207年 龍狼騎
建安十四年、夏。肌にねっとりとまとわりつくような、濃密で重い湿気が襄陽の街全体を水底のように沈み込ませていた。
容赦なく照りつける白日の光は、庭の池の水面で鋭く反射し、楚公府の執務室の天井に揺らめく光の波紋を映し出している。けたたましい蝉の鳴き声と、むせ返るような青葉の匂いが、風の止まった室内に淀んでいた。
「……仲達。額にひどく汗をかいているぞ。いくら儀礼を重んじるとはいえ、この蒸し風呂のような気候でその分厚い黒の衣は堪えるだろう。
氷室から出させた氷を入れた、冷たい梅割りがある。少し喉を潤してはどうだ」
「お気遣い痛み入ります、楚公。しかし、冷たいものばかりを胃の腑に流し込むと、後で酷く腹が下りますから。
先日からどうも、夜の冷えのせいか夜中に何度も目が覚めてしまいまして。妻にも小言を言われる始末です。
それにしても、この香炉から立ち昇る白檀の煙まで、湿気のせいでちっとも上へ昇っていきませんな」
司馬懿が、袂から取り出した手拭いでこめかみを流れ落ちる汗を丁寧に拭いながら、恨めしそうに青銅の香炉を睨みつけた。
「そうか。ならば夕餉には、生姜をたっぷりと効かせた鯉の汁物を頼んでおこう。あれは腹の底から温まるし、夏枯れの体に活を入れてくれる」
劉憲は笑いながら、竹簡の束の上に置かれた杯を手にとった。その時、廊下を慌ただしく擦る足音が響き、洛陽を任せている郭嘉からの急使が一通の書簡を届けに現れた。
劉憲が受け取った竹簡からは、洛陽の乾いた土埃の匂いと、膠の強く香る上等な墨の匂いが微かに漂ってきた。滑らかに削られた竹の表面は、手汗をかいた指先にも心地よく冷たい。
紐を解き、パラパラと乾いた音を立てて竹簡を開いた劉憲は、そこに流麗でどこか飄々とした筆致の墨で記された提案に目を落とす。
――幽州の公孫康殿と、我が方と友好関係にある南匈奴の国境を通じて、直接の交易を行いたい。楚公の許可を求める。
「なるほど。遼東は東の果ての巨大な交易地にして、雪のように白く豊かな塩の産地でもある。
曹操殿の戦乱と苛烈な法を嫌って中原から逃げ延びた多くの民や名士が暮らす、極めて豊かな土地だ。彼らと誼を通じ、交易の路を開くのは、我が方の財を潤すためにも決して損は無いだろうな。
あの地の塩漬けの魚は、冬の保存食として実に優秀だしな」
劉憲は竹の繊維を指の腹でなぞりながら深く納得し、手元から使い慣れた印綬をとった。ねっとりとした質感の朱肉に印を沈め、許可を押そうとした。
しかし、その後に続く一文を目にした瞬間、ぴたりと劉憲の手が空中で止まった。印から朱色の滴が落ちそうになり、慌てて硯の縁でそれを受ける。
――なお、往復の長き旅路の護衛、ならびに交易路の安全を確保するため、部分的な鉄鎧を纏わせた独自の騎馬傭兵『龍狼騎』を新たに編成するものとする。主たる将官には、魏延を据える。
背後から、少しでも涼を取ろうと窓際に寄っていた司馬懿がその書簡を盗み見た瞬間、彼の整った眉間に、刃物で刻んだような深い溝が瞬時にして走った。
「……楚公。これ、またあの洛陽の忌々しい仮面の軍師どもが、郭嘉の底知れぬ策謀に乗っかって、何か途方もないことをやらかすつもりでしょう。
鉄鎧を纏った異民族の騎馬兵など、正気の沙汰とは思えん」
劉憲は朱肉を含んだ印を持ったまま、やれやれといった風情で苦笑を漏らし、肩をすくめた。
「ああ。おそらくは、我が方と交流の深い南匈奴の精鋭を引き抜き、我が方で打った良質な鉄を配って、曹操軍の誇る虎豹騎もどきに仕立て上げる気だ。
彼らを傭兵として雇い、高い報酬を払うことで、我々への経済的・技術的な依存をさらに強めると同時に、北方の周辺部族への牽制……いや、何より北を平定したばかりの曹操への、喉元に突きつける無言の巨大な圧力として使うつもりだろうね。
郭嘉らしい、実におぞましいほどに美しい手筋だ」
先年、烏丸族が曹操によって徹底的に攻められ、大地が血と焦げた肉の匂いに染まったばかりであり、北方の騎馬民族たちの魏に対する感情は最悪の一途をたどっていた。
そんな恐怖と困窮の最中、乾いた風が吹き荒れる北の大地に生きる彼らの元へ、交易という名目で、破格の報酬として甘く美味い食糧と、鈍く光る頑丈な鉄の装備、そして安全に稼げる仕事を与えてくれる救世主のような君主が現れたら、彼らがどちらにすがりつき、懐くかなど、火を見るより明らかであった。
「……よし、許可する!」
劉憲は迷いを捨て、竹簡の末尾に、重々しい音を立てて鮮やかな朱印を捺した。辰砂の放つ独特の鉄錆に似た匂いが、むっとする夏の空気の中にふわりと広がった。
「本当によいのか?」
納得のいかない司馬懿の鋭い声が、蟬時雨を切り裂いて室内に響き渡る。
「匈奴のような異民族が我が方の鉄を得て強くなるということは、万が一、彼らがその鉄の牙を剥いてこちらに反乱を起こした際、その鎮圧が著しく困難になるということを意味するのだぞ。
獣に鋭い爪を与えて手懐けようなど、傲慢が過ぎる!」
司馬懿の、極めて現実的で真っ当な危機感に対し、劉憲は捺し終えた印を硯置きに静かに置くと、簾の隙間から見える、目に刺さるような夏の青空と白雲を見上げながら、どこか遠い目をして呟いた。
「仲達。いかなる優れた武具や強靭な鉄の装備も、永遠にその形と鋭さを保ち続けることはできないのだよ。
剣は人を斬り骨を断てばたちまち刃が欠け、鉄の鎧は雨露に濡れ、手入れを怠ればわずか数日で無残に赤く錆びる。
手入れのための油、砥石、欠けた部品を直すための鍛冶の技術、そして新しく交換するための鉄の供給源……その大本となる命綱をすべて握っているのは、我々なのだ」
劉憲はゆっくりと振り返り、不安と怒りに揺れる司馬懿の鋭い目を、宥めるように優しく見つめ返した。
「あらゆる物事は、そなたが飲む薬と同じさ。使い方と、その与える量さえ間違えなければ、決して牙を剥いて内臓を食い破る猛毒にはなるまいよ」
「……」
司馬懿は、その静かな言葉に一応の論理的な納得はした。
しかし、それは裏を返せば、ひとたび油断して使い方や手綱の量をわずかでも誤れば、身内が最も凄惨な大怪我を負うという、あまりにも巨大な諸刃の剣であることに変わりはなかった。額から再び、じわりと冷たい汗が噴き出すのを感じる。
(理屈は十分に分かる。補給線を握ることで首輪とするのは、確かに理にかなっている。
だが……あの底の見えない郭嘉と、戦狂いの魏延にその危険な手綱を握らせて、本当に劇薬の量を一滴も間違えないと言い切れるのか……?)
結局、主君のあまりにも大胆な、経済的・軍事的な大博打に見えるこの策に対し、司馬懿の眉間に深く寄った皺が、完全に元通りに伸びて消えるまでには、それから随分と長い時間と、胃の痛むような日々を要することになるのだった。
外では相変わらず、命を削るようなけたたましい蝉の声が、熱風とともに響き続けていた。




