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210年 英雄の終焉01

建安十七年、晩秋。空には鉛色に濁った厚い雲が重く垂れ込め、天下の天秤は静かに、しかし決定的に傾きつつあった。


刃物のように冷たい北風が、枯れた平野を這うように吹き抜け、剥き出しの土から立ち上る乾いた埃の匂いが、中原の空気をざらつかせている。

楚公・劉憲の治める荊州と司隷は、豊かな水脈の恩恵と人々の活気に満ち、豊穣なる富と強固な防備を以て徹底的な堅守を続けていた。

その一方で、魏王・曹操は分厚い帳に覆われた鄴の宮殿の奥底から、何一つ具体的な行動を起こせずにいた。


いくら河北の広大な農地を復旧しようと躍起になり、戦火に焼かれて黒焦げになった村々を力ずくで立て直そうとしても、国家の最大の礎である人という存在だけは、一朝一夕に生まれるものでも、雨後の筍のように急速に育つものでもない。

流出を食い止めようと法による締め付けを厳しくすれば、絶望した民や名士は夜陰に紛れ、凍えるような夜露に濡れながら再び南や西へ離散し、各郡で新たな反乱の火の手が上がる。

かと言って、反発を恐れて取り締まりを緩めれば、今度は末端の役人たちの不正と汚職が濁流のように横行し、せっかく芽吹きかけた土地は再び荒廃へと逆戻りする。

それはまるで、指の間からきめ細かい砂がとめどなくこぼれ落ちていくような、底なしの泥沼であった。


曹操の発した唯才令により、能力がある者たちが集まってはいるといえば聞こえはいい。

しかし、その実態は、私利私欲を貪るために腹に一物を持つ野心家ばかりであった。彼らが集う朝議の場には、安っぽい香の匂いと、脂ぎった肌の匂いが混ざり合い、ひどく息苦しい空気が漂っていた。

旧来の道徳や漢室の秩序、確かな統治の矜持を持つような有為の知識人や名士たちは、そのほとんどがすでに洛陽や襄陽の澄んだ空気を求めて去ってしまっていたのだ。

いま魏の宮廷に残されているのは、古くからの従順な幕臣か、強引に召し出されて仕える道しかなかった者。

そして、素行や倫理観に致命的な問題があり、楚の学舎や官吏登用では決して重用されなかった落第者の生き残りばかりであった。


日を追うごとに、曹操は自らが踏みしめている足元の石畳が、音を立ててボロボロと腐り落ちてゆくような、形容しがたい恐怖と暗い孤独感に囚われていた。


静まり返った鄴の宮殿。その奥深い暗室には、高級な油を燃やす青白い火が、わずかな隙間風に揺らめいていた。真新しいはずの絹の帳からは、埃と湿気が入り混じったカビの匂いが漂っている。


「……また右の額が疼く。今年の秋は、どうにも風が骨身に堪えるな」


分厚い黒檀の机に肘を突きながら、曹操はしわがれた声で呟いた。誰に言うでもない言葉が、冷たい石の壁に吸い込まれていく。

手元にある竹簡の表面は、撫ですぎて艶光りしており、その冷たい手触りがさらに指先から体温を奪っていくようだった。

いつの間にか微睡みの淵に落ちていた曹操は、暗く淀んだ白昼夢の中にいた。


「ふふふ……。天下の名族たるこの私を、あの手この手で打ち倒して、お前が最後に得た物がこれか、孟徳。

誰一人として信用できず、また、誰一人からも本心で信用されない孤高の玉座とは、さぞかし居心地が良かろうな」


「黙れ……、袁本初。貴様は、余に倍する大軍を持ちながら、官渡で無様に負けた敗者に過ぎんのだ!」


重い瞼を上げた曹操の目の前には、とっくに病没したはずの袁紹が、かつてのような滑らかで華美な絹の衣を纏ってじっと立っていた。

その衣からは、若い頃に共に傾けた極上の酒の甘い香りと、麝香の匂いが幻のように立ち昇り、曹操の鼻腔をくすぐった。

だが、揺らめく蝋燭の光に照らされたその端正な顔に浮かんでいるのは、勝者への激しい怒りなどではなく、底の知れない深い憐れみであった。


「河北は本当に豊かな地であったな。見よ、地平の彼方どこまでも続く黄金の畑、溢れんばかりの活気に満ちた民の群れ。

太陽の光を浴びて輝く麦穂の海は、洛陽などという、狭く古臭いだけの都とは大違いよ。

……ああ、忘れていたな。それらすべては、私とお前が繰り広げた凄惨な戦いによって踏み潰され、鉄の匂いと焦げた血の匂いにまみれた灰燼に帰したのだ。

かつて、暴虐なる董卓が洛陽の街を真っ赤に燃やし尽くしたようにな」


静かに響く、憐れむような袁紹の言葉が、曹操の脳裏にこびりついて離れない。中原の荒れ果てた禿山、風に砂が舞うだけの誰もいない村々の光景を容赦なく呼び起こす。乾いた風の音が、耳の奥でびゅうびゅうと鳴り響いた。

あまりの苛立ちと精神の激痛に耐えかね、曹操は机の上の硯を薙ぎ払いながら、狂ったように怒鳴り声を上げた。


「黙れ、黙れッ。余は、何一つとして間違っておらぬ。王たる者は、決して間違えぬのだ!」


「魏王陛下、何かございましたか?」


主君の尋常ならざる怒号を外で聞きつけ、重臣の鍾繇が顔を真っ青にして部屋へと駆け込んできた。彼が乱暴に開けた扉から冷たい外気が流れ込み、部屋の淀んだ空気を一気に掻き回す。

その足音と風圧と同時に、袁紹の幻影は蝋燭の炎がふっと消えるように霧散していた。甘い酒の匂いも消え失せ、後にはただ、ひび割れた冷たい床の上に、毛先が完全に磨り減った古びた筆が、ぽつんと一本だけ落ちているのみである。


曹操は激しく上下する胸を押さえ、乱れた呼吸を必死に整えながら、手の甲で額の冷や汗を拭った。じっとりと濡れた肌の感覚が、不快なほどに現実味を帯びていた。


「……いや、何でもない。大事無い。ただの、酷くたちの悪い寝言だ」


「は、はあ……。左様でございますか。しかし、お顔色が優れません。また持病の頭痛でございましょうか?

すぐに侍医を呼び、温かい薬湯を運ばせましょう。急な冷え込みのせいで、私の膝も今朝からひどく痛んでおりまして、どうにも難儀しております。陛下もどうかご無理をなされませぬよう」


「そちの膝痛は今に始まったことではあるまい。薬湯は要らぬ。ただ、少し疲れただけだ。……下がれ」


「御意にございます。部屋の火桶には、新しく炭を足しておきましたので」


怪訝そうな顔を浮かべつつも、鍾繇は衣の袖を整えて深く一礼し、足を引きずるようにして静かに部屋を去っていった。


重い木扉がギシリと音を立てて閉まり、再び暗室に沈黙が戻る。その寂しげな後ろ姿を見送った、まさにその瞬間。曹操の背後の暗闇から、再び耳を疑うような、しかし決して忘れることのできない静かな声が、埃舞う空気を優しく揺らした。


「孟徳様。なぜ、かつて誰よりも熱く漢室の復興を掲げて戦っていた貴方が、今ではこれほどまでに漢室を憎み、王などを僭称されるに至ったのですか……」


「文若……」


それは、自ら毒をあおいでこの世を去った、最愛の臣、そして唯一無二の理解者であったはずの荀彧の、どこまでも澄み切った声であった。

微かに、彼が好んで焚いていた沈香の高貴な香りが漂った気がした。

曹操は弾かれたように振り返り、狂おしい目で暗闇の奥を凝視したが、そこには、ただ冷たく重苦しい、一筋の夜風が床を這うように吹き抜けていくだけで、やはり誰も居はしなかった。


自らが血の海を渡り、骨を砕いて突き進んだ覇道の果て。

中原のすべてを力で握りしめたはずの覇王の手には、今や指の隙間から砂のように崩れ落ちてゆく虚無と、ひんやりとした冬の夜気だけが、重く、ただひたすらに重く残されていた。

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