204年 虎豹騎
興平十一年、秋。窓枠の隙間から滑り込む冷たい秋風が、微かに乾いた落ち葉の匂いと、長江の重い水気を孕んで、襄陽の執務室の空気を静かにかき混ぜていた。
北方では、秋の底冷えする空気の中で、袁紹の遺児である袁尚と、その綻びを執拗に追い詰める曹操による、血みどろで泥沼の攻防が延々と続いていた。
劉憲の手元には、真新しい竹簡の束が置かれていた。それらは、その熾烈な戦場へと新たに投入された、曹操軍の「最精鋭部隊」に関する、密偵からの詳細な報告書であった。
「州牧、その筆、そろそろ毛先が割れてきていませんか?文字の跳ねがどうにもだらしなく見えますが」
「……そうか? 私はこの、少し使い込んで穂先が柔らかくなった馬の毛の筆が一番手に馴染むのだがな。それにしても、今日の墨はいつもより膠の焦げたような匂いが強いな」
「江夏の工房が、糊の製法を少し変えたと報告がありました。乾きは早いようですが、匂いはご愛嬌といったところでしょう。
それより仲達、さっきからしきりに瞬きをしていますが、また寝不足ですか?」
「……お構いなく。昨夜、妻が新しく仕立てた衣の裾が長いだの短いだのと夜更けまで騒ぎ立てて、ろくに眠れなかっただけです。
それより州牧、よそ見をしていないで、その厄介な報告書を真面目に読んでください」
司馬懿の苛立った声に促され、劉憲は視線を落とした。
その部隊の名は、虎豹騎。
竹簡の記述によれば、兵の誰もが全身を分厚く打ち延ばされた頑強な鉄の鎧で隙間なく固めた重装騎兵であり、一兵卒に至るまでが通常の軍であれば百人を率いる「百人長」の資格を持つ、選りすぐりの歴戦の猛者たちで構成されているという。
鎧の隙間からは獣の脂と鍛えられた鉄の匂いを漂わせ、総数は千余り。これを率いるのは、曹操の最も信頼厚い親族の一人、曹純であった。
「なるほど。極めて硬く、それでいて馬の圧倒的な機動力を持つ兵をもって、一気に敵の中枢へと強襲をかけ、陣形ごと物理的に粉砕する戦術か。
……まあ、文字通り最強の矛だ。無数の蹄が地面を叩き、鉄札の擦れ合う音が地鳴りのように響くのだろうな。実際に平原でぶつかれば、恐ろしく強いのだろうなあ」
劉憲は、竹簡の冷たく滑らかな感触を指の腹でなぞりながら、どこか遠い国の祭りを眺めるかのように、他人事めいた感心した声を漏らした。
「そうですねえ。中原の乾いた平原で、土煙を上げて迫る鉄の塊にまともに突撃を食らえば、ろくな装備のない並の軍勢なら、恐怖で足が竦み、一瞬で霧散するでしょうね。
……ふむ、今日のこの香草茶、少し湯が熱すぎましたかね。舌の先が痺れます」
諸葛亮もまた、手にした白羽の扇をのんびりと動かし、香炉から立ち昇る沈香の紫煙を緩やかに散らしながら、穏やかに相槌を打った。
その、天下の危機を前にした緊張感の欠片もない二人の態度に、ついに堪気を切らした司馬懿が、重厚な紫檀の机を平手で激しく叩き、怒鳴り声を上げた。
「おい、お前たちは何を悠長に構えているのだ!」
叩いた手のひらに走る鋭い痺れと、机から舞い上がった微細な埃の匂いを感じながら、司馬懿は血走った目で二人を睨みつけた。
「何か実効性のある手を打たねば、万の軍勢を率いる主将すら一瞬で討ち取られ、戦線が根底から瓦解するのだぞ!」
焦燥をありありと露わにする司馬懿に対し、劉憲は少しも慌てず、むしろ楽しげに目を細めて問いかけた。
「落ち着け、仲達。大声を出せば喉が渇くだろう。では聞くが、今、我が荊州や司隷の標準的な歩兵たちが装備しているものは何だ?」
「何を今更! 文聘らの練り上げた歩兵が持っているのは、周囲を分厚い鉄枠で厳重に補強し、地面に深く突き立てて固定できる重い大盾。
そして鋭利な鉄鏃を番えた弩、あとは接近戦用の、油を塗り込んだ長い白樫の長槍だ!」
「確かにその通りです。ただ、弩という兵器は、その機械的な構造ゆえに強力ですが、一度太い弦を引き絞って放った後に、次の矢を装填するまでの間隔が長く空いてしまうのが、集団戦においては最大の欠点ですね」
諸葛亮の声は、どこまでも秋の水面のように落ち着いている。
「ならば、それは練兵の工夫次第で解決できるだろう。いっそ、最前列を鉄盾と長槍で固定する『防壁隊』とし、その後ろを『弩射隊』と『弩装填隊』の二隊に分ける。
後ろの二隊を交互に絶え間なく入れ替えながら撃たせれば、敵にとっては息つく暇もない、絶え間ない鉄の矢の雨となるな」
「それは素晴らしい。さらに、以前私が試作した連弩の梃子を使った引き手の仕組みですが……。
あれを大型の強力な弩用に改良し、青銅の滑車を噛ませてやれば、虎豹騎の分厚い鉄鎧をも容易に貫く大威力の弩を、兵たちが腕の筋力に頼らず、てこの力で大した力を入れず、楽に引けるようになりますが、試してみますか。
金属の部品が増える分、獣脂をこまめに差す必要はありますが」
「おお、それは良い案だ、孔明。既存の弩の仕組みを少しいじるだけで済むなら、兵工廠の職人たちの負担も少なくて済むな。
明日さっそく、図面を引いてくれ」
二人の間で、新兵器の物理的な運用方法が小気味よく決まっていく。しかし、司馬懿の苛立ちは募る一方だった。
「そのような机上の空論をこねくり回している場合か。
兵器の改良が必須なのは認めるが、虎豹騎の突撃力そのものを何とかせねば、一度の戦場ですべてがひっくり返るのだぞ!」
「仲達。我が軍のいくさは、そもそも攻めではなく『守り』が主体だ」
劉憲は静かに微笑み、司馬懿の目を真っ向から見据えた。彼の細い指先が、卓上の水滴をゆっくりとなぞる。
「それに、仲達は先ほど、自分で我が兵の標準装備を挙げたではないか」
「……あ」
劉憲に促され、司馬懿は自らが口に血を滲ませる勢いで吐き出した言葉を、脳裏で反芻し、わずかに逡巡した。
全身を鍛造の鉄で固めた千の精鋭騎兵。それは確かに恐ろしい。しかし、それを迎え撃つ我が方の陣形を想像してみる。
「……なるほど。見通しの良い平原で、千の馬に跨り槍を振るう華やかな精鋭よりも……。
あらかじめ強固に築かれた鹿砦の背後に整然と待ち受ける、万を超える『硬い鉄盾』に身を隠し、弩という名の、肉体の限界を超えて伸びる長い手を持った、一糸乱れぬ統制の取れた兵の壁の方が……遥かに恐ろしいな。
どうやら私は、敵の華々しい勇名に少し踊らされていたようだ」
「そういうことです。それに曹操は、あの重い鉄の塊である虎豹騎を維持するために、どれほどの無理をしているでしょうね」
諸葛亮が満足そうに、白羽の扇を胸元でパタパタと振るった。微かに白檀の香りが鼻をくすぐる。
「確かに、ろくな鉄の装備も持たない匈奴や鮮卑のような北方の騎馬民や、薄い革鎧しか支給されていない河北の袁家の残党にとっては、あの虎豹騎は一瞬で自軍を蹂躙する天災のような脅威でしょう。
しかし、豊かな鉄山を完全に抑え、ほぼ全ての正規軍兵士に良質な鉄の装備と大盾、そしてそれを容易に貫く張力の強い弩が末端まで行き渡っている我らにとっては……」
大した脅威たり得ない。
そこまで頭の中で論理的な結論を導き出した司馬懿は、ふと湯の表面に映る自分の顔に、劉憲たちとそっくりな、底意地の悪い薄い微笑が浮かんでいることに気がついた。
「……いかん。いよいよ、この二人の得体の知れない『邪智』が、私にまで感染してきたような気がするぞ」
誰に聞こえるともなくそう細い声で呟いた若き飛鸞は、冷徹な計算によって導き出された己の成長に満足しつつも、どこか複雑で、わずかに嫌そうな顔をしてそっぽを向くのだった。
執務室には、再び静かな、しかし確かな熱を帯びた秋の風が吹き込んでいた。




