↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
73/75

206年 楚公

秋の実りが中原の広大な大地を黄金色に染め上げる頃。乾いた風が運ぶ稲穂の香ばしい匂いと、微かに混じる土埃の匂いが、空気を心地よく満たしていた。

新都・洛陽は、秋特有の澄み切った冷涼な空気に包まれ、厳かでありながらも、どこか人々の暮らしの息吹を感じさせる静謐な熱気を帯びていた。


劉憲は、建て直されたばかりの献帝の霊廟の控室で、秋の斜光が微細な塵を透かして射し込む中、仕立てられたばかりの豪奢な錦の衣に身を包まれていた。新しい絹糸の滑らかな手触りと、染料のわずかに青臭い匂いが鼻を突く。

劉憲はあからさまに嫌そうな表情を隠そうともせず、ずしりと肩にのしかかる布の重みを感じながら、磨き上げられた青銅の鏡に映る己の姿を忌々しげに見つめた。


「子柔、今朝の粟粥は少しばかり熱すぎたな。まだ舌の先が微かに痺れているような気がする。

それに、この錦の衣だが……首回りに施された金糸の刺繍が硬くて、肌をチクチクと刺してかなわん。そなたの着ている着慣れた麻の衣の方が、風通しも良くてよほど肌馴染みが良さそうだ」


「我が君、それは仕立ての職人がこの晴れの日に気合を入れすぎたのでしょう。

今朝の底冷えには、熱い粥が胃の腑を温めるのに丁度良いかと存じまして、私が厨房の者に少し火を強くするよう申し付けたのです。舌の痺れは、後で温かい茶でも飲めば引くでしょう」


蒯良が、衣の裾の乱れを直しながら淡々と答える。劉憲は小さくため息をつき、首元を指で少し広げようとした。


「……なぁ、子柔。もはや私の地位など、このまま荊州牧と鎮南将軍のままで十分ではないか?

現に私は実質的な公としての政務をこなしているし、領内の民衆も私のことを自然と公だと呼んでくれている。

今更このような重苦しくて窮屈な服を着て、仰々しく王公の肩書きを正式に名乗るなど、もはや何の実質的な意味も無いと思うのだが?」


「我が君、これは民衆の安心のため、そして天下の秩序を乱さぬためにどうしても必要な儀礼にございます。

後の祭りとならぬよう、各方面への根回しなど色々と配慮は尽くしてありますので、どうかここは首の痒みを堪えてください」


蒯良が、諭すように、しかしぴしゃりと有無を言わさぬ口調で釘を刺した。

かつて賈詡が、曹操を魏王の座へと押し出すための毒付きの餌として、天下の商人たちの口を通じて巧妙に広めた『劉憲、楚公に就任』という虚報。

曹操が中原の覇者となり、あの巨大で無用の長物たる銅雀台を築いて自ら魏王を自称した今、その嘘が皮肉にも鏡写しの真実として、この洛陽の地で成就しようとしていた。


ただし、劉憲の冠する公という地位は、曹操の血生臭い武力によるそれとは決定的に異なっていた。

劉憲はどこまでも漢室に忠誠を誓う一介の臣下であり、皇帝が不在となり実体が完全に喪失してしまった漢王朝の政務・軍務を、臣下として実質的に代行し、機能させるための公という、極めて複雑で、かつ老獪な立場をとる。


これにより、漢室の権威は完全に不可侵の象徴へと昇華されることになった。

この先、曹操がどれほど軍事的に盛り返し、魏王という名称を強引な盾にして各地を不当に差配しようと画策したところで、漢王朝の全制度をそのまま背負う劉憲の公という巨大な壁に、すべての正当性を叩き潰される。そのための、一滴の血も流さぬ絶対的な防壁であった。


復興された洛陽の宮殿は、かつての漢の栄華を知る者からすれば、必要最低限の規模に留められていた。そこは権力や富を誇示する場ではなく、純然たる政務と祭祀を行うための機能的な場であった。

華美な金銀の装飾や極彩色の壁画などは一切無く、ただ磨かれた石畳の冷たい感触と、うっすらと香煙の匂いだけが満ちている。

時折、通りかかった民や、分厚い木簡を抱えた文官たちが、宮殿内にひっそりと設置された歴代皇帝の霊廟に向かって、衣擦れの音だけを立てて静かに祈りを捧げていく。


劉憲自身の住まいもまた、主君としての威厳より日々の実利と効率を最優先し、襄陽時代と同様に洛陽の最も防備が硬い一角に、土壁の簡素な造りで存在するのみであった。

愛する妻の昭姫と、愛息の文伯のために、彼らの心を癒す小さな庭園が特別に作られている以外は、他の高官たちの屋敷と比べても何ら大差のない、質実剛健な佇まいである。

庭園からは、少し乾燥した秋の風に乗って、色づいた葉の擦れるカサカサという心地よい音が聞こえていた。


「父上、頑張ってください!」


不意に、少し舌足らずな聞き馴染んだ愛らしい声が、石造りの廊下に響いた。

見れば、秋の日差しが降り注ぐ中庭の向こうから、孫家の気の強い姫君である孫尚香に優しく手を引かれながら、息子の文伯が小さな体を弾ませて、一生懸命に声を飛ばしてくれている。

襄陽の学舎から洛陽のこの儀式へと、わざわざ馬車を乗り継いで駆けつけてくれたのだろう。


我が子の健やかな姿を目にした瞬間、劉憲の顔から先ほどまでの首の痒みからくる不機嫌な曇り空が綺麗に消え去り、目尻に深い皺を刻んだいつもの穏やかな父親の笑顔が戻った。


「おお、文伯ではないか。道中、馬車の窓から入る風は冷たくなかったか?

尚香殿も、わざわざこの子の手を引いてご苦労だったな。その藍染めの外套、洛陽の秋空によく似合っている」


「ふふ、これくらいなんのその。文伯は道すがら、寒がるどころかずっと赤い落ち葉を拾っては、私の袖に押し込んではしゃいでおりましたよ。

さあ、劉孝子様。この子に立派なお姿を見せてさしあげてくださいな」


尚香がからかうように笑うと、文伯も誇らしげに胸を張った。


「ああ、ありがとう、文伯。父はしっかり務めてくるよ。終わったら、洛陽の街で温かい饅頭でも食べよう」


息子に優しく手を振り返すと、劉憲は小さく息を吐き、衣服の重みに逆らうように再び居住まいを正して、霊廟の奥へと進み出た。

重々しい沈香の煙が濃密に立ち込める中、劉憲は歴代の天子、そして冷たい黄河に沈み非業の死を遂げた献帝の霊前に進み出る。

膝をつき、冷たい石の床の感触を肌で感じながら、楚公に就任する旨を低く、しかし力強い声で厳かに宣言する。

そして、帝位の継承や簒奪ではなく、この失われた漢の治世を実務と法によって末永く守り抜くという、彼なりの泥臭くも現実的な誓いを立て、古式に則り厳かに祭祀を執り行った。


曹操が勝手に定めた黄初の元号など、この地では誰も認めない。

元号は、献帝が崩御した悲劇の日にまで清く遡り、建安と定められ正統なる時を刻み始める。


天下の暦の上で、この日は――建安十三年、秋。

偽りの覇王が北の乾いた大地で血と怨嗟を流す中、正統なる血の巡りたる経済と秩序を司る楚公・劉憲の、真の天下統治が、沈香の煙とともにここから静かに幕を開けるのだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。