205年 乱世の奸雄
興平十二年、初春。凍てつく北風が、幽州の乾いた泥土を巻き上げて、吹き付ける。袁尚と袁煕の兄弟が命からがら北方の烏丸族の元へと逃亡したことで、幽州の西側は完全に曹操の版図となった。
これにより、曹操が長年胸の奥に燻らせていた河北統一という悲願は、ほぼ達成されたと言ってよかった。
しかし、その肥大化した版図の内情は、目を覆いたくなるほど悲惨そのものであった。
戦火に徹底的に焼き払われた田畑からは、植物の焦げた饐えた匂いと、行き場を失った遺骸の腐臭が混じり合って立ち上っていた。
各地に燻り続ける不満と反乱の種に怯え、飢えと苛烈な弾圧を恐れる住民や名士、知識人たちは、真の安定と温かい粥を求めて、劉憲の治める洛陽や廬江へと夜陰に紛れて逃げ去り、その人々の流出は今なお後を絶たない。
曹操がどれほど厳格な法を木簡に刻んで末端を締め付けようとも、それを実際に運用する官吏の絶対数は足りず、さらに官吏の不正を監視する目も、中原には決定的に不足していた。
人という名の熱い血液を失った巨大な抜け殻は、内側から確実に壊死し始めていた。
その重圧の最中、曹操は鄴の仮住まいの奥、酷く冷え切った暗い夢の中にいた。
「孟徳様、またこめかみのあたりを抑えていますね。昨夜もまた、あの妙な頭痛が酷かったのですか?炭の質が悪いのか、この部屋は妙に煙たい」
「……気にするな、文若。古い宿痾のようなものだ。それより、あの頃の洛陽の春は、もう少し毛足の長い絨毯が敷かれて暖かかったように思うのだが、余の記憶違いか?」
「さあ、どうでしたか。私はただ、以前のあなたが、今よりもよく笑う人だったことだけを覚えていますよ」
そんな幻影のような会話の後に、風景は歪み、濁った光の中に男が立っていた。
「おお、孟徳殿ではないか。だいぶ顔色が悪いようだが?」
「劉玄徳……。貴様、益州で死んだはずであろう」
目の前に立つ、衣服の繊維が擦り切れて薄汚れた、耳の長い男。梟雄と称された劉備が、かつて許郡の庭園で共に酒を酌み交わした時のように、曹操を小馬鹿にしたような薄い笑みを浮かべて立っていた。
その体からは、生々しい血の匂いと、湿った草の匂いが漂ってくる。
「だいぶ焦っておいでだ、孟徳。貴殿は亡き献帝を冷たい黄河の藻屑と消えさせ、名士たちの支持を完全に失った。
誇り高い彼らが、貴殿のような男に頭を下げるはずもない。だからこそ、家柄を問わぬ極端な能力主義である唯才令を敷いて、無理に闇の中から人を集めるしか、もう手がなかったのだろうになぁ」
「夢物語の大義しか語れぬ貴様に、余の何がわかる」
曹操の額に、どす黒い青筋が浮かび上がる。
「余は曹孟徳。この混迷を極めた乱世を、法と力で厳格に統べる、唯一無二の英傑ぞ!」
曹操は激しい怒りとともに、冷たく鈍い光を放つ腰の宝剣を引き抜き、目の前の劉備へと叩きつける。しかし、鍛え上げられた鋼の刃は、何の手応えもなく霧のように劉備の体をすり抜けた。
すると、劉備の皮肉げだった顔が、陽光の屈折のようにわずかに歪み、悲しげな影を落とした。
「...…孟徳よ。我らが本当に、命を賭してまで得たかった物は何であったろうな。
かつて若き頃、宦官の専横に苦しみ、明日の命にすら怯え、ただ、陛下の名のもとにこの乱れた世を正せば、そんな胸を締め付ける苦痛も消え去るのだと信じていた。
今より良い暮らしができる、誰もが飢えぬ世が来ると。そう思い込んで多くの血を流し、軍を率いて時にはお前を裏切り、同族の劉璋すら手にかけたというのに、この結末だ」
「黙れ!」
曹操は眼前の陽炎に向かって、喉をかきむしるように叫んだ。
「中原すら完全に手中に収めれば、その圧倒的な田畑の豊かさと、そこから生み出される無数の兵を以て、新たなる秩序の世が作れるのだ。
帝など、都合よく利用価値のある飾りに過ぎん。あの小童をこの手の中に留めて利用してさえいれば、このような、国中が干からびて血の気が失せるような事態にはならなかったのだ!」
劉備の姿が、揺らめく冬の陽炎のように次第に薄れてゆく。
「……それが、お前の語る大義か。寂しいものだな、孟徳。
例え天子を手に入れようと、それでは……」
息を呑んで勢いよく目が覚めると、視界に入ってきたのは、荒い漆喰で塗られた冷え切った自室の天井だった。
寝台から跳ね起きると、背中の裏に張り付いた衣服は、じっとりと滴るほどの不快な脂汗に濡れており、外からは夜明け前の不気味な地鳴りのような風の音が響いていた。
「……余は中原の覇者。新たなる時代をこの手でもたらす、絶対の英雄……曹孟徳なるぞ……」
誰に言い聞かせるでもない、曹操の呪詛のような、そして懇願するような苦しげな呟きだけが、誰一人いない暗い部屋の奥へと虚しく漏れて消えた。
天下という名の底知れぬ重みは、勝者の肩にこそ、最も残酷にのしかかっていた。
夏。
じりじりと肌を焼く強い陽射しの中、曹操は、鄴の周辺から強引にかき集めた膨大な銅や、各地の市場で磨耗しながらも辛うじて使われていた古い銅貨を根こそぎ回収して鋳潰し、一丈五尺あまりもの巨大な銅の雀が屋根に鎮座する、壮麗極まる宮殿である銅雀台の建造を大々的に開始した。
建築現場には、熱せられた金属の焦げ付く匂いと、数千人の役夫たちが踏み荒らす乾いた砂埃が立ち込めていた。
曹操は、鄴を落城させた際に地中から見事な銅雀を掘り出したという吉兆を天下に激しく喧伝し、この未曾有の巨大人造物を建てることで、流出して失われた己の権威と統治の正当性を強引に確立しようとしたのだ。
しかし、その莫大な建造費と銅の確保のために出された布告は、ただでさえ疲弊しきっていた中原の経済にとどめを刺すものとなった。
「――これより、領内の税はすべて現物の絹と麦にて支払うものとする。銅貨を税に充てることは一律でこれを禁ずる」
この苛烈な命令は中原の商民を根底から震撼させた。財貨としてわずかな銅貨を木箱に蓄えていた商人たちは、一夜にして手元の貨幣をただの金属屑同然にされ、日々の生活が完全に立ち行かなくなり、全財産を荷車にまとめて次々と南の荊州や西の司隷へと逃げ去っていった。
この狂気とも言える銅雀台の建設、そして長年細々とでも機能していた通貨制度の破壊に対して、真っ向から反対の声を上げたのは、長年曹操の片腕を務めていた荀彧であった。
しかし、漢室への忠義をどうしても捨てきれぬ彼は、反乱討伐の監軍という名目で徐州の前線へと事実上追いやられ、その地で自ら冷たい毒をあおいで自害。
さらに、曹操の姿勢を痛烈に批判したとされる崔琰や毛玠といった硬骨の臣たちも、次々と冷たい鎖で縛られて投獄され、湿った牢獄の床の上で非業の死を遂げた。
翌年、血と怨嗟の声が響く中で銅雀台が完成すると、曹操は自ら魏王の座に即位し、元号を勝手に黄初と改めた。もはや漢の朝廷など眼中にないという、覇王の宣言であった。
当然、中原の各地では統治への怒りから反乱の火種が爆発的に燻り、張遼や夏侯淵といった魏の高名な将たちが、その鎮圧のために泥と汗に塗れ、休む間もなく各地を馬で走り回る羽目になっていた。
一方、その頃の襄陽。
中原の血生臭い激動や金属の焦げる匂いなどどこ吹く風と、劉憲は穏やかな陽光が差し込む執務室の片隅で、子供に与えるためのおもちゃを熱心にいじり回していた。
「正方、お前のところの子供は、最近どんな遊びをしている?
我が家のは、どうにもこの手のからくりに目がなくてな。ほら、この中に仕込む銅の小さな球だが、もう少し削って小さくした方が、澄んだ良い音が鳴るかもしれんと思わないか?」
「……孝子、私は今、江夏からの租税の木簡を精査しているのです。そんな私の耳元で、さっきからその妙な音を鳴らされるのは少々困ります。
それに、うちのせがれは近頃、私の古い愛刀の鞘を磨くことばかりに熱中しておりましてね。おもちゃなどには見向きもしませんよ。
……ああ、この木簡、また少し湿気を含んで文字が滲んでいる」
「それはお前の育て方が硬すぎるのだ。たまには一緒に川へ行って魚でも捕ればよかろうに」
劉憲が手にして愛おしそうに指の腹でなぞっているのは、江夏の純度の高い良質な銅を贅沢に使い、職人が手作業で精巧に作った雀を模した小さな水笛であった。
尾羽の部分に作られた滑らかな吹き口から優しく息を吹き込むと、中の水がかすかに爆ぜ、小さな銅球と共鳴して、ピヨピヨ、チチチ……と、実にかわいらしい鳥の鳴き声が室内に響き渡る。
「……また孝子は、そうやって曹操殿の感情をこれ以上ないほど逆撫でするような悪趣味な物を進んで作って。
これが商人の手を通じてあちらに流れたら、魏王殿は今度こそ激怒して本当に倒れられますよ。ただでさえあちらの通貨は滅茶苦茶なのですから」
あきれ果てた様子で、少しカビ臭い木簡を棚へと片付ける李厳の苦言に対し、劉憲は悪戯がばれた子供のように、実におかしそうに声を立てて笑った。
「人聞きが悪いな、正方。あちらの雀は一丈五尺もある大層立派なものだが、食べられもしなければ音も鳴らない、ただの領民を圧迫して作った重苦しい金属の塊だ。
それに比べて我が襄陽の雀は、手のひら大でこんなに涼やかでかわいらしい音が鳴る。……あちらの苛烈な法に怯えやって来た民や、学舎で学び疲れた襄陽の子供たちに、せめてもの心の慰みとして、届けて差し上げようじゃないか」
「……相変わらず、底意地の悪い慈悲深さだ」
李厳がため息混じりに、使い古された筆を硯に置きながら呟く中、劉憲の吹く小さな銅の雀は、中原の覇王への手痛い皮肉をその身に込めて、今日も襄陽の、どこまでも青く澄んだ空へとのどかな鳴き声を響かせるのであった。
史実メモ:210年、曹操は冀州の支配を確たるものとするため、鄴に銅雀台(宮殿)を建造。
史実メモ:213年、曹操は魏公に封じられ、216年には魏王となる。




