207年 漢書
建安十四年、春。厳しかった冬の寒さがようやく地底へと退き、微かな湿気を孕んだ柔らかな陽光が、襄陽の街の土壁や瓦屋根を黄金色に包み込む頃。
襄陽の巨大な学舎の奥まった一画にある薄暗い部屋は、かつてない静かな歓喜と、それに相反するような熱気に満ちていた。
部屋の中心には、晴れやかな、しかし長年の重荷を下ろしたような安堵の疲労を滲ませた表情の蔡琰、すなわち昭姫が静かに座していた。
彼女を取り囲むように立つ劉先、徐庶、石韜、孟建といった当代随一の知識人たちは、卓の上に山と積まれた膨大な木簡と、未だ膠と混じった瑞々しい墨の深く甘い香りを漂わせている真新しい絹布の束を、我が子を見るような誇らしげな眼差しで見つめていた。
「昭姫殿、いくらなんでも昨夜は灯を点しすぎたのではないですか。目元に少し隈ができておられますよ。
この石韜が持ってきた、目に効くという枸杞の葉を煎じた茶でも飲んで、少し休まれては」
「お気遣いありがとうございます。でも、最後の墨を入れるまでは、どうにも筆を置く気になれなくて。
見てください、この兎の毛の筆も、すっかり先が丸く擦り切れてしまいましたわ」
「いやはや、無理もありません。我々もそろそろ老眼が忍び寄る年齢になってきましたからな。細かい文字を蝋燭の灯りだけで書き写すのは、首の筋が凝って仕方がない。
それにしても、この部屋はすっかり上等な墨の香りが壁や床板にまで染み付いてしまったようだ。深呼吸するだけで、腹の中まで墨で黒くなりそうですよ」
孟建が太い首を揉みながら笑うと、部屋の中に和やかな空気が流れた。
卓の上に鎮座するその膨大な文字の集合体は、昭姫の父であり、稀代の碩学と謳われた蔡邕が生涯の最後まで書き記すことを熱望しながらも叶わなかった、前漢から後漢に至るまでの歴史を余すことなく記述した正統なる、漢書であった。
蔡邕はかつて、暴虐を尽くした董卓の死に際して、ほんのわずかな私情の嘆息を漏らしたというだけで、王允によって暗い牢に投獄され、非運の中で冷たい石の床で獄死した。
しかし、父の無念の遺志と、埃を被った膨大な資料を託された昭姫は、劉憲の手によって血の匂いが立ち込める激動の乱世を生き延び、この襄陽の地へと辿り着いたのだ。
父の遺したあまりにも巨大な大業。
それは、天下の英才が集うこの学舎の明晰な頭脳たちと、劉憲陣営が国家規模で惜しみなく支援した高価な紙や絹、そして質の良い墨などの物資を以てしても、一応の完成を見るまでに十数年という途方もない歳月と、指に消えない墨の染みを作るほどの手間を要したのである。
「――昭姫、 蔡邕殿の、いや、君たちの悲願が、ついにここに成ったのか!」
突然、勢いよく木戸が開き、洛陽での政務の合間、早馬の急報を受けて息を切らせながら駆けつけてきた劉憲が部屋に足を踏み入れた。
彼の纏う外套からは、長旅の汗と、擦れた革の匂い、そして春特有の少し埃っぽい土の匂いが立ち昇った。
「おお、我が君。洛陽からの強行軍、お疲れ様です。少し喉が渇いておられるでしょう、白湯でもお持ちしましょうか?」
「あ、ああ、頼む石韜。いや、洛陽からの道中、どうにも新調した馬の鞍の具合が悪くてな、右の尻がすりむけて痛いのなんの。
それに、春の風はまだ少し砂っぽくて、喉の奥がザラザラしてかなわん。
……だが、そんなことはどうでもいい。ついに、出来たのだな?」
劉憲は白湯を待たず、部屋の中央の卓の上に厳かに置かれた、一番最後の書へと飛びついた。
震える手でその新しい絹布を手に取ると、指先に滑らかな織り目の感触が伝わってくる。微かに窓から差し込む光が、乾いたばかりの漆黒の文字の表面で鈍く反射していた。
劉憲は、ゆっくりと頁をめくっていく。最初は、偉大な歴史の完成に立ち会えた感動から、瞬きも忘れるほど神妙極まる表情で読み進めていた劉憲であったが、記述がここ数十年という現在の時間に近づき、後半の項に差し掛かるにつれ、その眉がゆっくりとハの字に曲がり、額にはじわりと汗が滲み、表情が何とも言えない微妙なものへと変わっていった。
「……あの、昭姫。私もこれでも、今や一応は天下に号令する楚公という、それなりに大層な立場になったのだから……その、歴史の記述において、もう少しこう、筆の滑りというか、手心のようなものを加えてくれても良いのではないだろうか?」
「手心、とは何にございますか?」
昭姫は、煎じ茶の入った土器の杯を両手で包み込むように持ちながら、不思議そうに小首を傾げる。
「いや、例えばだ。私が最初に興した義勇軍の装備が、ただの削り出した青竹の武器と、木に泥を塗りたくっただけの粗末で重い盾だった、というあたりまでは、悲しいかな事実だから百歩譲ってよいとしよう。
泥が乾いてボロボロ落ちるのが酷く厄介だったがな。
だが……その後の戦いで、敵の黄巾軍に毒や汚物を塗った毒矢を大量に射ち込んで撃退したくだりまでは、わざわざ末代まで残るであろう高貴な歴史書に、これほど詳細に書かぬ方が良いのではないか。
ほら、息子の文伯が成長してこれを読んで、変な真似でもしたら親として教育上いかんし……あの毒矢の製法は、あまりにも品がない」
「事実ですので、省くわけにはまいりません」
昭姫の返答は、沸かしたての白湯のように実にあっさりと淡白なものであった。
「うぐっ……。で、では、あの江東の虎、孫堅殿とのあの歴史的な決戦の記述はどうだ。
あれも、もっとこう、日が暮れるまで激しい打ち合いは数十合にも及び、両軍の将兵が息を呑んで見守った、とか、私と孫堅殿の武人としての勇姿を、多少誇張して強調する感じで書いてくれても……」
「そのような事実は一切ございませんので。
我が君は分厚い城壁の陰に隠れながら、身を縮めてちまちまと弩を撃っておられたと、当時の将兵の記録木簡にしっかりと残っております。
風の向きまで記録されていましたよ」
「隠れてはいない。 私はただ、全体の戦況を慎重に見ていただけだ。城壁を背にしていたのは、弩の弦が湿気で緩んでいないか確認していたのだ」
取り付く島もない昭姫の鉄壁の正論と、記録の正確さに、劉憲がガックリと肩を落として項垂れると、周囲で見守っていた徐庶や石韜らから、腹の底から湧き上がるような、堪えきれないといった様子でどっと大きな苦笑が沸き起こった。
「まあまあ、我が君。泥臭かろうと何だろうと、勝ちは勝ちです。おかげで我々は今、こうして上等な茶を飲めているのですから」
孟建が涙ぐみながら笑い飛ばす。ひとしきり落胆した劉憲は、小さくため息をつき、気を取り直したように顔を上げ、手元の一冊をそっと、まるで壊れ物を扱うように卓に戻した。
「……まあ、いい。事実なら仕方がない。あの頃は確かに、泥水をすするような毎日だった。それで、これでついに我が漢朝の歴史は、完全なる完成となるのか?」
劉憲の静かな問いに、昭姫は茶杯を置き、静かに首を振った。
その透き通るような黒い瞳は、半開きの窓の外に広がる、瓦屋根が連なり、今なお人々の活気に息づく豊かな襄陽の街並みへと向けられる。微かな風が、咲き始めた梅の淡い香りを部屋の奥まで運んできた。
「いいえ、我が君。歴史とは、常に留まることなく流れる大河のようなもの。
この書は、私たちが今日という現在までに起きた出来事を、ほんの少し、この絹布に書き留めたに過ぎません。
明日になればまた新しい一日が足され、世界のどこかで誰かが何かを成せば、項はいくらでも増えていくのです。
この歴史の記述が終わる日など、この先千年あろうとも、決して来ることはないでしょう」
「……千年か。そんなものかね。
ならば、これから先、文伯やその後の子孫たちに、あまり泥に塗れた情けない姿ばかりを歴史に残されないためにも……私はもっと、楚公として格好良く頑張らなくてはならんな。
まずはこの、馬に乗るたびに痛む尻をなんとかせねば」
不純な動機ながらも、衣服の袖を捲り上げ、拳を握って小さく意気込んでみせる劉憲。
そんな主君であり、不器用な夫でもあるその姿をじっと見つめていた昭姫の口元に、いつしか春の陽だまりのような、優しく穏やかな微笑みが灯った。
「いいえ。――孝子は、そのままでよいのです」
気負う必要などない。泥の盾を構え、見栄えの悪い毒矢を放ち、どれほど格好悪くとも、民のために泥をすすって生き延び、この温かな日差しと豊かさを築き上げてくれたその不器用な歩みこそが、何よりも尊い歴史なのだから。
不意に字を優しく呼ばれ、その柔らかい微笑みを間近で見た劉憲は、不意を突かれたように目を丸くした。
そして次の瞬間、彼の少し日焼けした白い顔は、学舎の庭に咲き誇る見事な梅の蕾のように、瞬く間に赤く染まってしまった。
その照れ隠しのように、彼はしきりに首の後ろを掻きながら、小さく咳払いをするのだった。




