207年 木牛流馬
建安十四年、秋。数年前、劉備一党が過激なまでの理想の果てに自滅したことで、またたく間に統治の骨組みを失い完全に空白地帯と化していた益州。
現在は、楚公・劉憲の陣営が拠る綿竹関から、蜀の険しい山肌を這うようにして、じわじわと軍兵が治安維持と秩序の再建に乗り出していた。
その地にはびこる古い産業や独自の技術動向を調査するため、ふらりと現地へ出向していた黄月英から、晩秋の冷気が忍び寄る襄陽の楚公府へ、一通の書簡が届けられた。
格子窓から差し込む斜めの陽光が、室内に漂う細かな塵を白くきらめかせ、床に敷かれた古い毛筵の上に細長い縞模様を落としている。
劉憲は、益州の湿った草の匂いが微かに染み付いた竹筒から、手漉きの素朴な紙を取り出した。その紙は中原のものより繊維が荒く、指先に触れるとざらりとした独特の手触りがあった。
そこに流麗でありながらも芯の通った墨で記されていたのは、あまりにも簡潔な一文であった。
――木牛流馬が完成いたしました。
「木牛、流馬。木の牛に、流れる河の馬、か。月英の書く文字は相変わらず、無駄肉を削ぎ落とした削り出しの槍のようで、こちらの背筋が伸びる思いがするな。
孔明、彼女は現地でまともに食事をとっているのか。蜀の食べ物は山椒が強くて喉が焼けると、以前に旅の商人が零していたが」
「ははは、ご心配には及びません、孝子様。月英は元より隆中の山奥で育ち、野草や木の実の扱いに長けておりますから、むしろ現地の薬草を干して独自の煎じ茶を作り、将兵に振る舞っていると報告がございました。
ただ、手紙と一緒に送られてきた乾燥肉が、まるで使い古した革鎧のように硬くて、私の未熟な歯では噛みちぎるのに半刻もかかりましたが」
諸葛亮はそう言って、細い指先で自らの顎をさすりながら、どこか誇らしげで、しかし極めて温和な微笑を浮かべた。
それから、どこからともなく運んできたずしりと重みのある分厚い古布に描かれた図面の束を、古い欅の机の上に衣擦れの音を立てて大きく広げた。
室内に、植物から採った独特の渋い染料と、濃密な松脂の匂いがにわかに立ち込める。
「孝子様、益州という土地は、天が人を拒むかのように尖った山々が連なり、年中深い霧が立ち込める湿潤な地形にございます。
天を突くような険路は常に足元が崩れやすく、谷底の隘路は泥濘に満ちております。とても中原で使うような、頑丈な車軸を備えた通常の二輪や四輪の大型荷車では、道幅が足りず車輪が浮き、通ることすらままなりませんでした。
物資を運ぶには、足腰の強い驢馬の背に重荷を括り付けるか、さもなくば飢えに耐える人足が自らの細い背に背負い、杖を突きながら岩や木の根に足を取られて歩くしかなかったのです」
「そうだな。私が以前、いくら益州の山の奥深くに魅力的な鉄や銅の膨大な鉱山が眠っていようとも、前線の兵站が細い糸のように切れてしまっては意味がない。繋がらぬ以上は無理に兵を動かして平定する必要など無い、と判断したのもまさにそのためだ。
あそこは、麦一袋を前線に運ぶために道中で三袋を消費する。物を運ぶだけで、国力という名の軍費が底の抜けた桶のように消し飛ぶ場所だ」
「ええ。その輸送という名の、人体で言えば血の巡りの限界を、根底から覆すために、月英が山の職人たちと現地で設計し、組み立てたのがこれらにございます」
諸葛亮は深く頷くと、長年使い込まれて端が擦り切れた図面の最初の一枚を、長い指先で静かに捲った。
そこには、木目の流れまで緻密に計算された、奇妙な形状の骨組みが細い墨線で描かれていた。光の屈折によって、布の表面の凹凸がわずかな影を作っている。
「まずは、この木牛。これは驢馬の首に特製の軛をかけて引かせたり、あるいは体格の良い人足が自ら手で両の取っ手を握って力強く押して進む、独特な重心構造を持った一輪、もしくは狭い車幅で前後にまっすぐ並んだ二輪の小型荷車にございます。
車輪の接地面が一列の直線であるため、どれほど道幅が狭く、片側が切り立った崖であるような険しい隘路であっても、左右の岩壁に突起した車軸を激しくぶつけることなく滑らかに進め、その場での急な方向転換も独りで容易に行えます。
これにより、人一人が背中に背負う数倍もの重量の米や、ずっしりと重い青銅の資材を、車輪の回転に重さを預けることで、狭い山道でも安全に、かつ息を切らすことなく運ぶことが可能になります」
「なるほど。牛のように歩みは遅くとも、確実に多くの重荷を一度に、壊すことなく運べる。だから木牛か。
華美な装飾を嫌う月英らしい、実に向こうの山岳の風土に合わせた、よく考えられた実用的な道具だ。昔、彼女が襄陽の学舎裏手で作っていた、水を自動で汲み上げる大きな木輪を思い出すよ」
劉憲が感心して、顎に生え始めた髭を小さくさすりながら呟くと、諸葛亮は「本領はここからです」と言わんばかりに、まつ毛の長いその瞳の奥に不敵な光を宿し、いたずらっぽく笑って次の分厚い図面を大きく捲った。
そこには、車輪という概念を完全に削ぎ落とした、平べったく頑丈そうな木製の器具が、上からの俯瞰図で描かれていた。
「続いて、こちらの流馬。これは車輪を持たず、底部を徹底的に磨き上げた、極めて頑丈な木製のそりにございます。
益州の険しい山肌の、突き出た土石をあらかじめ人足たちに削らせて平らに固め、このそりの二本の足が寸分の狂いもなく綺麗に収まる専用の滑走道、すなわち木製の軌道を、山頂の採掘場から遥か麓に向けて幾重にも敷き詰めるのです。
鉱山などの湿った山腹で切り出した、人力ではびくともしない重い銅の鉱石や、巨木の木材をこれに載せ、川沿いや加工場に通ずる麓の平坦な集積地まで、物体の持つ自重そのものを利用して、一気に斜面を滑り落とします」
それを聞いた劉憲は、一瞬の不気味な風の音を聴いたかのように目を丸くし、椅子から腰を浮かせて机の上の図面に身を乗り出した。彼の錦の袖が、木簡の端に当たって小さな乾いた音を立てる。
「待て待て、孔明。そんな目が眩むような険しい山の上から、何斤もあるような重い鉱石を載せた木そりをただ滑り落としたら、麓に届く頃には風を切り裂く凄まじい速さになってしまう。
受け取り側の兵や、油断して荷を待っている人足が、制御を失った木の塊に激突されて身体を砕かれて死んでしまうではないか。極めて危険な、人命を軽んじた暴れ馬になりかねんぞ」
「ふふ、ご安心ください、孝子様。当然、ただ坂を落とすだけの無鉄砲な道具ではございません」
諸葛亮は図面の端に細かく描き込まれた、縄の結び目の意匠を指先で丁寧になぞった。
「そりの両端、および山頂の要所に設けた頑丈な木柱には、太い大麻の繊維と、牛の革を固く編み込んだ強靭な制動縄を何重にも結び付けておきます。
上方の人間が、巻き上げ機を用いてこの縄の張りを微妙に調整し、摩擦を加えることで、下る速度を自在に制御するのです。
また、途中で山肌の傾斜が緩んでそりが途中で詰まってしまった際には、下方の合図とともに、麓からこの縄を力強く引いて引き下ろす役割も果たします」
諸葛亮はさらに言葉を続け、視線をふと祭祀用の、中庭に置かれた大きな青銅の水瓶へと向けた。水面は秋の冷気で静まり返り、空の青を鏡のように反射している。
「そして、一日の動き始めや、乾燥で木と道が擦れ合い、滑りが悪くなって溝の途中で詰まりかけた時には、この滑走道の溝に向けて、上から少量の水を絶え間なく流し込みます。
山の泥や、木の油が水と混ざり合うことで天然の潤滑剤となり、木肌を驚くほど滑らかに、まるで魚の如く動かすことができるのです。
……水を流し、山を駆け下りる馬の如き速さで安全に物を運ぶ。ゆえに、流馬と名付けられました」
「水を流して、詰まりを殺し、そりを滑らせる、か」
劉憲は静かに目を閉じ、現地の冷たい霧が立ち込める益州の、険しくも生命力に満ちた青々とした山々の光景を、ありありと頭の中に思い描いた。
これまで、数え切れないほどの人々が命がけで一籠ずつ背負い、足の爪を剥がしながら下りていた険しい峻嶺の鉱山。
そこから削り出された膨大な銅や鉄の原石が、この流馬という木と水の仕組みによって、峻烈な水音とともに、安全に麓の集積地へと次々に滑り落ちてゆく。
そして麓に届いた莫大な物資は、一糸乱れぬ規律を持った人足たちの押す木牛の長い列に載せられ、蛇の如くうねる狭い山道を越えて、我が荊州へと繋がる長江の港へと、絶え間なく運ばれてゆくのだ。
閉ざされていた益州の山々に、いま、誰も見たことのない物流という名の巨大な動脈が、音を立てて開通しようとしていた。
「素晴らしいな、孔明。これが完全に稼働すれば、益州のような険しく孤立した土地であっても、人の血が全身を巡るように物資が行き交い、我らの楚の富は、東の魏をさらに何倍も突き放して膨れ上がっていく。
曹操殿が中原の乾いた大地で兵たちの血を流し、己の権威のために巨大な銅雀台を建てて悦に入っている間に、我々はひそかに山を削り、民の腹を満たす本物の富を大河のように流すというわけだ」
劉憲はゆっくりと目を開けると、実におかしそうに、そしてその底に深い慈悲と冷徹な計算を湛えた策士の笑みを浮かべて、諸葛亮をまっすぐに見つめた。
「孔明。すぐに月英に返書を書け。襄陽の蔵にある予算も、荊州から集めた腕利きの職人も、必要なだけいくらでも益州へ注ぎ込もう。
ただし、あまりにも熱中して現地の山を丸裸の更地にしすぎて、魏延の山を焼き尽くした火計の二の舞にだけはならないように、と釘を刺しておいてくれ。
彼女が山にこもると、道具に夢中で夜露に濡れるのも忘れるからな」
「ははは、よく心得ております。月英もきっと、主君からのその温かい、かつ耳の痛いお言葉を頂ければ、苦笑いしながらもさらに新しい運搬具の図面を増やすことでしょう」
若き天才軍師は、初秋の風のように爽やかに笑うと、広大な天下の勢力図をさらに新しく、血の通った富の循環によって書き換えるべく、愛おしそうに広大な図面を巻き取るのであった。
なお、この益州の山々を、人も馬も介さずに音を立てて物資が滑り落ちていく流馬の光景を目撃した現地の無知な山民たちは、後にこれを「人も馬も無く自動で進む、呪われた妖術の荷車」であると各地に喧伝した。
それが遠い後の世において、歯車と複雑な木組みを組み合わせた、からくり機械の化け物として、様々な物語や講談の中で面白おかしく描かれる端緒となるのだが、それはまだ、誰も知る由のない遠い未来の出来事であった。




