185年 乱世の凡雄02
やがて、司馬徽は怪訝そうに眉の根を寄せると、長い髭の先を小刻みに揺らしながら首を傾げた。盆の中の水は、微かにぬるみ、周囲の竹林の影をぼやけさせている。
「巨先よ、すまぬがこの水を一度捨て、裏の井戸からもう一度、汲みたての冷たい水を張ってきてくれぬか。
どうも私の目が霞む。昨晩、徳公の持ってきた古い濁酒の澱が、まだ頭の奥に残っているのかもしれん」
司馬徽が手首を軽く振り、水盆の縁を傾けると、溜まっていた水が木床の隙間から庭の黒土へと吸い込まれていった。じわじわと土が湿り気を帯び、むっとするような生温かい泥の匂いが庵の中に逆流してくる。向朗は、やれやれと肩をすくめながら、漆の剥げた木桶を手に取った。
「ですから、あれほど深酒はよしなさいと言ったのです。劉県令、少々お待ちください。うちの井戸は深いので、底のほうの水は氷のように冷えております。
お付きの方も、喉が渇いているなら一杯お飲みになるといい。襄陽の水は、南陽のそれよりも少し甘みがありますよ」
向朗が藁草履の音を響かせて中庭へ去っていく間、文聘は所在なげに自らの手のひらを見つめ、新調した革帯の硬さを確かめるように何度も指を動かしていた。衣服の擦れる衣擦れの音が、竹林の騒めきに紛れていく。
新たに張られた水は、向朗の言葉通り指先が痺れるほどに冷たく、盆の底にある黒漆の微かな引っかき傷を鮮明に浮き上がらせていた。波紋が静まり、再び劉憲の顔がその澄んだ膜に映し出される。天井に反射する光の屈折は、先ほどよりも鋭さを増し、冷え切った水気が庵の湿度を僅かに下げた。
司馬徽は再び水面を凝視した。その瞳の奥の光が、次第に驚愕へと変わっていく。一分、二分と長い沈黙が流れ、卓上の酒杯から漂う饐えた匂いだけが三人を取り囲んでいた。やがて、司馬徽がぽつりと、乾いた木が割れるような、信じられぬといった風な声を漏らした。
「おかしい……。何度占っても、変事の兆ししか見えぬ。
其方の天命の糸は、昨年の春――あの黄巾の乱がこの荊州を焼き尽くしたあたりで、一度ぷつりと断ち切れているのだ。そこに残るべきなのは、乾いた骸の影だけのはずなのだ」
文聘が息を呑み、本能的に剣の柄を握る小手が、ぎちりと鈍い音を立てた。司馬徽の視線は、劉憲の衣服の奥、その胸の鼓動の裏側に隠された「何か」を無理矢理に抉り出そうとするかのように、鋭く深く刺さる。
「……天の帳簿から一度消えた者が、さらに強大で、測り知れぬ重みを持った天命を背負い、再びこの泥の上に蘇ったようだ。いや、生かされている、と言うべきか」
その言葉を引き継ぐように、龐徳公が手にした杯を静かに卓へ置いた。陶器が触れ合う、小さくも重い音が庵に響く。彼は重々しく、しかしどこか畏怖を孕んだ声で告げた。
「もし今が、天の理が正しく行われる平穏な治世であったなら、其方はただの大人しい下級官吏として、誰に知られることもなく平穏に生涯を終える凡夫でいられたであろうにな。劉憲殿、その性質、霊亀の如しだ」
霊亀。それは四神の一つに数えられ、万年の星霜を生き抜き、その巨大な甲羅の背に伝説の蓬莱山を背負うという瑞獣。目立つことを嫌って深い泥の底に潜みながらも、その確実な一歩は天の大地を深く刻み、あらゆる災厄を退け、最後には国に安寧をもたらす不気味なほどの象徴。
龐徳公の言葉の真意を、劉憲はその時、まだ完全には理解できなかった。己の背中にあるのは、ただの擦り切れた麻衣の冷たさだけだったからだ。しかし、荊州随一と謳われる名士たちとの間に、誰の目にも触れぬ強固な絆の網が張られたことに静かな満足を覚え、再会を約して、再び陽炎の立ち昇る湖陽への帰路についた。
湖陽の夏は、見渡す限りの湿原から立ちのぼる、肌にまとわりつくような濃厚な熱気と、青々と力強く育ち始めた稲の若々しい香りに包まれていた。白河の流れは初夏の雨を集めて茶色く濁り、堤防の土手にぶつかっては、ざざ、と鈍い水音を立てている。
大きく開発が進むこの泥の土地には、今や、劉憲の名を聞きつけた各地の商人が古びた荷車を引いて立ち寄るようになり、戦火で家を焼かれ、行き場を失って餓死寸前だった流民たちが、縋るように身を寄せるようになっていた。
彼らの持ち込む、手垢のついた木簡や噂話は、都・洛陽や遠方の州がいかに無残な惨状にあるかを、まざまざと浮き彫りにしていた。
「……宮中の宦官十二人が、戦も知らぬ身で列侯に封じられただと?前線で泥を啜り、血を流して戦う者たちの足を後ろから引っ張っていただけの、あの去勢された連中が、天下の富を貪っているというのか」
李厳が苦々しく吐き捨て、情報の記された古い竹簡を、埃の舞う机の上に叩きつけた。竹と竹が擦れ合うざらついた音が、役所の湿った部屋に響く。白河から吹き込む風には、腐った葦の匂いが混じっていた。
「正方、あまり机を叩くな。ただでさえこの部屋の机は、湿気で脚の継ぎ目が緩んでいるのだ。お前が壊したら、次は周倉に木を切り出させねばならんぞ」
黄忠が部屋の隅で、愛用の長弓の弦を丁寧に張り替えながら、穏やかに声をかけた。麻の弦に蜜蝋を塗り込む指先からは、独特の甘い匂いが漂っている。
「漢の命運も、いよいよ尽きかけているな。涼州では羌族の反乱が手の付けられぬほど拡大し、名将・皇甫嵩将軍がその責任を問われて罷免された。
さらに益州では、馬相という不届き者が刺史を殺害し、自ら天子を僭称したという。天下の四方は、あの黄巾の乱以上の底なしの泥沼へと沈みつつある」
劉憲は、集まった将たちの、それぞれに異なる光を宿した顔を静かに見渡した。
「益州の動乱の火の粉も、遠からずこの荊州の国境へと溢れ出してくるだろう。
そして涼州……反乱軍が天子の御陵がある三輔の地にまで迫ったということは、洛陽の喉元に冷たい刃が突きつけられたも同然だ。
世がいよいよ、本格的にひっくり返るかもしれん。我らはこの湖陽で、どう動くべきか」
真っ先に声を上げたのは、やはり若い文聘だった。彼の瞳には、南陽の地で燻らされた武人としての野心が、再び烈しく再燃している。
「孝子、我らも義勇軍を起こし、物資をまとめて涼州へ向かうべきだろう。新たに任命された張温将軍の元には、あの江東の猛将、孫堅殿も招集されたと聞き及ぶ。
我らも刺史の徐璆様に口添えをいただければ、一軍を率いて西方討伐の軍に加われるだろう。今度こそ、誰もが文句のつけようのない正当な軍功を朝廷に認めさせ、太守の座を勝ち取るべきだ」
「待て、仲業。焦るな」
李厳が鋭い声でそれを遮った。机の上の書類を整理する彼の指先には、染み付いた墨が黒く残っている。
「今は、この湖陽の貧しい基盤をようやく固めつつある、最も大事な時期だ。開墾した田がようやく広がり、流民たちも水害の恐怖から逃れて安らぎを得始めたばかり。
今年の秋には、あの湿地から未だかつてない米の収穫が見込めるのだぞ。なぜわざわざ、遠方の干からびた涼州の戦乱へ、我らから首を突っ込む必要がある。ここで静かに力を蓄えることこそが最良だ」
若き二人の激しい議論を、黄忠は瞑目したまま、老練な呼吸を繰り返して静かに聞いていた。主君がどちらの理を拾い上げ、どちらの肉を喰らうのか、その器の深さを試すような重い沈黙が部屋を満たす。
劉憲はしばらくの間、白く乾いた泥の残る指先で、トントンと不規則に木机の端を叩いていたが、やがて顔を上げ、その底の知れない瞳を一同に向けた。
「流民たちは、できる限り何とかしてやりたい。だが、これ以上この湖陽に大々的に人を集め、兵を増やせば、宛城の秦頡が、劉憲は私兵を蓄えて謀反の準備をしていると、洛陽へ難癖をつけてくるだろうな。それは非常に面倒だ、正方の仕事がまた増えてしまう」
劉憲は、広げられた粗末な地図の、極西にある涼州のあたりを、爪の先で静かになぞった。
「そこでだ。朝廷へ納める税に使う麦の余剰と、我々が備蓄している米の一部を、朝廷への純粋な支援物資と称して、涼州の張温将軍の討伐軍に送ろう。我ら自身は、この年は米の残りと豆でも食いつなげばいい」
「支援……か。我らの血税を、兵も出さずに物資だけをただ洛陽の連中に貢ぐと。孝子、それでは我が軍に何の利益もないんじゃないか!」
文聘が納得のいかない、不満げな顔を隠そうともせずに言った。劉憲は暗く、しかし子供がいたずらを思いついたかのように愉しげに笑った。
「ただ送るのではないよ、仲業。涼州という土地は、古来より天下に名だたる良馬の産地だ。
我が軍の支援物資を大切に運ぶ輜重隊が、運悪く涼州の不穏な戦乱に巻き込まれ、そこで偶然にも、敵の反乱軍から大量の軍馬を奪い取り、命からがら湖陽へ逃げ帰ってきた……という形を取るならば、張温将軍も、宛の刺史も、誰一人として我々に文句は言えまい?」
その言葉に、李厳は持っていた筆を止め、目が点になった。部屋の隅で弦を引いていた黄忠が、わずかに片目を開けて、主君の歪んだ横顔を凝視した。
「この湿原の広がる湖陽では、馬の機動力はそれほど役には立たん。だが、南陽の各村々との迅速な連絡や移動、平時における泥地の深い耕作に使えば、我らの復興の効率は飛躍的に上がる。
それに、張温将軍やあの孫堅殿に、飢えを救う食糧をわざわざ遠方から運んできた物好きな功労者として、今のうちに大きな恩を売っておけば、将来、天下が本格的に壊れた時に必ず役に立つ」
「……つまり、自らは一滴の血も流さずに、朝廷への恩と、実利である軍馬だけを涼州の乾いた大地から掠め取ろうというわけですね?本当に、どこまでも食えない御方だ」
李厳が呆れたように、しかしその口元には感服した様子の日陰の吐息が漏れていた。
「無理な戦はせんよ。第一の目標は、洛陽の将どもに恩を売り、こちらの兵力を秦頡の目から隠すことだ。
仲業、そして周倉。輜重隊の護衛という名目で、あの降兵の中から特に口の堅い、腕利きの連中を選び出しておけ。
……ついでにな、涼州の風が、今どのような血の匂いを帯びているのか、その目でよく見てこよう」
劉憲の指示は、常にどこか泥にまみれていて、そして油断がならない。だが、その一石で二鳥も三鳥も同時に撃ち落とそうとする、強欲なまでの合理性に、将たちは再び己の成すべき道を見出し、それぞれの持ち場へと、足音を響かせて動き始めた。




