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203年 乱世の梟雄05

興平十年晩春。肌を刺すような冷たい霧が、益州北部の険しい山肌を這うように滑り落ち、谷間を白く淀ませていた。治安維持という名目で出兵した魏延ら荊州の勢力は、成都の北に位置する天然の要衝、綿竹関に強固な木柵と土塁の陣を敷き、そこから先へはただの一歩も南下しようとはしなかった。


「おい、この芋はまだ芯が固いぞ。かまどの火が弱すぎるんじゃないのか?」


「仕方ありませんよ将軍。この辺りの薪は湿気を吸って、いくら吹いても煙ばかりでちっとも燃えやしないんです。火をつけても目に染みてかなわんのです」


「まったく、洛陽の乾いた風が恋しくなるな。少し前まではよく、街角の屋台で熱い羊肉の串焼きを食ったものだが……」


魏延が濡れた丸太に腰掛け、生煮えの芋をかじりながらぼやく声が、灰色の空に吸い込まれていく。彼らの足元には、踏み固められた泥と、濡れた草の青臭い匂いが重く立ち込めていた。


これ以上、成都の底知れぬ深奥へ進軍すれば、すでに泥沼化している南蛮の動乱や、利権と欲望に狂った地方豪族たちの血みどろの私闘に、自ら首まで身を投じることになる。

かつて前漢の文帝に深く寵愛された鄧通の広大な銅山や、朱提から産出される豊かな銀や銅山は、為政者にとって確かに喉から手が出るほど魅力的ではあった。だが、現在の劉憲陣営には江夏の銅をはじめとする十分すぎるほどの備蓄があり、わざわざ兵たちの命を過酷な環境の危険に晒してまで、無数の恨みを買う無理な平定を行う意味は限りなく薄かったのである。


そして、重く冷たい雲が過ぎ去り、季節は巡って更に翌春。

柔らかな陽光が降り注ぐ、襄陽にある劉憲の執務室の窓辺からは、ほのかに甘い桃の花の香りと、春の土が呼吸するような温かい匂いが風に乗って運ばれてきていた。細かな塵が、すだれの隙間から差し込む光の帯の中で黄金色に乱舞している。その穏やかな空間に、遥か成都からやってきた、旅塵と泥にまみれた一人の客人の姿があった。


「楚公……本当にお久しぶりでございます。不忠の身でありながら、恥を忍んで参りました。某はかつて劉備の配下でありました、趙雲、字は子龍と申します」


床に膝をついた趙雲の衣服は、幾度も藪を漕ぎ、泥水を渡ってきたことを物語るように擦り切れ、こびりついた古い血の錆びた匂いと、獣の脂のすえた匂いを微かに放っていた。

しかし、その力強い腕の中には、まだ上手く言葉を話すこともままならぬ、清潔な布に包まれた、生まれて乳離れしてからさほど経たないような赤子がしっかりと抱えられていた。赤子は不安そうに、黒曜石のような大きな瞳を瞬かせ、キョロキョロと見慣れぬ執務室の周囲の景色を見回している。


劉憲は、立ち上る白檀の香炉の煙の向こう側に、ただごとではない死地の気配を察し、手にしていた竹簡を静かに卓に置くと、極力声音を和らげて問いかけた。


「子龍殿、よくぞご無事でここまで……。その頬の傷、まだ塞がりきっていないのではないですか。すぐに医者を呼びましょうか?」


「お気遣い痛み入ります。……ですが、これはただの木の枝で引っ掻いた浅手。心の傷に比べれば、痛みすら感じませぬ」


「そうですか……。昔、并州に赴くあなたと別れ際に酒を酌み交わした夜を思い出します。あの時もあなたは、自身の傷より主の行く末ばかりを気にかけていた。……一体、あの益州で何があったというのですか?」


「はっ……。楚公に一度は受けた海よりも深い大恩に報いることもできず、ただ実態のない大義という言葉に引かれて出奔し、挙げ句の果てに、このような無様な結末を迎えようとは……!」


趙雲は、荒れた両手で床を強く握りしめ、悔恨の熱い涙を滲ませながら、ぽつり、ぽつりと、益州で起きた信じがたい、しかし今思えば必然とも言える破滅の顛末を語り出した。


劉玄徳は、例の不気味な「仮面の軍師」の授けた悪辣な知恵を得て成都へとたどり着き、漢室復興という美しく響き渡る大義の御旗のために、暗愚と断じた同族の劉璋を容赦なく斬り捨て、ついに益州の主となった。

しかし、劉璋に反旗を翻して城門を開け、内応してくれた地元豪族たちに対し、事前に約束していたはずの莫大な領地や財貨の報酬を満足に支払うことができず、彼らは手のひらを返すように一斉に離反した。さらに、約束すら守れぬ主に愛想を尽かしたのか、あの奇妙な獣の仮面を被った軍師たちも、朝靄が晴れるようにいつの間にか煙のように姿を消してしまったという。


わずかに残った豪族との重い約束を果たすため、劉備は成都近辺の農民から臨時の苛烈な徴税を強行したが、皮肉にもこれが決定打となった。今度は彼が最も重んじ、守るべきはずであった「無辜の民衆」が完全に牙を向き、離反したのである。

孤立無援の泥沼に陥った劉備一党は、怒り狂って鍬や鎌を振り上げる民と豪族の軍勢に幾重にも包囲され、食糧の底を突いた成都の城内に力なく籠城せざるを得ない状況に追い込まれた。


冬の足音が聞こえ始める前、この完全に破綻した絶望的な状況を乾坤一擲の策で打開しようと、関羽がわずかな兵を率いて未開の南蛮の地へと向かった。その地に眠る豊かな産物と、獰猛な部族の兵を従えての逆転を狙ったのだ。

しかし、生い茂る巨大なシダや絡みつく蔓草の奥には、孟獲という南蛮の恐るべき将が待ち受けていた。関羽の軍勢は、肌にまとわりつくような不快な熱気と、肺を焼くような濃密な瘴気が立ち込める密林の奥深くへと巧みに誘導され、木々の頭上から容赦なく降り注ぐ毒矢の雨を全身に浴びた。青龍偃月刀の冷たい輝きも毒と血にまみれ、当代随一の義将と謳われた関羽は、名もなき異境の土となり、二度と帰らぬ客となったのである。


さらに本格的な冬が訪れ、成都の空が重い鉛色に閉ざされると、相次ぐ敗戦と敬愛する義兄弟の無惨な死に心を乱し荒れ狂った張飛が、残された兵たちに苛烈な統制と血のにじむような罰を課すようになった。

ある凍てつくような夜、張飛が浴びるように強い酒を飲み、泥酔して饐えた匂いの漂う寝所に入ったところ、日頃からその無軌道な虐待に怯え、深い怨みを募らせていた部下たちの手によって、無惨にも暗殺されてしまった。寝台に広がった黒黒とした血の池が、無惨な最期を物語っていたという。


劉玄徳は、桃園で固い誓いを交わした義兄弟たちの相次ぐあまりにも悲惨な死に完全に心を病み、さらには慣れぬ益州の多湿な風土からくる重い肺の病を患った。毎夜のように咳き込み、血を吐く主の寝所には、カビと煎じ薬のひどく苦い匂いが充満していた。


そして、雪解けの泥水が街の路地を流れる季節を迎えるとともに、かつての英雄は失意と絶望のうちに静かに病没した。後を追うように、度重なる心労と過酷な環境に耐えきれず、妻の甘夫人もこの世を去った。

甘夫人はその死の直前、脂汗を浮かべた冷たい手で趙雲の甲冑を強く握りしめ、涙を流しながらこの生まれたばかりの幼い我が子、阿斗の命だけはと託したという。

趙雲は主家の細い血脈を絶やさぬため、ただ一人で燃え盛る混乱の成都を血路を開いて脱出し、追っ手の矢を背に受けながらも荊州勢が守る綿竹関を抜け、靴の底をすり減らしてようやくこの襄陽まで辿り着いたのであった。


静まり返った室内で、劉憲は卓越しに、趙雲の分厚い腕の中に抱かれている赤子をじっと見つめた。微かに聞こえる寝息。おそらく、この無垢な赤子が阿斗であろう。


「子龍殿、本当に……言葉では言い表せぬほど、大変な目に遭われましたね。あなたのその忠義の深さには、胸を打たれるばかりです」


劉憲は衣の裾が擦れる音を立てて静かに立ち上がり、趙雲のそばへと歩み寄ると、その泥に汚れた頑強な肩に温かい手を置いた。


「大義を誰よりも誇らしげに語っていた玄徳殿が、同じ漢室の同族を無惨に攻め滅ぼし、己の拠り所である『義』を完全に失った途端に、このような孤独な最期を迎えるとは。

これもまた、天が下した厳しく非情な天命というものかもしれません。しかし……」


劉憲は身をかがめ、阿斗の柔らかな産毛の生えた小さな頭を優しく撫でた。指先に、ほんのりと甘い乳の匂いが伝わってくる。


「この小さな子供に、親が犯した罪など何一つありません。どんな親から生まれようと、命はただそこにあるだけで尊い」


劉憲はまっすぐに趙雲の瞳を見据えた。


「襄陽の学舎の近くに、南向きで陽当たりの良い、庭の広い立派な屋敷を用意いたしましょう。もうすぐ木蓮の花が咲く頃合いです。

夫人の切なる遺言の通り、これからはどうか阿斗殿を立派な青年に育てながら、あなたのその比類なき武勇を、襄陽の街の警備や、若い兵たちの剣術訓練のために貸してはいただけませんか。

激動の時代にあっても、ここで彼と共に、静かに暮らすと良いでしょう」


その優しさと慈愛に満ちた劉憲の言葉に、これまで鉄の意志で耐え抜いてきた趙雲の顔が歪み、堪えきれずに大粒の涙を床の板木へと零した。

彼は深く、深く両手を重ねて拱手を行い、声にならない嗚咽を漏らしながら、赤子を抱きかかえたままゆっくりと部屋を退出すべく下がっていった。


その広い背中が廊下の向こうへと見えなくなり、足音が完全に遠ざかると、部屋の後ろの薄暗い影でずっと静かに控えていた諸葛亮が、手にした白羽の扇をパチンと閉じ、どこか呆れたような、しかし世の理のすべてを見透かしたような乾いた苦笑を漏らした。


「孝子様……。先ほどは天命などと、よくもまああのような神妙な顔つきで尤もらしく仰いましたね。

こうなるであろうことは、あの日、おかしな仮面を着けて帰ってきた魏延の報告を聞いた時点から、すべてあなたの頭の中で予想していたことでしょう?」


「孔明、お前は相変わらず容赦がないな。少し冷めたようだが、その盆の上にある薬茶を一杯くれないか。長話をして喉が渇いた」


「ええ、構いませんが。少し渋みが出てしまったかもしれませんよ」


劉憲は机に戻り、差し出された青磁の器からぬるい茶をすすりながら、ため息混じりに肩をすくめた。


「まあなあ。遅かれ早かれ、統制の全く取れない周囲の豪族たちの不満か、あるいは益州という過酷で閉鎖的な環境そのものに、維持や補給という現実を考えぬ杜撰な体制は、いずれすり潰されるだろうとは予想していた。

仲達や子柔ほどの優秀な策士にして文官が居ればまた違ったのだろうが。

……ただ、これほどまでに破滅への進行が早いとは、さすがの私も思わなかったがな。関羽や張飛の死は、あまりにも無惨だ」


劉憲は窓の外、春の陽光を浴びて緑の芽を吹き出し始めた広大な荊州の豊かな畑を見つめながら、静かに、しかし力強い声で語を継いだ。


「徐州の時のように、一度曹操によって凄惨な大虐殺の憂き目に遭い、藁にも縋る思いで『なんとしてでも明日への希望を見たい』と涙ながらに願っていた民衆と、数々の反乱や劉璋の怠惰な統治から自らの力と血を流して立ち戻ってきた、自立心の強い益州の民とでは、置かれた前提が全く違うのだよ。

劉玄徳は、己の過去の成功体験に囚われ、ただ『漢室の大義』という名の耳障りの良い甘い理想を空からばら撒けば、天下の誰もが盲目的にひれ伏して自分に付いてくると思い込んでいたのだろう。

為政者とは、まず何よりも民に安全な寝床と安寧を与え、その日食う飯を腹一杯食わせてやって、そこで初めて認められるものだというのに。

その基本的な土台が抜けていれば、楼閣は一瞬で崩れ去る」


「なるほど、道理でございます。それで……主を失い、欲望のままに完全に狂い始めているあの成都はどういたしますか?

このまま捨て置けば、さらなる血の雨が降ることになりますが」


諸葛亮の鋭い問いに、劉憲は不敵な、しかし確実な未来の青写真を見据えた深い目で答えた。


「もう少し、あと少しだけ待とう。今すぐ我々が色めき立って大軍を出せば、飢えた狼たちの共通の標的になるだけだ。

豪族たちの力の趨勢が内ゲバで完全に衰え、彼らが『もはや誰でもいいからこの地獄に秩序を戻してくれ』と我々に泣きついてくるまで、じっくりと腰を据えて待ち、それからゆっくりと圧倒的な武力をもって治安維持に入ろう。

それから、南蛮……いや、現地の南方密林民の諸部族との、対等な自治協定の締結と、相互の利益となる交易路の整備も同時に進めねばならん。

力で押さえつけるのではなく、利益の力で結びつくのだ。……孔明、またしばらく、お前も私も目が回るほど忙しくなるぞ。その美しい白羽の扇を仰いでいる暇などなくなる」


「望むところでございます、孝子様。私の知恵は、寝かせておくには少々切れ味が鋭すぎますゆえ」


若き天才は涼しげな声でそう言って、再び扇を開くと、すでに自身の頭の中に広がる次の、そして最も巨大で緻密な天下安寧の図面を卓上に広げるべく、不敵に、そして自信に満ちた笑みを浮かべて微笑むのだった。

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