184年 黄巾の乱06
劉憲の策を聞いた韓忠は、震える拳を膝の上の湿った布地に突き立てた。奥歯を噛み締めると、顎の付け根が軋み、口の中に鉄のような血の味が微かに広がった。部屋の隅で燃え尽きようとしている灯芯が、不規則に爆ぜ、煤けた油の匂いが鼻を突く。
自らが率いてきた万にも及ぶ、汗と泥にまみれた命。そして、一軍の将たる己の矜持。天秤にかけるまでもないことは分かっていたが、その重圧に心臓が早鐘を打つ。
「……乾坤一擲の突撃を、貴殿の軍に仕掛けろと。そして、私はお前に首を差し出せと言うのだな。黄巾の降兵を救うための生贄として」
絞り出すような韓忠の問いに、劉憲は感情を完全に排した声で応じた。窓から差し込む夜風は、戦場の死臭を孕んで僅かに生暖かい。
「そうです。官軍が北東と南西に殺到し、戦火が夜空を焦がす混乱の最中、貴殿らは包囲の薄い北西、すなわち、我らの陣へと一点突破を試みる。そこで私が貴殿を討ち取ったという、動かしようのない絶対的な戦功を朱儁将軍に突きつける。その功績と引き換えに、残りの数千の命を買い取る。それ以外に、この宛城を血の海に沈めぬ方法はありません。貴殿の命一つで、数千の絶望が救われるのです」
韓忠の表情から、徐々に生気が失われていった。瞳には、深い絶望と諦念が泥のように沈殿していく。
「……某に死ねと言うのか。民を守るためなれば、武人としてやむを得まい」
その時、劉憲の口元が不気味に、そして底の知れない沼のように暗く吊り上がった。
「死ぬ。いえ、滅相もない。死んでもらっては困るのですよ、韓忠殿」
耳を疑う言葉に、韓忠は弾かれたように顔を上げた。劉憲は懐から、使い古された絹布に書かれた一通の密書を取り出した。指先が紙の端をなぞる、乾いた音が静寂を震わせる。
「戦場にて韓忠殿の、その使い込まれた兜と鎧をお渡しください。戦場の混乱など、いくらでも誤魔化しようがある。あらかじめ用意しておいた、背格好の似た死体を見繕い、その顔を潰して身代わりに仕立てておきましょう。明日、この地で討ち死にするのは黄巾の将、韓忠。そして、密かに私の懐に飛び込むのは、過去を捨て、新たな名を得た一人の武将だ」
劉憲は、呆然と立ち尽くす韓忠の、揺れ動く瞳の奥を覗き込み、毒薬を垂らすように囁いた。
「それでは頼みましたよ。我が軍の将、韓忠改め――周倉殿」
「周……倉……」
聞き慣れぬその名が、自らの新しい人生を縛る冷たい鎖のように韓忠の耳に響いた。劉憲はその反応を待つこともなく、翻した衣の裾を夜風になびかせた。衣擦れの音が、闇に溶けていく。
「夜明けと共に、北西へ。お待ちしておりますよ。朝露に濡れた戦場で、貴殿の死と再生を祝いましょう」
劉憲は来た時と同じように、影そのものとなって去っていった。残された韓忠は、膝の上にある冷たく重い兜を見つめた。使い込まれた金属の、独特の鉄臭さと古い汗の匂い。自分のこれまでの人生が、この鉄の塊に封じ込められているように感じられた。明日、自分は死ぬ。そして、この豪胆にして恐ろしい男の影として、再び生まれるのだ。
翌朝。宛城の空は、総攻撃の合図である狼煙によって真っ赤に染め抜かれた。空を裂く矢音と、大地を揺らす馬蹄の響きが、狂気となって吹き荒れる。
宛城の空は、立ち昇る黒煙と、絶え間なく続く断末魔の叫びに覆われていた。官軍の総攻撃は、石をも砕くような苛烈さを極めていた。孫堅の猛進と、朱儁の本隊による圧倒的な圧力が、古びた城門を粉々に打ち砕く。
城内は、阿鼻叫喚の地獄絵図と化していた。首魁である趙弘が、乱軍の中で無残に討ち取られたことで、残された者たちの組織的な抵抗は霧散した。生き残った数千の黄巾兵たちは、手にした武器を泥の中に捨て、涙と鼻水にまみれて降伏を乞うた。
朱儁の軍議の場には、勝者の慢心と、敗者の絶望が入り混じった湿った空気が漂っていた。司馬の張超、刺史の徐璆、太守の秦頡らが、これ以上の殺生は無益であると、降伏の受理を慎重に進言した。しかし、朱儁の表情は、風雨に晒された岩石のように冷酷だった。
「ならぬ。ここで賊を許せば、天下の徒党どもは、不利になれば降ればよいと増長するだけだ。これは慈悲の問題ではない。悪を断つという、帝国の意志の問題だ。一人残らず、切り捨てよ。この土を奴らの血で赤く染め、後世の戒めとせよ」
朱儁の峻厳な言葉に、幕舎内は一瞬にして凍りついた。秦頡ですら、その剥き出しの殺意に息を呑んだ。その時、天幕を激しく跳ね上げ、鉄の臭いと共にある男が踏み込んできた。
劉憲であった。その手には、血に濡れた麻の布に包まれた、ずしりと重い塊が握られている。
「――遅れ馳せながら、ご報告申し上げます」
劉憲は朱儁の前に、膝から泥を跳ね上げるようにして跪くと、無造作にその包みを足元へ転がした。包みが解け、中から現れたのは、誰が見ても疑いようのない、黄巾の副将、韓忠の凄惨な首級であった。潰れた顔の隙間から、韓忠の兜が鈍く光を反射している。
「我が義勇軍、北西へ突撃せんとした賊の別働隊を、森の出口にて撃破いたしました。ここに、副官・韓忠の首を、朱儁将軍にお預けいたします」
朱儁の目が、獲物を捉えた鷹のように鋭く光る。趙弘に次ぐ大物の首。これは、この宛城攻略における、華々しい最大級の武功であった。
「……見事だ、劉憲。貴殿のその竹の弓が、これほどの大物を射止めるとはな。褒美を惜しみはせん。望みを言え。金か、官位か」
「ならば」
劉憲は顔を上げ、朱儁の冷徹な瞳を真っ直ぐに見据えた。彼の瞳には、背後の篝火が屈折して宿っている。
「この韓忠を討ち取った功、そのすべてを将軍に差し上げます。その引き換えに、今まさに広場で処刑されようとしている、あの数千の降伏者たちの身を、私にお預け頂けませんか」
幕舎内が、一気にざわめきに包まれた。朱儁の顔に、明確な不快の影が走る。
「……貴様、私の決定に異を唱えると言うのか。たかが一つの首で、数千の賊を救おうとは!あまりに厚かましい!」
「滅相もございません。彼らは賊として死ぬのではなく、私の私兵として、あるいは屯田兵として、この荒れ果てた土地に泥を塗り、骨を埋めて尽くす生ける償いとなるのです。もし、彼らが再び太平道の不吉な幻影に走るようなことがあれば、この劉憲、責任を持って一族郎党ことごとくを、その場で切り伏せましょう。将軍の手を汚すまでもありませぬ。彼らは、死ぬよりも過酷な労働という名の重罪を背負うのです」
劉憲の言葉に、すかさず徐璆が横から口添えをした。
「将軍、一理ありますな。ここで数千を無情に殺せば、かえって各地に散った賊を絶望させ、死に物狂いの反抗を招くでしょう。劉憲の立てたこの大功に免じて、ここは帝の寛大な処置を示すのが得策かと存じます。この首級、洛陽へ送れば帝もお喜びになりましょう」
朱儁は、苦々しげに転がる首級と劉憲を交互に見つめ、やがて忌々しげに鼻を鳴らした。幕舎の外からは、兵士たちが磨く剣の音が聞こえてくる。
「……勝手にするがいい。だが、一度でも叛意を見せれば、劉憲、貴様の首もその泥の上に並べて晒すことになるぞ。慈悲が仇となることを忘れるな」
「御意。将軍の寛大なるご処置、痛み入ります」
劉憲は深く頭を下げた。その時、彼の影に隠れた口元に、微かな、そして奈落の底を覗き込むような底知れない笑みが浮かんでいた。官軍が血生臭い、しかし華やかな勝利の美酒に酔いしれる中、劉憲は数千の、戸籍から消えた死人たちを手に入れた。それは、彼が荊州という未開の地に築き上げようとしている、新たな秩序の、揺るぎない礎となる無言の軍勢であった。
「正方、お前の筆を貸してくれ。助かった連中の名簿を作らねばならん。墨が足りなくなるぞ」
陣へ戻る道すがら、劉憲は背後の李厳を振り返り、何事もなかったかのように微笑んだ。
史実メモ:周倉。演義には登場する元黄巾党の将で関羽に付き従ったが、正史には登場しない。




