203年 五銖銭02
劉憲は相変わらず口を尖らせて悪態をつく司馬懿の眉間の皺を微笑ましく見つめると、手元にあった温るい白湯を一口すすり、再び卓上の大きな地図へと視線を落とした。
年代物の古布に描かれたその地図からは、長年の使用によって染み付いた墨の匂いと、微かに人脂の匂いが立ち昇っている。
「ところで仲達、お前、さっきから袖口を気にしているが、ほつれでもしたか?」
「……お気になさらず。昨夜、うっかり燭台の火に袖を近づけすぎて少し焦がしてしまいましてね。
妻に知られればまた小言を言われるかと思うと、つい隠したくなるのです。それより州牧、よそ見をしていないで地図を見てください」
「ふふ、恐妻家は長生きするというからな」
劉憲は軽口を叩きながら、染み付いた泥が爪の隙間にいまだ黒く残る細い指先を地図に這わせた。その指は、いま激しい主戦場となっている中原の鄴県から、絹の細かな織り目を感じながら、ゆっくりと南へ向かって滑り落ちてゆく。
ひとたび北方の巨大な支配者が血みどろの決着によって定まれば、次に向かう矛先は自ずと決まっていた。幾度も曹操に背いて煮え湯を飲ませ、焦土と化してもなお怨嗟の煙が燻る徐州、袁家の本貫であり未だ重苦しく不穏な空気を残す汝南。
……そして、そのさらに南、未だ小勢力ながらも長江の深い水という天険に拠る孫権へと、必ず飢えた獣の目が向く。
劉憲の指先は、布の表面を滑る微かな摩擦音を立て、長江の手前でぴたりと止まった。
「九江を越え、真っ直ぐ丹陽を狙うだろうな……」
「……なるほど、丹陽ですか。あそこはまだ昼間でも鬱蒼と木々が茂り、土が湿り気を帯びているような土地ですが」
諸葛亮が劉憲の意図を正確に察し、手にした白羽の扇をゆっくりと揺らしながら小さく頷いた。扇が空気を切るたび、洛陽の乾燥した微細な埃が光の帯の中で踊る。
丹陽の深く暗い地中には、良質な赤銅の鉱脈が眠っている。もし曹操が力ずくでそこを手に入れれば、あとはどこかから錫や鉛をかき集めて溶鉱炉に放り込むだけで、独自の五銖銭、あるいはそれに類する強力な独自貨幣を、むせ返るような熱気の中でいくらでも鋳造できるようになる。
これから曹操が膨大な血を流して構築しようとする「中原の巨体」を維持するためには、どうしても銭という名の強靭な骨組み、あるいは脈打つ血液が欠かせないのだ。
「銭が市場を巡らなくては、巨大な身体の末端に血が巡っていないのと同じことだ。手足から徐々に冷たくなっていく。
国家が巨大になればなるほど、麦や絹といったかさばる現物支給だけでは、税は重い車輪や物資の流通が泥濘にはまったようにたちまち滞り、やがて内側から腐臭を放って壊死していく」
劉憲は地図の上の「許県」や「鄴」の文字を、その土地に染み込んだ血の量を図るようにそっとなぞり、声音を一段と低く、冷たくした。
「本当によいのかね、曹操殿。そのような広大な中原など、無理に己の胃袋に収めようとしてしまって。
戦火に激しく焼かれたその痩せた土地に残るのは、焦げ臭い風が吹き抜ける荒れ果てた田畑と、それを耕す鍬を持つ者すら消え失せた寂しい村々。
……そして、圧倒的な武力による急進的な統一のせいで、心の奥底にどす黒い不満の泥を抱えたままの降将や名士たちだ。
その上、彼らの広大な領内には、天下の血の巡り、すなわち、市場の欲望を統制するための鈍く光る銭すら、強くは行き渡らないというのに」
劉憲の静かな言葉に漂う、底知れない計算と、人間の業を俯瞰するような酷薄さ。
傍らで黙って聞いていた司馬懿は、不意に背筋に冷たい水滴が垂れたような錯覚を覚え、自身の腕の産毛が粟立つのを感じて、思わず一歩身を引いた。敷かれた敷物が、かすかに擦れる音を立てた。
「くっ……。またこの男は、その線の細い凡夫のような顔に似合わぬ、ぞっとするほど邪悪なことを平然と企んでいる気がするぞ。
……おい孔明、少し窓を開けろ。この部屋は息が詰まる!」
「風邪でも引いたのですか、仲達。あなたの顔色の方がよほど邪悪に見えますが?」
「黙れ。私はただ、この部屋に充満する腹黒い瘴気にあてられただけだ!」
「人聞きが悪いな、二人とも。私はただ、天下の安寧と平和を心から望んでいるだけだよ」
劉憲は悪戯っぽく、しかし目の奥に鋭い光を宿して微笑むと、今度は長江の北岸、荊州と揚州の境に位置する要衝へと指を置いた。
「我らが大切な『友好勢力』である孫権殿には、あの風光明媚な江東の地で、美味しい魚でも食べながら末永く安定してもらわねば困るからね。
揚州地域の治安を確固たるものとし、鬱蒼とした山々に出没する山越の賊や突発的な反乱にいち早く警戒するためにも……。
我が領内の廬江をさらなる強固な石垣で囲んだ要害とし、そこに配置する守備兵も、兵糧を惜しまず大幅に増やさねばなあ。いやはや、出費がかさんで困る」
その言葉の裏にある、鋭く研ぎ澄まされた「牙」の存在を、諸葛亮は瞬時に読み解き、涼やかな目元を細めてふわりと和ませた。
「実に見事な布石です。廬江の兵力を目に見えて増強すれば、曹操も背後が気になって、簡単には揚州の孫権殿に手を出せなくなりますね。
もし曹操軍が焦りに駆られて強引に長江の濁流を渡り、丹陽の銅を狙おうとすれば、我が方の手ぐすね引いた廬江勢が、彼らの細く伸びきった補給路と無防備な脇腹へと、躊躇いなく深く噛み付くことになる」
「そういうことだ。孫権殿を悪逆なる曹操から守るため、という美しい大義名分も立つし、一石二鳥だろう?
……ああ、冷めた白湯はどうにも不味いな。孔明、悪いが後で温かい香草茶を淹れ直してくれないか」
「承知いたしました。とびきり苦い薬草を混ぜておきましょう」
劉憲と諸葛亮の、どこか楽しげで、それでいて骨の髄まで凍りつくような含み笑いが、静かな執務室の壁に反響する。
先ほどまで悪態をついていた司馬懿は、焦がした袖口を握りしめながら、目の前の底知れぬ主君から臥龍と称されるこの若き軍師へと、同じような恐るべき邪智が確実に継承されつつあるような気がしてならず、ただただ内実、背筋を這うような戦慄を覚えるしかなかった。
しばらくのち。
空を覆う灰色の雲から冷たい雨がそぼ降る、過酷な徴税と絶え間ない戦火に喘ぐ徐州の各地で、ささやくような噂が、湿った枯れ草の下を這う虫のように密やかに流れ始めた。
「なあ、聞いたか……。南の廬江へ逃れれば、血の匂いのしない新しく耕すためのふかふかの田畑と、雨風をしのげる頑丈な家が与えられるらしいぞ。
そればかりか、最初の税は一年間も免除されるのだとか。俺の手はもう、ひび割れて血が滲んで鍬も握れねえ」
「ああ、俺も聞いた。廬江には『学舎』なる巨大な学び舎が作られたそうだ。
そこには天下の賢者が集い、我らのような名家の子弟でなくとも、確かな才覚さえ示せば、食うや食わずの生活から抜け出し、官吏への道が等しく開けるというぞ。
俺の倅は少しばかり頭の回転が早いんだ。あいつだけでも……」
「ただし、逃げるときに大勢でまとまって動いてはならん。すぐに曹操の巡回兵に見つかり、馬で蹴り殺されるか、追撃を受けて首を刎ねられる。
かつて劉備は十万の民を連れて逃げたが、足手まといになって半数は捕まり、道の両脇に無惨な死体の山を築いたというではないか。
夜の闇に紛れ、数人ずつ、足音を殺して静かに動くのだ」
「身一つで夜逃げし、広い長江を渡る金も、寒さを凌ぐ着る物すらない者は、腰に小さな鈴をつけた河賊を頼るといいそうだ。
葦原に潜む、漁民に化けた奴らを探し出して合言葉を言えば、秘密の船で対岸へ逃がしてくれるらしいぞ。
鈴の音が、地獄からの迎えじゃなく、極楽への道標になるなんてな」
「ふははは、この『仮面の隠士』が、貴様ら絶望した哀れな迷い人を、輝かしき新天地へと導いてやろう。さあ、俺の背中を見失うなよ」
泥濘む裏路地や、崩れかけた土塀の陰で流布する噂は、真偽の定かでない玉石混交のものであった。
しかし、かつて曹操によって引き起こされた、川が血で赤く染まった凄惨な大虐殺の記憶がいまだ生々しい傷跡として残る徐州の民にとって、それは漆黒の闇夜に差し込む唯一の、そして抗いがたい温かな光であった。
明日の粥すらない怯える民は、家財道具を捨て、示し合わせたように次々と南の空を見つめ、ひび割れた裸足で歩き出す。
さらに、闇夜の逃避行に命を懸ける民を支えたのは、獣道の途中に点在する風変わりな救済であった。どこからともなく、香の独特な匂いを漂わせて現れた五斗米道の道士たちが、行き暮れて木の根を噛む流民たちへ「ほんの一日、命を食いつなげるだけ」の、わずかな粟粥や固い乾飯を無償で配っていたのだ。
これに気づいた曹操の地方兵たちが、革と鉄の匂いをさせて馬で乗り付け、激怒して槍の柄で道士を殴り倒し、民の口に入るはずだった泥だらけの食糧を力ずくで奪い取れば取るほど、民衆の腹の底で煮え滾る底知れぬ怒りと憎悪の矛先は、ますます強固に曹操陣営へと向かっていった。
酷い地域にいたっては、一夜にして村が丸ごと一つ、まるで最初から誰もいなかったかのように無人になり、煮炊きの灰だけが冷たく残され、打ち捨てられた古びた農具や欠けた茶碗だけが、主を失って冷たい夜風にカタカタと虚しく揺れていたという。
その頃、気候の穏やかな襄陽にある、陽の光がふんだんに差し込む暖かな執務室では、香炉から立ち昇る沈香のほのかに甘い香りが漂っていた。
卓の上に積み上げられた、真新しい竹簡の手触りも滑らかな「人口大流入」の報告書を前に、劉憲がひどく満足げな表情で筆を置き、凝り固まった肩をぐるぐると回していた。
「あー、肩が凝る。……しかし素晴らしい成果だ。わざわざこちらから、今いる重要な守備兵を減らしてまで、大量の兵糧を消費して危険な徐州へ送り込まずとも、向こうから勝手に、我々の懐へ歩いてやって来てくれるのだからな。
現地のしがらみのない民となった彼らから、改めて忠誠心の高い屯田兵を募る方が、よほど手間でなくて簡単だ。
おかげで、無理な軍を維持するために使うはずだった兵糧のすべてを、そのまま彼らの最初の食糧支援へと、無駄なく転用できる」
劉憲の言葉に、諸葛亮は手にした羽扇を静かに動かしながら、深く同意の笑みを浮かべた。窓辺に飾られた蘭の鉢植えから、微かに清涼な香りが漂ってくる。
「人は、自らがその手で守りたいと思うものが大きければ大きいほど、必死になるものです。
一度手に入れた、怯えることのない安定した暮らし、そして、これまでの泥水をすする人生では決して望めなかった、子や孫の豊かな未来。
……己の野心のために戦を繰り返し、民の腹を空かせ、ただただ無慈悲な掠奪を繰り返していく曹操殿には、彼らにそのような『命を懸けて守るべき価値』を与えることは、当分の間できないでしょうね。
この茶菓子、少し甘すぎますね。もう少し塩気が欲しいところです」
「文句を言うな、それは妻がわざわざ街で買ってきたものだ」
「全くだ。我々は彼らから、命も、財も、何も奪っていない。
ただ、曹操殿が己の冷酷さゆえにどうしても与えられなかったものを、代わりにほんの少しだけ、手を差し伸べて用意して差し上げているだけだよ」
司馬懿が眉間の皺を深める中、劉憲と諸葛亮の、どこまでも慈悲深く、そして背筋が凍るほどの緻密な策謀の響きを含んだ優しげな声音が、暖かく平和な室内に心地よく響き渡っていた。
一滴の血も流さずして、曹操の覇業を支える足元たる国力は、今この瞬間も音もなく、だが確実に削り取られ、揚州の黒々と肥沃な大地へと、乾いた砂が水を吸うように吸い込まれ続けているのだった。
史実メモ:208年、丞相であった曹操は五銖銭を以前の物に戻す政策を行い、後継者の曹丕も正式通貨とするが、質の悪い銅貨の回収と新鋳を行い切れず、穀帛による代用貨幣を行った。




