202年 乱世の梟雄03
興平九年春。長く厳しい冬の寒気がようやく和らぎ、洛陽の空に淡い陽光が差し込み始めた頃。
幾度もの近隣の戦火に晒されて激務化していた都の政務が、一流の文官たちの手によってようやく正常な軌道に乗りかけたのも束の間、劉憲の元には新たな、そしてこれまでにないほど途方もなく頭の痛い難題が沸き起こっていた。
執務室の窓からは、早春の冷たい風に混じって、中庭の梅の蕾が放つ微かに甘い香りが漂い込んでいる。すだれの竹の隙間で屈折した斜光が、磨き抜かれた机の表面に不規則な格子模様を描き出し、部屋の隅の香炉から立ち上る白檀の煙を青白く浮かび上がらせていた。
「……というわけで、あの劉備殿が、もう丸三日も我が家の薄暗い門前で馬を停め、じっと待ち伏せを続けているのです。
伏龍などと大層に評されるこの諸葛孔明を、どうしても自らの軍師として迎え入れ、共に天下を計りたい、と。
毎朝、私が戸を開けるたびに、あの長い耳を寒さで赤くしながら深々と頭を下げてくるので、近所の目が気になって仕方がありません」
すっかり背が伸び、大人の青年の体つきへと成長した諸葛亮が、手にした羽扇の白羽をそっと指先でなぞりながら、ひどく困惑した表情で呟いた。
「孔明、お前も少し背が伸びすぎて、洛陽の低い鴨居に頭をぶつけやすくなったのではないか。
襄陽の学舎裏で一緒に薬草を摘んでいた頃が懐かしいよ。あの頃はまだ、私の胸のあたりまでしか背がなかったというのにな」
劉憲が、温かい薬湯の入った素焼きの器を両手で包み込み、その熱がじんわりと指先に伝わるのを感じながら、どこか遠い目をして笑った。
「州牧、私の成長の世間話をしている場合ではありませんよ。あなたこそ、連日の冷え込みのせいで、また持病の腰痛が悪化しているのではないですか。布をもう一枚敷かせましょうか」
「いや、大丈夫だ。それよりも……お前もか、孔明。
実はな、昨日までに龐統、司馬懿、さらには武陵から戻ったばかりの沙摩柯からも、全く同じ内容の苦情の報告が私の元へ届いているのだよ。
あの男、洛陽中の才子という才子をしらみつぶしに訪ね歩いているらしい。それだけならまだしも、月英のところにまで現れて『我が妻の一人として迎え、江東からの塩の交易路を共に差配してほしい』とまで大真面目に口説いたそうだ。
それを聞いた月英は烈火のごとく激怒し、手元にあった鋳鉄製の重い万力や鉄鎚を、容赦なくあの男の顔面に向けて投げつけたらしいぞ。あの大人しい彼女が、そこまで取り乱すとはな」
「それは……劉備殿はよく生き残れましたね。月英の造るあの鉄製の道具一式は、まともに当たれば荷車の車軸すら叩き折る威力がありますから」
その様子を想像した諸葛亮と劉憲は、机を挟んで揃って深いため息をついた。吐き出された白い息が、春の冷たい空気の中に溶けて消えていく。
臥龍・諸葛亮、鳳雛・龐統、飛鸞・司馬懿、槃瓠子・沙摩柯。水鏡先生こと司馬徽によってその天賦の才を高く評された次世代を担う若き賢人たち。
それらの元に洛陽の権力から遠ざけられ、退屈な祭祀職の鳥籠に押し込められていたはずの劉備が、警備の目を掻い潜って神出鬼没に現れては、三顧の礼ともつかぬ執拗で陰湿な待ち伏せを敢行し、我が軍師になってくれと涙ながらに懇願する不審な事案が多発していたのである。
「それで……実際のところ、あの執念深い奴の軍師になった命知らずな者は、我らの学舎の仲間に居たのか?」
劉憲の少し探るような問いに対して、諸葛亮はあきれたように薄い唇を震わせ、羽扇で自身の衣服の埃を払うように肩をすくめた。
「いいえ、誰一人として。劉備殿の語る漢室復興の理想の言葉は、確かに水が流れるように美しく響きますが、その足元をよく見れば常に無辜の民の夥しい血と破滅の骸が転がっている。
大義という名の、実体のないただの夢想に盲目的に殉じ、好んで自ら破滅の泥沼へ飛び込みたがるような狂者など、この襄陽や洛陽の学舎のどこを探しても居りませんよ。皆、冷静に世の理を見ております」
「……そうであるなら、ひとまずはいいのだがね。だが、問題はあの男が万が一にも本物の軍師を得て、次に『何をするか』だ。
自暴自棄になった奴が、狂ったように勝手に曹操の強大な軍勢へと突っ込んでいかぬよう、江夏や洛陽の周辺に不穏な兵や物資が集結していないか、細心の注意を払って注視しておいてくれ。
あの男の動向には、常に不気味な影が付きまとう」
しかし、劉憲のその緻密な予測は、数ヶ月後、誰も予想もしない驚くべき方向へと裏切られることになる。
事態が大きく動いたのは、同年の六月。夏の重い湿気が肌にじっとりとまとわりつき、雨を孕んだ暗雲が垂れ込める頃であった。
北方を統べる絶対の巨頭・袁紹が、失意のうちに病没したという衝撃的な噂が天下を駆け巡り、曹操をはじめとする全土の群雄たちの監視の目が、一斉に「東」の河北の広大な地へと強く向けられた、まさにその一瞬の隙のことであった。
江夏や洛陽の国境線は、不気味なほど静まり返っていた。劉備が動かしたのは、劉憲の鋭い目が届かぬ、暗闇の「影」に潜む兵たちだった。
劉備は、いつの間にか巷で『妖獣』と評される、不気味な獣の仮面を被った正体不明の謎の軍師らを自らの陣営に獲得していたのである。
そして、長沙や江夏の後方で訓練中だった、行き場のない荒くれ者の兵たちや、荊州にやってきてまだ日も浅く、公的な戸籍の割り振りが終わっていなかった浮浪の流民たちを、甘い言葉で巧みに迎合して自らの私兵へと変えていった。
さらに、劉憲の統治の網の目が届かぬ西方の険しい山道を越え、長年内紛と混乱が続く益州の、現状に強い不満を抱く地方豪族たちと秘密裏に連絡を通底させたのである。
強力な内応の手引きを得た劉備一党は、電光石火の勢いで益州の険阻な関門を突破して侵入。そのまま益州牧・劉璋の拠る成都へと向かって、猛然と侵攻を開始した、という未曾有の大報がもたらされた。
「……西か。完全に、我が方の裏をかかれたな」
報告が記された、まだ新しい竹簡の手触りはどこか湿っており、乱暴に書かれた墨の匂いが執務室の中に立ち込めた。
報告書を卓の上に落とし、劉憲が白檀の煙の中へと吐き出した溜息は、かつてないほど深く、そして重く室内に響き渡った。
洛陽の用意した豪華な鳥籠をその鋭い牙で喰い破り、西の豊かな沃野へと獰猛に牙を剥いた、あの梟雄の執念深さに、天下の図面は再び激しく塗り替えられようとしていたのである。
更にしばらくのち、斥候がもたらした西方の生々しい報告書を前にして、劉憲は机に両肘をつき、深く額を押さえて頭を抱えていた。
劉備は、同族でありながら気の弱い益州牧・劉璋を、またしても彼が得意とする「漢室の大義」の名のもとに容赦なく切り捨て、成都の奪取に見事成功した。
しかし、そこからの事態が最悪であった。手引きの代償として、益州の海千山千の地元豪族たちに約束していたはずの莫大な財貨や領地の報酬を、よそ者であり、元より根無草である劉備一党が満足に提示できるはずもなかったのだ。
案の定、約束を反故にされ、恩賞の少なさに激怒した豪族たちの離反と、それに伴う大規模な武力反乱の火の手が、いまや益州の全土で激しく燃え広がっているという。
「……おまけに、北の漢中の張魯殿からも、隣国から連動して押し寄せる戦火と難民の波に耐えかねて、我が方に緊急の救援要請が届いている。
益州のこの大混乱の火の粉が、我が領内にまで飛び火して民を脅かす前に、こちらから何かしらの手を打たねばならんだろうな。
……よし、主将には忠義者の周倉を据え、副将には気性の激しい魏延と甘寧を……」
劉憲がそこまで口にし、筆をとろうとしたとき、傍らでうずたかく積まれた木簡を一本ずつ丁寧に整理していた李厳が、ふと不思議そうな顔をして首を傾げ劉憲に視線を送り、それに気付いた劉憲が口を開く。
「そういえば、正方。君が持っているその硯、ずいぶんと見事な青みがかっているな。どこで手に入れたのだ」
「ああ、これですか。これは私の故郷の職人が、川の底から拾い上げた珍しい石を削ったものです。墨の滑りが格別でして。
……それはそうと孝子、最近その魏延と甘寧の二人の姿を、この洛陽の庁舎の周辺で全く見かけないのですが、何か別の任務でも与えておいでですか?」
「……何?
言われてみれば。おおかた江夏あたりまで勝手に出向いて、自慢の軍船を繰り出し、荒くれどもと水賊狩りでも楽しんでいるのではないか。
誰か、魏延らの正確な行方を知る者は居ないか?」
劉憲の問いが終わるか終わらないかのうちに、執務室の重い鉄飾りの付いた木扉が、ガシャンと凄まじい音を立てて左右に跳ね上がった。蝶番から錆びた鉄の粉がパラパラと床に落ちる。
「ここに居るぞ!心配をかけたな、州牧」
堂々と土足で床板を踏み鳴らし、泥のついた靴のまま踏み込んできたのは、なんと今まさに噂をしていた魏延と甘寧、その二人であった。
しかも、その顔には、巷の噂で人々を恐怖させていた、不気味な『妖獣の仮面』が、それぞれ不釣り合いに装着されている。荒い仕立ての革の匂いと、獣の毛の生臭い匂いがにわかに部屋に充満した。
「ふははは。魏文長、只今益州の山中より戻ったぞ!
劉州牧よ、そういつまでも眉間に深い皺を寄せるな、安心するがよい。
天才・郭嘉の神算と、我らが授けた完璧な鬼謀により、我が陣営の長年の悩みの種だった、あの『耳長』の劉備を、見事に益州の奥地へと厄介払いしてやったぞ」
「ククク……。 この益州出身の最高の名士、甘興覇の人望と、隅々まで知り尽くした土地勘をもってすれば、混乱する益州の強欲な豪族どもを裏から煽り立て、劉備如きの器にすら一時的に州を乗っ取らせるなど、朝飯前の軽いお遊びよ!」
部屋が震えるほどの声で高笑いする二人と、彼らが自慢げに手にする、どこか悪趣味で不気味な妖獣の仮面。
その瞬間、劉憲の脳裏の中で、これまでバラバラだったすべての点と線が、カチリと音を立てて一つに繋がった。
春、劉備の前に誰も軍師として名乗りを上げなかった頃、郭嘉がこの計画を練っていたのだ。
そして、監視の目が東に向いた夏、劉備は『妖獣と評される仮面の軍師』を得て西へ動いた。さらに、あの恐るべき智謀の郭嘉は、確かにその時期、洛陽にいたはずだ。
つまり、すべては郭嘉が裏で巧妙に糸を引き、この手の付けられない悪たれ二人に不気味な仮面を被せて軍師として劉備の元へ送り込み、彼を益州の地へと巧みに誘導し、大義なき潰し合いをさせるために、出口のない泥沼の戦場へと完全にハメ込んだのだ。
大体の恐ろしい真相をすべて察し、こめかみのあたりに激しい痛みが走り、頭痛が数倍に膨れ上がるのを感じた劉憲だったが、ひとまず深く冷たい息を吸い込むと、器の中の冷めきった薬湯を一口飲み、目の前で大仰なポーズを決めている二人の不審者に、氷のように冷え切った視線を向けた。
「……文長、興覇。まず、そのふざけた悪趣味な仮面を今すぐ外せ。話はそれからだ。それと、床が泥だらけだぞ。
……念のため、君たちが向こうの益州で具体的に一体何をしてきたのか、一から十まで、髪の毛一本の隙間もないほど正確な報告を聞かせてもらおうか」
劉憲の、地を這うような冷え切った声の重圧に、さっきまで勝ち誇って天を仰いでいた魏延と甘寧の頑強な肩が、びくりと同時に細かく揺れた。
天幕の向こうで、春の終わりの雨が、しとしとと瓦を濡らし始める音が静かに部屋へ響き始めていた。
史実メモ:212年劉備は成都に向け進軍。214年に劉璋を降伏させた。




