184年 黄巾の乱07
九月の風に混じる秋の気配が、南陽の平野を包み込んでいた。長く続いた酷暑はその出口を見せ始め、大気に含まれる水分はどこかひんやりとした重みを帯びている。黄金色に枯れ始めた雑草の匂いと、反転した土の香りが風に乗って鼻腔をくすぐる。
劉憲らの陣営、そして宛の周囲に広がる村邑では、一万を超える降兵たちとその家族が、乾いた泥にまみれながら、戦火に焼かれた田畑を黙々と耕し直していた。
劉憲の指導によって急造された細長い小舟が、白く濁った河のあちこちに浮かび、引き揚げられる網からは、光の屈折を浴びて銀色に明滅する鱗が水飛沫と共に撥ねている。それは戦の生々しい傷跡を塞ぐ、静かで、しかし確かな生命の脈動を宿した復興の光景であった。
「正方、この時期の夕暮れは、どうしてこうも急に冷え込むのだろうな。少し前までは、夜になっても寝床の筵が熱を帯びていたというのに」
文聘が、手にした木製の鍬の柄を布で拭いながら呟いた。その手のひらには、新しくできたばかりの硬い胼胝が並んでいる。
「季節の変わり目だからな。仲業、お前は冷えが腹にきやすいのだから、夜中に腹を出して寝るのをやめろ。お前の母親からも、その悪癖だけは諫めてくれと昔から言われている」
李厳が木簡の山から目を離さずに応じた。彼の指先には、墨が染み込んで爪の際が黒くなっている。
「子供の頃の話を今さら持ち出すな。だが、あの河で獲れた川魚を塩焼きにすると、驚くほど脂が乗っていて美味かった。今夜はお前も一切れ食うといい。胃の腑が温まるぞ」
「ありがたく頂戴しておこう。ただし、塩は貴重だからな。あまり贅沢に振りかけるなよ」
そんな他愛のない世間話が交わされる中、洛陽からの勅使を伴い、太守の秦頡が陣営へと姿を現した。彼の身に纏う上質な絹の衣服からは、高価な香料と、長旅による馬の汗の匂いが混じり合って漂っている。宛城攻略における多大な軍功、そして何よりも漢室の末裔という、民を惹きつける強烈な看板が、ついに重い腰を上げぬ朝廷を動かしたのだ。
「劉憲殿、此度の抜群の功により、朝廷より県令に任ぜられることとなった」
秦頡の声は、幕舎の湿った空気を震わせた。その報に、文聘や李厳は瞬時に表情を強張らせ、互いに視線を交わした。
鄧県か、あるいは諸国の商人が行き交う交通の要衝、新野か。若き彼らの脳裏には、豊かな未来の地図が描かれ、期待に胸が膨らんだ。
しかし、秦頡が面倒そうに、指先で弄ぶようにして差し出した辞令の巻物。それに記されていた地名は、二人の顔を遮光された部屋の壁のように即座に曇らせた。
「湖陽県である」
秦頡は鼻を鳴らし、目の奥に冷ややかな光を宿した、取り揃うような笑みを浮かべて続けた。指先で髭をいじるその仕草には、明らかな嘲りが滲んでいる。
「ここはかつて、後漢の祖、光武帝の姉君である湖陽公主の封地であった、由緒正しき土地だ。漢室の末裔たる貴殿には、これ以上ないほど相応しい高貴な場所と言えよう。民を能く治め、その徳を広く示すことを期待しているぞ」
「……あそこか」
李厳が言葉を失い、喉の奥で息を詰まらせた。文聘は、握りしめた拳の関節が白くなるほど露骨に顔を歪めた。
湖陽県。耳に響く名は華々しいが、その実態は過酷を極める。白河と唐河が合流するその地は、見渡す限りの広大な湖沼と、背丈を超える葦原が無限に広がる、水浸しの低湿地であった。
ひとたび雨が降れば、両河は濁流となって暴れ狂って溢れ出し、大地は全て底なしの泥濘と化す。万年、凄まじい水害と、淀んだ水から発生する疫病に悩まされ続ける、朝廷からも見捨てられた土地に他ならなかった。
「由緒正しき土地だと。笑わせるな。体よく、この南陽の地から厄介払いされただけではないか。これでは復興どころか、泥遊びをしてそのまま沼の底で病み死ねと言われているようなものだ!」
秦頡が去った後、李厳の激しい憤りの言葉が幕舎の壁を叩いた。彼の言葉は、あまりにも真っ当だった。秦頡は、劉憲が手に入れた一万を超える降兵という、巨大すぎる力を恐れたのだ。
その刃を朝廷に咎められぬよう、功績を認める体裁を取りながら、底なし沼へと彼らを送り込んでその生命力を削ぎ落とそうという、陰湿な罠であった。
しかし、劉憲だけは、どこ吹く風という様子で、幕舎の隙間から見える初秋の、吸い込まれそうなほど高い青空を仰いでいた。
「正方、そう怒るな。低湿地か……面白いじゃないか。水が豊かな場所は、私は嫌いではないよ」
「面白いだと!孝子、あそこは人の住める場所ではないぞ。足を踏み入れば、二度と引き抜くことのできぬ泥の墓場だ!」
「水が多いということは、見方を変えれば、その水を完全に操れるということだ。陸の道が塞がれているなら、水の上に船を浮かべ、それを道にすればいい。秦太守は私に、誰の目も届かない、そして誰にも邪魔されない巨大な堀に囲まれた天然の要害を進呈してくれたわけだ」
劉憲は、かつて韓忠と呼ばれ、今は周倉という名を与えられた、影の中に佇む巨漢の男に視線を送った。彼の巨躯からは、今なお戦場の鉄錆と、主君のために命を捨てる覚悟の匂いが漂っている。
「周倉、ついてこい。お前たちの、そして私にとっても新しい故郷となる場所を見に行くぞ」
「御意に。どこへなりとも、この命、お供いたします」
静かに、しかし地底から響くような硬い響きを伴って、鋼の忠誠を誓った周倉が応じた。
劉憲は、まだ憤りの治まらぬ李厳や文聘、そして不安に震える民たちを連れ、未開の湿地帯へと向かった。
湖陽県の境界に立ち、湿り気を帯びた風が吹き抜ける中、劉憲は大きく両腕を広げた。大気は、腐りかけた葦の葉の匂いと、ぬるい水の混じり合った独特の香りに満ちている。
視界に広がるのは、見渡す限りの赤茶けた泥濘と、秋風に煽られて波のように揺れる、背丈ほどもある葦の群生であった。そして、天の光を鈍く反射し、重く淀んだ水を湛えた巨大な湖沼の群れ。
文聘や、劉憲の慈悲を慕ってついてきた民たちが、ここで一体どう生きていけばいいのかと、絶望に近い深い溜息を漏らそうとしたその瞬間だった。劉憲がくるりと鮮やかに向き直り、一点の曇りもない、陽光のような満面の笑みで言い放った。
「おお、なんと豊かな土地なのか。天は我らに、最高の宝を授けてくださった」
その場にいた全員が、自らの耳を疑った。文聘は思わず耳を疑い、周囲の、麦も粟も育ちそうにない広大な泥地を二度見した。
「孝子……本気で言っているのか。ここは足を一歩踏み入れるだけで膝まで埋まり、家を建てれば翌朝には傾くような、ただの泥溜めだぞ。正気の沙汰とは思えん」
しかし、劉憲の澄んだ瞳は、彼ら凡夫には見えていない、黄金の風景を確かに捉えていた。
「仲業、よく目を凝らして見ろ。この豊かな水、白河と唐河の奔流は、魚を漁るには底なしの宝の山であり、重い荷を船で運ぶには、どんな乾いた街道よりも優れ、馬を疲れさせぬ無比の路だ。
そしてこのどこまでも続く湿原。これは、南方の高熱ではぐくまれる米を作るために、天があらかじめあつらえた最高の場所のようではないか。
湖陽公主がこの地を愛されたのも、この豊かな水の可能性に気づかれていたからに相違ない。残念ながら、その後の役人どもが、手付かずのまま放置していたようだがな」
劉憲は、ぬかるむ泥を愛おしげに指差し、あたかもそこに立派な白壁の都がそびえ立っているかのように語り続けた。
「そしてこの広大な湖沼の群れだ。もし、洛陽の傲慢な大軍がここへ攻め寄せようとしても、彼らの自慢の重い馬は沈み、兵の足は取られ、まともな進軍などできはせぬ。
これから先、天下にいかなる大乱が起きようとも、この底なし沼へわざわざ兵を出そうなどという物好きは、そうはおらぬ。ここは、我らにとって、誰にも侵されぬ最高の城となるのだぞ」
絶望に深く沈んでいた民たちの表情に、一筋の烈しい光が射し込んだ。彼らにとって最も恐ろしいのは、飢えの苦しみと、そして再び官軍の剣に追われる恐怖だった。劉憲の言葉は、その両方の不安を、一瞬にして揺るぎない希望へと塗り替えてみせたのだ。
「さあ、まずは湿気の来ない、あのわずかな高台に頑丈な柱を立て、家を建てよう。漁業のための頑丈な舟と網を作り、米を育てるために水田を拓き、堤を築くのだ。ここを、天下のどこよりも腹が膨れ、戦火に怯えぬ楽土にしようではないか」
「おおおっ!」
地を震わせるような歓声の号令と共に、男たちが、女たちが、そして小さな子供たちまでもが、泥の冷たさを忘れたように歓喜して飛び込んでいった。
劉憲という男が口にすれば、この冷たく不気味な泥濘さえ、黄金の金塊に見えてくる。その狂気にも似た不思議な熱狂が、長く静まり返っていた湖陽の湿原を激しく揺り動かした。
劉憲は、泥を跳ね上げて動き出した民たちの姿を静かに見送りながら、傍らに立つ李厳にだけ聞こえるような、地を這う低い声で囁いた。
「それに、正方。朝廷に納めるべき税の麦は、あそこの僅かな乾いた高台にでも、形ばかり作らせておけば良いだろう。元々、麦など育たぬ湿地なのだから、実らぬのは天候のせいにすればいい。
……つまり、これからこの泥の中から我々が収穫する大量の米、もといこの地に生い茂る雑草の種は、朝廷の帳簿には一切記載されず、ほぼすべてが……」
劉憲の口角が、不敵に、そして飢えた狼のように鋭く釣り上がった。
李厳は、主君が何を言わんとしているかを完全に察し、その底知れぬ謀略の深さに、思わず苦笑してかぶりを振った。米は麦に比べて圧倒的に収穫量が多く、保存もきく。
だが、朝廷の徴税基準が古い麦にあるこの土地ならば、その爆発的な余剰は全て朝廷の目を盗み、劉憲の懐、すなわち、この地に眠る軍資金へと姿を変えて消えることになる。
「……また、人を食った策ですか。秦太守も、まさか自分が厄介払いしたつもりの底なし沼が、あなたにとって天下を狙うための巨大な兵糧庫になるとは、夢にも思わないでしょうな。呆れた御方だ」
「人事は尽くすものだよ、正方。ああ、なんということだ。我が湖陽県は貧しく、麦を食う余裕もないため、全てを税として洛陽へ納め、民は雑草の種などを啜って飢えを凌いでいる。そう朝廷への報告書に、一言一句違わず、涙を誘う美しい文字で書き記しておけ」
泥の城を築き始めた劉憲の横顔には、かつての大人しい下級官吏の面影は微塵も残されていなかった。そこには、吹き抜ける秋風を受けながら、乱世という名の巨大な獲物を食らい尽くそうとする、若き群雄の片鱗が、不気味に、しかし眩しく輝いていた。




