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185年 乱世の凡雄01

中平二年、六月。黄巾の乱が各地に撒き散らした動乱の残り火は、未だに焦げた煤の匂いを伴って大陸のあちこちで燻っていたが、荊州の初夏は、それら血生臭い狂乱とは完全に切り離されたかのような、のどかで眩い輝きに満ちていた。

頭上からは、ぎらぎらとした太陽の光が容赦なく降り注ぎ、押し固められた土の街道からは、熱せられた泥と青草が放つ、むっとするような湿った匂いが立ち昇っている。


湖陽県令となった劉憲は、一人の供を連れて襄陽の地を踏んでいた。供を務める文聘は、新調したばかりの革帯が擦れる硬い音を鳴らしながら、慣れぬ文士たちが集う格調高い空気感に、幾分か喉を強張らせていた。

額には緊張による薄い汗が滲み、すれ違う襄陽の役人たちの豪奢な絹の衣を見るたびに、自らの小手を気まずそうにさすっている。しかし、その斜め前を歩く主の劉憲は、いつもと変わらぬ、どこか浮世から半歩浮き上がったような穏やかさをその瞳に湛えていた。

彼の纏う衣は、太守の秦頡から形式的に下賜された一級の絹織物ではなく、民と共に泥にまみれ、白河の氾濫原を切り拓いてきた日々を雄弁に物語る、目の粗い、実用一点張りの質素な麻衣であった。何度も洗濯されて色あせたその裾には、湖陽の粘土質の泥が白く乾いてこびり付いており、歩くたびに微かな砂粒が擦れ合う音がした。


「孝子、やはりその召し物は、少しばかり崩れすぎてはいないか。これからお会いするのは天下の大家。襄陽の門番さえ、我々の足元を見て鼻で笑っていた。私のこの上着を上に羽織った方が良いのでは無いか」


文聘が周囲を警戒しながら、低い声で劉憲の袖を引いた。劉憲は、街道の脇に咲く名もなき白い野花に目を留め、その花弁に触れながら柔らかく首を振った。


「気にするな、仲業。この泥はな、正方が三度も井戸水で叩き洗いしてくれたのだが、どうしても繊維の奥から抜けないのだよ。

彼は、これでは県令の威厳が台頭せぬと、夜遅くまで灯火の下で文句を言っていた。

だが、私にとっては、あの湿地で飢えを凌ごうと必死に土を掴んだ民たちの手の温もりが、この衣に残っているようで心地よいのだ。龐徳公先生ほどの御方なら、衣の白さではなく、その奥にある懐の深さを見てくださるさ。

それより、お前は朝から何も食べていないのだろう。襄陽の市で売っていたあの乾肉は、少し塩気が強すぎたな。後で庵に着いたら、冷たい水でも分けてもらおう」


劉憲の飾らない言葉に、文聘は緊張で尖っていた肩の力を僅かに抜き、小さく苦笑した。


二人が目指す先は、人物鑑定の大家として大陸全土にその名を轟かせる名士、龐徳公が隠棲する庵であった。竹林の狭い坂道を登っていくと、周囲の空気はにわかにひんやりとした湿度を帯び、ざわざわと葉が擦れ合う涼やかな音が鼓膜を包み込む。腐葉土の放つ濃い匂いの奥から、微かに上質な酒精の芳香が漂ってきた。


「これはこれは。黄巾討伐の英雄殿ではないか、よくぞ遥々参られたな」


庵の奥、目に染みるような青々とした竹林の緑を背に、樫の古びた机を挟んで、龐徳公はもう一人の高潔な雰囲気を纏った男、水鏡先生こと司馬徽と酒を交わしていた。

手招きに応じ、劉憲が木床を踏み締める乾いた音を立てて歩み寄ると、龐徳公はその濁りのない鋭い眼光を向け、射抜くように劉憲の顔の輪郭をじっと見つめた。その視線は、皮膚の裏側にある骨の髄まで見透かそうとするかのように重かった。


「して、本日はどのような用向きかな?あのような水浸しの僻地から、わざわざ襄陽の隠者の元まで足を運ぶとは」


劉憲は衣服の裾を整え、両手を合わせて恭しく一礼すると、静かに口を開いた。その声は、竹林を吹き抜ける風のように静穏であった。


「私は朝廷より県令という、あまりに過分な地位を賜りましたが、その実は未だに書物の数行も満足に解さぬ浅学の身にすぎません。

民を真に安んじ、この激しく荒れ狂う世を渡っていくには、私の器量はあまりに小さく、底が浅うございます。

そこで、龐徳公先生の深い知恵を少しでも分けていただき、己という不肖の器を磨こうと、こうしてまかり越しました」


「ふむ、学ぶ姿勢は結構なことだ。人はひとたび小さな地位を得て、他者を動かす権力という名の毒に溺れるほど、過去の学びを捨て去り、耳を塞いでしまうものですからなあ」


龐徳公は手にした素焼きの杯を傾け、喉を鳴らして愉快そうに笑った。その横で、司馬徽もまた柔和な笑みを湛え、髭を細い指先で撫でながら深く頷いた。ちょうどその時、庵の入り口の薄暗がりから、山のように積み上がった古い竹簡を落とさぬよう必死に抱えた、二十歳前後の若い青年が、小走りに入ってきた。


「先生、また昼間からそうして酒など嗜んでおいでですか。昨日も、お腹の調子が優れないと仰って、寝所で呻いておられたのをお忘れですか。

司馬徽殿も、止めるどころか一緒になって煽るなど、御勘弁ください。この周辺の県の古い戸籍簿は、紐が今にも腐って切れそうで、私が一枚ずつ埃を払うだけでも大変なのですから」


青年、向朗の容赦のない苦言に、司馬徽は決まり悪そうに薄い眉を下げ、杯を机にそっと置いた。粘り気のある酒の雫が、木机の木目に吸い込まれていく。しかし、龐徳公は泰然自若としたまま、豪快に笑い飛ばし、傍らに佇む劉憲を指差した。


「まあ堅いことを言うな、巨先よ。そんな瑣末な事より、お前は目の前に立つこの者を、どう見る。その研ぎ澄まされた眼で、観察してみるが良い」


向朗は抱えていた竹簡の束の一部を机の端に、からからと軽い音を立てて置き、足を止めた。そして、不躾にならぬよう配慮しつつも、好奇心の隠せぬ目で劉憲の上から下までを注意深く観察した。


「ふむ……。失礼ながら、戦場を駆ける武人には到底見えませぬな。手のひらを見ても、剣の胼胝というよりは、農具を握ったような妙な硬さがある。

お召し物も、なんというか……汚れこそ綺麗に払われておりますが、至るところが擦り切れてみすぼらしい。

失礼ながら、どこかの郡の下級官吏の方でしょうか。あるいは、財政の計算に追われる文官のようですが」


「ふふふ、誰もが最初にそう見るな。だが向朗、驚くなよ。この御仁こそが、あの血で血を洗う宛城の戦いにおいて、誰もが羨む最大級の武功を立てながら、そのすべての栄誉と引き換えに、数千の降兵たちの助命を朱儁将軍に嘆願し、彼らの命を買い取ってみせた、稀代の英雄、劉憲殿その人だぞ」


龐徳公の言葉が庵の空間に響いた瞬間、向朗は大きく目を見開き、驚愕のあまり腕の中に残っていた数本の竹簡を床にばらばらと落としそうになった。床の板に竹が当たる高い音が、静寂を破る。戸惑う若者を他所に、龐徳公は再び呵々と楽しそうに笑った。


「英雄などと……。私はただ、あの血臭の立ち込める場で、私にとって最も多くを救うために、最良と思える、確実な道を選び取ったに過ぎませぬ。過分な評価は、私のような器には荷が重うございます」


劉憲は困ったように眉を下げ、ただ静かに謙遜した。しかし、その言葉が劉憲の薄い唇から漏れ出た瞬間、龐徳公はぴたりと笑いを止めた。彼の瞳に宿る光が、一変して底の知れない奈落の深淵を覗き込むような、氷のように冷徹で鋭いものへと変貌した。庵の中の空気が、一瞬にして凝固したかのように重くなる。


「……己ができることを、ただ最良と思われるように、淡々と行う。劉憲殿、この天の法さえひっくり返ろうとする混沌の世において、それがどれほど恐ろしく、そして難しいことか。

お前はそれを理解して口にしているのかな。劉憲殿よ、我が知恵が必要な時は、いつでもこの庵の門を叩くが良い。私はお前の歩む先を見てみたくなった」


龐徳公は深く首を縦に振ると、隣に座る司馬徽に向かって、視線で促した。


「さて、せっかくこれほどの逸材がここまで足を運んでくれたのだ。ただの世間話で帰すわけにはいくまい。水鏡、お前のその濁りのない眼で、劉憲殿の内に眠る天命を占って差し上げなさい」


司馬徽は無言で重々しく頷き、下人に合図を送った。下人が運んできたのは、縁の漆がところどころ剥げ、滑らかな木肌が露出した古びた黒漆の水盆であった。

注がれる井戸水の、耳の奥をくすぐるような冷ややかな音が、庵の静寂の中に低く響き渡る。立ち上る水気には、微かに苔に似た土の匂いが混じっていた。


龐徳公が劉憲の顔を覗き込み、司馬徽が水盆に映る天の星々と、そこに揺らめく劉憲の影を読み解こうと、水面を凝視した。初夏の強い陽光が、水の膜で不規則に屈折し、庵の天井に網目のような複雑な光の紋様を描き出している。しかし、司馬徽が息を詰めて見つめる中、水盆の表面に異様な変化が起きた。風もないのに水面が微かに震え、映り込んだ光の破片が、まるで底知れぬ深淵へと吸い込まれるように、中心に向かって歪み始めたのである。星の光が映るのではない。あらゆる天の光が、この男の泥の中に引きずり込まれ、等しく溶けて消えていく。


「これは……?」


司馬徽の喉から、掠れた声が漏れた。彼は思わず水盆の縁を掴み、その指先が白く強張った。その瞳は、どれほど強い光を浴びても、ただ漆黒の闇を湛えたまま、一切の反射を返していなかった。光を放つのではない、すべてを呑み込む泥の深淵が、そこには確かに広がっていた。

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