211年 英雄の終焉02
建安十八年、冬。中原の大地を、身を切るような凍てつく北風が容赦なく吹き荒れていた。枯れ木は寒々しい音を立てて身をよじり、鉛色の重い空からは今にも粉雪が舞い落ちてきそうな気配が漂っている。
吐く息は肺の奥まで凍りつくように白く、軍馬の嘶きさえも薄い氷に吸い込まれていくような静寂の中、全土を震撼させる衝撃の凶報が駆け巡った。
――魏王・曹操、崩御。
中原に君臨した絶対的な巨星が堕ちた瞬間、雪の下で黒々と淀んでいた魏の内部の歪みが、一気に破裂した。
銅の匂いと冬の乾燥した埃が舞う鄴の都では、宮廷の奥深くに陣取る鍾繇ら文官たちが、事態の迅速な収拾を図るべく動いた。
彼らは、庶子であり実質的には三男の立場ながらも、その氷のように冷徹で果断な才を高く評価されていた曹丕を新たな指導者に指名。
間髪入れずに彼を魏帝として即位させ、漢室の抜け殻を打ち捨てて、新たなる王朝の樹立を宣言したのである。
新しい絹の衣の擦れる音と、新帝を讃える空虚な声が、冷え切った宮殿の石畳に響き渡った。
しかし、この文官主導の急進的で冷ややかな動きに、北風の吹き荒れる最前線で泥と血にまみれてきた曹洪ら武官一派が猛反発した。
彼らは、使い込まれた鉄の鎧を鳴らし、ひび割れた手で剣の柄を握りしめながら、若き日の数々の死地を生き延び、前線で着実に軍功を重ねてきた正統なる嫡男・曹昂こそが真の後継者であると血を吐くように主張した。
そして曹昂を魏王に擁立し、かつての古都である許県にて、怒りの炎のごとく兵を挙げた。
天下を二分せんとした巨大な魏の国は、そのすべてを縛り付けていた絶対的な首領を失った途端、皮肉にもかつて自らが滅ぼした袁紹らと全く同じように、むき出しの欲望と骨肉の愛憎が入り交じる後継者争いによって、南北に真っ二つに引き裂かれたのである。
一方、その報せが届いた襄陽の楚公府。
分厚い土壁と上質な絨毯に守られた執務室の中は、大きな火鉢で焚かれたくぬぎの炭がパチパチと心地よい音を立て、穏やかな暖気に満ちていた。微かに焦げた餅の匂いと、甘い茶の香りが部屋の空気を柔らかくしている。
「ふうむ、なるほど。袁紹もそうだったが、あの隙のない曹操ですら、最期は後継者問題で国が真っ二つに割れてしまったか。
孔明、この茶は少し甘みが強すぎないか。喉の奥にへばりつくような気がするのだが」
劉憲は、まるで明日の天気が雨か晴れかを心配するかのような、至ってのんびりとした調子で、表面がすっかり手擦れた木簡を机の上に置いた。窓越しに差し込む冬の薄日が、彼の羽織る綿入れのふくらみをふんわりと照らし出している。
「申し訳ありません、孝子様。冷え込みが厳しいゆえ、少し干し柿の甘みを強く煮出してみました。お気に召しませんでしたか。
とはいえ、やはり個人の武勇や威勢に頼る政ではこうなりますね。誰が継いでも揺るがない法や確固たる仕組みを日頃から土台として築いておかないと、主柱が折れた途端に屋根が落ちてきて本当に怖いですからね」
傍らに座る諸葛亮も、手元に置いた温かい陶器の椀から立ち上る湯気を眺めつつ、劉憲の温度に合わせるように白羽の扇をパタパタと動かした。その涼やかな声には、困ったものだと言わんばかりの苦笑が混じっていた。
案の定、このぬるま湯のように気の抜けた二人のやり取りに、部屋の隅で膨大な竹簡の山と格闘していた司馬懿が、筆をへし折らんばかりの勢いで立ち上がった。
彼の目の下には、連日の執務による濃い隈がくっきりと刻まれ、墨で汚れた指先が微かに震えている。
「お前たち、そのような他人事のように茶をすすっている場合か。またあの白馬や官渡の時のように、洛陽の関門へ数万の飢えた流民が、凍りついた水を啜り、草を喰みながら蝗害のごとく押し寄せる悪夢が再来するのだぞ!
あの時、文官陣営がどれほど喉から血が出るような思いで夜を徹し、不眠不休で配給の算段をつけ、汗にまみれて政務をこなしたか、まさか忘れたとは言わせんぞ。
私はあの時胃の腑が痛みすぎて三日三晩、粥さえ喉を通らなかったのだ!」
「落ち着け、仲達。君はいつも眉間に皺を寄せているから、冬の乾燥でそこからひび割れそうではないか。大丈夫だ」
劉憲は手をひらひらと振って、火鉢の熱気以上に激昂する司馬懿を宥めた。
「あの混迷を極めていた昔と違い、今の我が楚国には、学舎で十数年かけてじっくりと知識の堆肥を与え、育て上げてきた優秀な若き官吏たちが大勢いる。
それに、ここ何年もの間、徐州や河北からの流民を小規模に、かつ計画的に受け入れ続けてきた、血の通った受け皿の制度がすでにしっかりと稼働している。
何より、かつて劉備殿が江夏に引き連れてやって来た、あの無計画極まりない五万の流民を、大きな混乱一つ起こさずに完璧に捌き切った生き証人のような、叩き上げの文官たちもいるんだ。
来るのがあらかじめ分かっている災いなら、いくらでも備えの杭は打てるさ」
「その通りですよ、仲達。あなたの胃の強さも、あの頃よりはるかに鍛えられているはずです」
諸葛亮がさらに涼やかな笑みを深めて補足した。
「それに、一番決定的な違いは、もはや現在の中原には、これまでの相次ぐ戦災や我らの地道な引き抜き工作によって、新たに焼け出される予定の流民の絶対数そのものが、以前ほど多くは残されていない、という点にあります。
絞りカスのような土地から、これ以上の血は流れませんよ」
「……」
理路整然とした二人の言い分に、司馬懿はぐうの音も出ず、苦々しげに顔を歪めた。だが、その瞳の奥には反論の余地がないことへの苛立ちが渦巻いており、彼は墨の匂いが染み付いた袖を振り払いながら、ボソリと毒づいた。
「フン、言うようになったな。これ以上、私に政務を押し付けて減らず口を叩くつもりなら、昭姫様と月英殿の元へ直ちに出向いて、お二人の旦那様が迫り来る戦火を前に、どれほど暢気に火鉢に当たって惚け倒しているかを克明にご報告して差し上げねばな。
特に月英殿は、新しい兵器の図面に口出しされるよりも、夫の怠慢を何より嫌うと聞いているが……」
「わっ、待て待て!孔明、これは未曾有の国難だぞ!」
妻たちの名が出た途端、劉憲の顔色が一変し、ガタッと重い樫の椅子を蹴立てて立ち上がった。手元の茶が揺れ、数滴が床に零れ落ちた。
「直ちに洛陽と江夏の兵力を倍増させよ。曹昂派閥の暴発や、中原の飢えた敗残兵の我が領内への侵入に備えるのだ!
ああ、昭姫には私が自ら前線で指揮を執る覚悟だと伝えてくれ」
「御意にございます、孝子様!」
諸葛亮もまた、顔を引きつらせつつも楽しげに目を輝かせながら、広げられたばかりの地図の巻物を勢いよく開いた。絹布の擦れる音が鋭く響く。
「同時に、流民受け入れを統括する文官の地方派遣部隊も急ぎ増員致しましょう。江東の孫権殿にも、この混乱に乗じて余計な火事場泥棒のような真似をして被害を出さぬよう、厳重に注意を促す親書を直ちにしたためねばなりませんね。
月英に新しい矢の生産を急がせる手紙も書きましょう」
つい数秒前までの干し柿の甘い匂いに満ちたのんびりとした空気を一瞬でかなぐり捨て、恐るべき迅速さできびきびと軍令を飛ばし始めた似た者同士の主従を前に、司馬懿は深くため息をついた。
自らの言葉が一番の劇薬であったことを思い知りながら、冷めた茶をひとくち煽る。
「仲達兄上」
そこへ、部屋の重い扉が静かな摩擦音とともに開き、衣服を端正に整えた一人の少年が姿を現した。劉憲の愛息であり、次代を担う楚公の後継者、劉承文伯であった。
少年はまだあどけなさの残る白い頬に、年齢に似合わぬ真剣な光を宿して、真っ直ぐに司馬懿の元へと歩み寄ってきた。廊下の冷たい空気を微かに纏い、絹の衣からはほのかに清らかな香草の匂いが漂ってくる。
「曹孟徳の国が真っ二つに割れたというのなら、これから徐州や幽州の取り残された勢力や民たちが、次々と魏の荒れ野を見限って、父上の治めるこの温かい楚国を頼って、雪の中を逃げて来るのではありませんか?」
「……左様でございますよ、文伯様」
つい先ほどまで猛獣のように怒り狂い、主君を恫喝していた司馬懿だったが、未来の主君となる少年の汚れなき瞳を間近で見つめるうちに、その険しい眉間の皺が、春の雪解けのようにみるみると和らいでいった。
司馬懿は墨で汚れた手を慌てて背中に隠し、衣服の皺を正すと、少年の目線に合わせてわずかに膝を折り、腰を落とした。
「そのように、魏の分裂によって行き場をなくし、凍える手でこちらを頼ってきた弱き勢力や民たちを、我が楚の圧倒的な力と豊かな蓄えで確実に包み込み、守り抜けるように、我らは今、こうして血を吐く思いで必死に軍備と内政を調えているのです。
文伯様。貴方は未来の楚公として、決してあのような、身内で醜く血を流し合い、自らの手で国を滅ぼす愚か者たちのようになってはいけませんよ」
少しだけ厳しい棘を含みつつも、それは未来を案じる忠臣としての、あまりにも温かな教えであった。
その司馬懿の言葉に、劉承少年は嬉しそうに口元を綻ばせ、何度も元気に深く頷いた。
「はい! 大丈夫です、仲達兄上。だって僕の父上も、それに孔明兄上も、いつも怖い顔をしてる仲達兄上も、みんな、民のために泥だらけの盾を構えて一緒に戦える、世界で一番立派な方々だって、僕はよく知っていますから!」
「……っ」
あまりにも純粋で、一片の疑いもない信頼の言葉を正面から浴びせられ、司馬懿は一瞬だけ言葉を詰まらせた。乾燥した喉の奥が微かに熱くなり、彼はどこか照れくさそうにふっと口元を緩めた。
そして、目の前の愛おしい楚国の未来――その少年の、柔らかな絹糸のような髪の頭を、大きな手で、壊れ物を扱うように優しく、優しく撫でるのだった。
少年の体温が、冷え切っていた司馬懿の指先から、ゆっくりと胸の奥へと染み渡っていくようであった。
史実メモ:宛城の戦い。197年、荊州南陽郡宛県に侵攻した曹操に対し、張繍は一時降伏をしたものの、その後隙をつき奇襲。典韋、曹昂、曹安民らが戦死した。
史実メモ:220年、曹操は享年66で死亡し、武帝の諡号を贈られた。




