184年 黄巾の乱05
朱儁の幕舎を辞した三人の足取りは、湿り気を帯びた夜の土を深く踏みしめるたび、鈍い音を立てた。
幕舎の中に満ちていた、焦げた獣脂の匂いと酒精の芳香が、外の冷え切った湿気にかき消されていく。
劉憲が提示した情報は、本来、最小限の犠牲で敵の急所を抉り出すための外科手術の道具であった。しかし、功を焦る朱儁はそれを、城内を蹂躙するための全軍突撃の凄惨な合図として受け取ってしまったのである。
「力攻めか。乱戦になれば、城内は文字通りの地獄になるな。石壁が吸い込む血の匂いは、十年経っても抜けんぞ」
李厳が苦々しく吐き捨てた。彼は歩きながら、腰に下げた算木が触れ合う乾いた音を聞き、数値を弾くように眉間を寄せた。
「だが正方、官軍の本隊と共に突入すれば、我らの武勇を天下に示す絶好の機会だ。ほら、この手の震えを見てくれ。さっきから何度止めようとしても、武者震いで槍が滑る。敵の首級を挙げれば、誰も我らを竹細工の軍などとは呼ばなくなるぞ」
文聘が興奮を隠しきれぬ様子で、赤らんだ顔を向けた。その若い肌には、夜の露が真珠のように付着している。
「仲業、その緊張を一度解け。力がこもり過ぎているから槍が持てんのだ。少し落ち着け」
劉憲は歩みを止め、文聘の肩に冷たい手を置いた。その感触に、文聘の肩の強張りがわずかに解ける。
「我らがこの土を耕し、守りたかったのは、一時のみを飾る武名か。それとも、泥を啜りながらも懸命に生きるこの地の民か。お前は、我らが義勇軍として立った理由をもう忘れたのか」
劉憲の静かな問いに、文聘は言葉を失った。三人は、後方で黙々と矢の根を改めていた黄忠に視線を投げた。黄忠は老練な手つきで、鏃の錆を布で拭い去り、磨かれた金属が月光を細く反射するのを確認していた。
「朱儁将軍は一度決めたら動かぬ。岩のような御方だ。だが、刺史の徐璆殿は違う。あの御方は理と情を秤にかける術を知っておいでだ。一度、お三方で相談に赴くが良かろう。今夜の風は北に回った。少しばかり冷える。羽織を忘れるなよ」
荊州刺史、徐璆の幕舎は、朱儁のそれとは対照的に、簡素で静謐な空気が漂っていた。内部には沈香の微かな香りが立ち込め、卓上に置かれた唯一の灯火が、青白い煙を真っ直ぐに立ち昇らせている。向き合った三人のうち、劉憲が静かに、しかし一言一言を噛みしめるように切り出した。
「徐璆様。黄巾の賊徒とはいえ、その多くは重税に喘ぎ、役人の不正に家を追われ、行き場を失って術に縋った哀れな民に過ぎません。
死を賭して抗う者はともかく、惑わされただけで、元の暮らしに戻りたいと願う者たちまで、官軍の剣で等しく断つべきなのでしょうか。どうか、彼らに生きる道を」
徐璆は長く沈黙を守った。卓上の火がぱちりと爆ぜ、灯芯の焦げる匂いが一瞬だけ強く漂う。やがて、彼は重い口を開いた。その瞳には、乱世を見つめ続けてきた男の深い憂いが滲んでいた。
「朱儁将軍は必ずや力攻めを行う。そして、賊への見せしめとして、降伏は一切許さぬと全軍に布告するだろう。それが朝廷の威光を再び地に根付かせる道だと信じているからだ。非情だが、一理ある」
徐璆の鋭い眼光が、劉憲の瞳を射抜くように捉えた。
「……だが、もし。何者かが無視できぬほどの巨大な戦功を、誰もが目を剥くような形で打ち立て、それを差し出す代わりに、この一角の者たちの命を救いたいと嘆願したなら、朱儁将軍といえど無視はできまい」
その言葉は、暗に劉憲たちへ、不可能という名の壁を乗り越えてみせろと命じているに等しかった。
「劉憲よ。お前は、朱儁将軍の岩のような理をねじ伏せるだけの功を、その竹の弓と土の盾、そしてわずかな私兵で掴み取ってみせる覚悟があるか。お前の着ている衣は、その返答次第で血に染まることにもなるぞ」
試すような問いかけに、劉憲は微塵も揺らがなかった。隣で李厳が密かに、震える指を隠すように袖を握りしめ、文聘が槍を握る拳に、白くなるほどの力を込めた。
「……承知いたしました。我ら義勇軍、朱儁将軍が膝を屈して認めざるを得ぬほどの功をもって、その対価として、民の命を買い取ってみせましょう。」
劉憲の返答に、徐璆はわずかに口角を上げ、満足げに目を閉じた。その薄い瞼の下で、次なる時代の奔流を見据えているかのようであった。
宛城を包囲する官軍の篝火が、夜の帳を赤黒く染め上げ、空に立ち昇る火の粉が星を覆い隠している。その重苦しい静寂を縫って、一つの影が音もなく動いた。
侵入者は趙弘の屋敷を避け、副官である韓忠の宿所へと、猫のような足取りで滑り込んだ。
導いたのは、数日前に城を抜け出し、劉憲に命を救われ、酷い飢えの中初めて温かな粥を口にした元黄巾兵である。建物の石材が放つ湿った冷気が、皮膚を刺すように冷たい。
突然の訪問者に、韓忠は寝台から跳ね起きた。彼の瞳には、慢性的な睡眠不足による充血と、拭い去れぬ死への恐怖が貼り付いている。目の前に立つのは、武装こそしているが、どこか文官のような静謐な空気を纏った青年。暗がりに浮かぶ彼の顔は、透き通るような白さを保っていた。
「夜分遅くに失礼する。私は荊州にて義勇軍を率いる、劉憲と申す者だ。外の警備は少しばかり眠りが深いようだったので、失礼させてもらったよ」
韓忠は息を呑んだ。一軍の将が、護衛も連れず、死地であるはずの敵陣の深奥まで単身乗り込んできた。使い込まれた革帯の匂いと、微かな血の残り香が劉憲から漂う。その胆力、あるいは狂気。韓忠は枕元の剣を抜くことさえ忘れ、呆然と劉憲を見つめた。
「劉憲……。北西の森で、我らの兵を底なし沼のように飲み込み続けているあの男か。お前の噂は、この城の壁の中まで染み込んでいるぞ」
「韓忠殿。貴殿は趙弘殿とは違い、これ以上の無益な殺生を望まず、可能ならば降伏を願い出たいと考えておられると我が配下となったこの者から、そう聞き及んでいる。貴殿が大切に育てていた馬も、城外の草原を懐かしんでいるのではないか」
劉憲が傍らの男を指すと、男は深く、地を這うように頭を下げた。韓忠はその顔に見覚えがあった。確かに、数日前まで不眠不休で城壁を守っていた己の部下だ。
「……それがどうした。官軍は降伏を許さぬと、全軍に布告した。今さら何を話すことがある。私はただ、官軍の攻撃に焼かれるのを待つ身だ」
韓忠の声には、重い鎖を引きずるような諦観が響いていた。劉憲は一歩、韓忠に歩み寄る。その瞳には、夜の闇よりも深い、底の見えない光が宿っていた。
「明朝、宛は朱儁将軍による総攻撃を受ける。まず、南西から孫堅という名の猛将が、狂犬のように攻めかかる。貴殿ら黄巾党がそれに応戦し、戦線が引き付けられた時、朱儁将軍の本隊が北東から津波のようになだれ込む手はずだ。この城の木材は乾ききっている。一箇所に火がつけば、瞬く間に灰の街となるだろう」
劉憲は、軍議の最高機密を淡々と、しかし残酷な事実として告げた。その声は、冷たい地下水の滴る音のように響く。
「包囲は完成している。逃げ道はない。そして、朱儁将軍は、城内の黄巾党を一人残らず斬り伏せるつもりだ。貴殿がどれほど平和を望もうと、明日の日没の茜色を拝むことは叶わぬだろう」
韓忠の顔から、一滴の血も残さぬように色が引いていく。外からは、戦に備えて槍を研ぐざらついた音や、絶望に震える兵たちの、子供のような啜り泣きが風に乗って聞こえてくる。
「救いは、ないのか。この城にいる数万の民に、未来はないのか」
韓忠の乾いた問いに、劉憲はわずかに目を細めた。その唇が、死神の接吻のように優美に動く。
「一つだけ、ある。朱儁将軍の鋼の理を打ち破るための、巨大な戦功を私に預けていただきたい。貴殿の手にあるその重荷を、私の肩へ移すのだ」
劉憲の人を惑わす悪鬼のような囁きが、冷え切った宿所の中に、いつまでも重くこだましていた。




