、馬も疲れそうだな」
「人もね」
「鈴葉は平気そうだけど」
「平気じゃないわ。言わないだけ」
「それ、前にも聞いた気がする」
鈴葉が何か言い返そうとした、その時だった。
山の方角から、低く長い音が響いた。最初は地鳴りかと思った。腹の底に響くような重い振動が空気を震わせ、少し遅れて岩肌の間を反響してくる。だが、数日前に聞いた遠雷とは違った。音には明らかな抑揚があり、岩の崩落音でも、ただの地鳴りでもない。
馬たちが一斉に首を上げた。何頭かが鼻を鳴らし、御者が手綱を引いて落ち着かせる。先頭のガレスも槍へ手を伸ばし、ニアは弓を肩から外した。
「今の……何だ?」
ローデンの声が後ろから飛んだ。
すると、もう一度、音が来た。今度は、はっきりと咆哮だった。低いところから始まり、途中で鋭く伸び、最後は山全体へ吸い込まれるように消えていく。距離があるはずなのに、胸の奥まで震えるほど大きい。近くにいた馬が前脚を浮かせ、御者が慌てて手綱を締めた。
「止めろ!」
バルドの声で、六台の荷馬車がその場に止まった。
◇
アレンは山を見上げた。音が聞こえたのは、頂上近くの灰色に霞んだ場所だ。だが、そこに動く影は見えない。
「魔獣か?」
ガレスが低く呟いた。
「大きいのは間違いないな」
「姿も見えてないのに?」
ニアが返す。
「こんな声を出す奴が小さいとは思えん」
そのやり取りを聞きながら、アレンは隣の鈴葉を見た。彼女は山の方角へ耳を澄ませ、咆哮の残響を追うようにじっと動かなかった。
「鈴葉?」
呼びかけても、彼女はすぐには答えなかった。
「……変ね」
「何が?」
「普通の魔獣の声とは違う気がする」
ガレスも振り返った。
「分かるのか?」
「種類までは分からない。でも、私が知ってる獣の鳴き方とは違う」
鈴葉は言葉を選ぶように少し間を置いた。
「ただ威嚇してるだけには聞こえなかった。何かを呼んでいるようにも感じたけど、誰を呼んでいるのか、それとも別の意味があるのかまでは分からないわ」
アレンはもう一度山を見た。そう言われれば、二度目の咆哮には最初とは違う長さと抑揚があったようにも思える。だが、それは鈴葉の言葉を聞いた後だからそう感じるだけかもしれない。
「俺には、ただ大きな鳴き声にしか聞こえなかった」
「それでいいと思う」
「え?」
「私も、そう感じただけ。確かなことじゃないから」
今確かなのは、山の方角から生き物のものらしい巨大な咆哮が聞こえたということだけだった。アレンはそれ以上の意味を足さず、もう一度静まり返った山を見上げた。
◇
しばらく待っても、三度目の咆哮は聞こえなかった。バルドは馬たちが落ち着いたのを確認すると、御者へ再出発の合図を出した。
「進むんですか?」
アレンが尋ねる。
「ここで止まり続ける方が危ない。日が落ちる前に、風を避けられる場所まで行く」
「声の方へ近づくことになりますよ」
「街道が西へ続いてる以上はな。ただし、火口へ登るわけじゃない。道を外れるな」
「分かりました」
商隊は再び動き始めたが、先ほどまでと同じ速度には戻らなかった。馬がまだ落ち着かず、御者たちも周囲を警戒している。ニアは弓を手にしたまま歩き、ガレスも槍を背負い直さなかった。
アレンも剣にすぐ手が届くよう意識しながら、中央の荷馬車と歩調を合わせた。
「鈴葉、本当に知らない声なんだな」
「知らない。少なくとも、森で聞いたことはないわ」
「神獣でも?」
「神獣だから全部知ってるわけじゃないって、前にも言ったでしょう」
「分かってる。ただ、少し期待した」
「正直ね」
「分からないなら、分からないでいいよ」
そう言うと、鈴葉が一瞬だけアレンを見た。
「前より、そう言えるようになったわね」
「誰かさんに何度も言われたからな」
鈴葉の口元がわずかに緩んだが、すぐに山へ視線を戻した。
街道はさらに上り、火山の斜面を思わせる黒い地形が少しずつ近づいてくる。風向きが変わるたび、薄い灰が道を横切った。先ほどの咆哮が嘘だったように、山は再び沈黙していた。
◇
夕方近く、商隊は岩に囲まれた広い平地へ到着した。古い街道脇の休息場所らしく、風を避けられる低い石壁と馬を繋ぐ杭が残っている。バルドはそこで夜を越すと決め、御者たちはすぐに荷馬車を半円状に並べ始めた。
アレンも縄を張る作業を手伝いながら、何度か山の方を見た。あれから咆哮は一度も聞こえていない。それでも馬たちは普段より落ち着かず、ときどき同じ方角へ耳を向けている。
日が山の向こうへ沈み始めると、頂上付近の霞が夕日を受けて赤く染まった。数日前に見た夜の赤い光とは違い、今は夕暮れの色が山を覆う霞に映っているだけのように見える。アレンは余計な意味を与えず、その違いだけを覚えておいた。
「また聞こえると思う?」
隣で鈴葉が尋ねた。
「分からない」
「それだけ?」
「今は、それで十分だろ」
鈴葉は少し驚いたように瞬きをし、それから静かに笑った。
「そうね」
二人は暗くなっていく山をしばらく見つめた。巨大な影も、声の主らしき姿も見えない。やがて夕日の赤も薄れ、火口のある方角は夜の色に沈んでいく。それでも昼間に聞いた咆哮だけは、岩肌の間を渡ってきた時の重さを失わず、アレンの耳の奥に残り続けていた。
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