201年 乱世の梟雄02
九月。高く澄み渡り始めた秋の空とは裏腹に、江夏の長江沿いには、見渡す限りの軍船が黒々とした威容を誇って隙間なく並んでいた。
川面を撫でる初秋の風が、火照った肌に少しばかり肌寒く感じられる季節である。濁った水面が波打ち、何百という船体を揺らすたびに、分厚い松の船板が軋む重低音が腹の底に響いた。
甲板には、手入れの行き届いた弩を隙間なく構えた荊州兵が、まるでひとつの巨大な硬い鱗のように整然と列をなしている。兜が秋の冷たい陽光を反射し、張り詰めた弓弦から立ち上る微かな膠の匂いが、静かな殺気となって水上を漂っていた。
これ以上の進軍は、精強な水軍を擁する荊州との泥沼の全面戦争を意味する。それを瞬時に悟った曹操軍は、不気味なほどぴたりと追撃を停止した。彼らは、道中で力尽きて取り残されていた民衆を次々と荷車へ回収しながら、激しい砂埃を立てることもなく、ゆっくりと背を向けて許県へと去っていった。遠ざかる軍旗の波が地平に消えるまで、荊州兵たちは微動だにせず弩を構え続けていた。
「風が急に冷たくなってきたな。州牧、上等な羊毛の外套をお持ちしましょうか。先日、并州から届いたばかりの温かいものがございます」
「いや、いい。それよりも、お前こそ手が随分と荒れているぞ。昨日から夜通しで水仕事の手伝いまでしていたのか。
傷口から泥が入ると酷い熱を出す。吉本先生から貰ったあの酷く青臭い軟膏を、ちゃんと塗っておけよ」
「ははっ、お心遣い痛み入ります。ですが、あの軟膏がうっかり口に入ると三日は飯の味が分からなくなるので、せめて夜の飯を食べるまでは我慢しております」
劉憲と文官が交わす他愛のない言葉の向こう側、長江の冷たい河川敷に残されたのは、過酷すぎる逃避行によって十万から五万にまで半減した、骨と皮ばかりの飢餓民であった。
埃にまみれ、虚ろな目をした彼らの体からは、病と飢え、そして濃厚な死の匂いが立ち昇っている。
江夏の港は、即座に治安維持と食糧配布、さらには張機や吉本が血眼になって手配した医薬品の支援に奔走する荊州の文武官たちで、戦場さながらの狂騒と活気に包まれていた。
大きな鉄鍋で炊かれる粟粥の甘い湯気と、湿った薪が焦げるむせ返るような煙が入り混じり、咽び泣く声と文官たちの掠れた怒号がひっきりなしに飛び交っている。
その喧騒を小高い丘から見下ろす本陣の天幕の中で、劉備は心の底から安堵の息を漏らしながら、擦り切れた麻布の衣の裾を翻して劉憲に向かって深く頭を下げた。
「此度は楚公、劉孝子様にお助けいただき、感謝の言葉もございません。
曹操という暴虐の徒の虐殺に怯える無辜の民を、半数でもこうして救うことができて、私は望外の幸せにございます」
「……さすがは、天下に『義人』と名高い劉玄徳殿ですね。その御仁徳、恐れ入ります」
劉憲の口から静かに流れ出た返答には、驚くほど感情というものが一切こもっていなかった。まるで乾いた砂に水が吸い込まれるように、言葉だけが天幕の中に虚しく響く。
しかし、幾度も死線を潜り抜け、修羅場を渡り歩いてきた劉備はそんな冷淡さを意にも介さず、なおも漢室復興の崇高な理想や、中原を牛耳る佞臣・曹操を打ち砕くべき絶対の大義について、身振り手振りを交えながら朗々と熱弁を振るい続ける。
劉憲の背後に控える若き二人の俊才、諸葛亮と司馬懿の、底知れぬ双眸が、氷点下すら下回るほどの冷涼な光を宿して、自分という人間の底の浅さを正確に値踏みしていることにも、劉備は全く気づかぬ様子であった。
「それにしても、この薬湯は、いつも飲んでいるものより少し渋みが強いな。口直しに甘い干し柿が欲しくなる」
「申し訳ありません、州牧。急ごしらえの陣ですので、薬草の保管が悪かったのかもしれません。後で襄陽から取り寄せたものを淹れ直させます」
「いや、構わんよ。この喉に引っかかるような渋みが、今は眠気覚ましにちょうどいい」
劉憲が少し冷めた薬湯をすすりながら、ざらついた陶器の手触りを指先で確かめていると、ひとしきり大義を語り終えた劉備がふと眼下の河川敷に目をやり、不審そうに太い眉をひそめた。
「……ところで楚公様。先ほどから気になっていたのですが、我が連れてきたあの哀れな民に対し、貴殿の文官たちが何やら熱心に縁者の存在や、それぞれが持つ職能などを聞き取って、木簡に書き込んでいるようですが、あれはいったい何をしているのです?」
「ああ、あれですか」
劉憲は、まるで明日の天気を語るように、ひどく淡々とした口調で答えた。
「縁者が荊州内にいる者はその元へ送り届け、その他の者は希望する地、あるいは現在、復興と屯田の人手が著しく不足して悲鳴を上げている并州や、陳倉県あたりに振り分けます。
当然、道中は我が軍の屈強な兵が護衛として随行し、屯田地への移動を安全に完了させる手筈となっております。ご安心を」
その実務的で淡々とした差配を聞いた瞬間、劉備の顔色が劇的に変わった。日焼けした顔からさあっと血の気が引き、瞳孔が見開かれる。
「な……、 お待ちいただきたい。あの者たちは、私の徳を慕い、曹操の理不尽な脅威から逃れるために、家族を失い、家を捨て、筆舌に尽くしがたい苦難を共にしながらここまで私に付いてきてくれた、いわば『私の民』にございますぞ。
それを勝手に遠方へ散り散りにするなど」
「では、劉玄徳殿……」
劉憲は、手に持っていた器を卓にことりと置き、その言葉を静かに遮った。そして、初めて劉備の目を真っ向から見据えた。その瞳には、先ほどの無関心さとは打って変わった、かつてないほどの鋭く冷たい光が宿っていた。
「あなたは、その五万の民を、明日からどのようにして食わせるおつもりだったのですか?」
「え……?」
「五万の口を満たすだけの莫大な糧食の算段。病に倒れた者たちを癒す薬の調達。
彼らに生きるための職を与え、やがて来る厳しい冬を越すための薪と家を、江夏のどこに、どうやって手配するご予定だったのか。その具体的な計画を、ぜひ私にお聞かせ願いたい」
「それは……」
劉備は絶句した。口をわずかに開けたまま、喉の奥から乾いた音が漏れる。
ここへ連れてくればなんとかなる、情に厚い劉憲ならば決して見捨てないはずだ。腹の底にあったその無責任な甘えを、鋭利な刃物で完全にえぐり出されたかのように、劉備は言葉に詰まり、唇をわなわなと震わせた。
「あの者は、民を食わせるという政治の恐ろしさを、欠片も理解していないな」
司馬懿が、背後で微かに、諸葛亮にだけ聞こえるような声で呟いた。
「……ええ。熱い善意だけで万人の腹は膨れません。それを知らぬ者は、為政者とは呼べませんよ」
諸葛亮が、手元の筆を止めることなく、感情の読めない声で返す。小刀で削られたばかりの青竹の匂いが、微かに漂う。
劉憲はそれ以上劉備を追及せず、再びふっと息を吐くと、声音を元の無機質で感情を削ぎ落としたものに戻して告げた。
「中山靖王の末裔たる高貴な劉玄徳殿には、新都として復興した洛陽にふさわしい立派な邸宅と、少帝公及び献帝公の御霊を慰め、祭祀を厳かに執り行うという、極めて重要な地位をご用意しております。
亡き陛下に連なるご一族として、天下の諸侯の模範となる立派なお役目を務めていただけますよう、私からも心より期待しておりますよ」
劉備の肩が、びくりと大きく揺れる。
劉憲の視線は、立ち尽くす劉備の背後にピタリと控える関羽、張飛、そして趙雲ら、ただそこにいるだけで一騎当千の凄まじい熱量と濃密な血の匂いを放つ、猛獣のような幕僚たちへと移った。
「配下の皆様にも、漢中までの長大な街道の警備や、并州における凶暴な鮮卑に対する治安維持など、我が陣営の国防にとって無くてはならない重役を、それぞれ分担して担っていただきますので、どうぞご安心ください。
幾多の戦場を駆け抜けてこられた皆様ほどの無双の武勇があれば、まさに適任。誰もが安心して背中を任せられるというものでしょう」
「……っ」
劉備の後ろで、張飛が我慢ならないといった様子で、ギリリと激しく奥歯を鳴らす気配がした。太い腕の筋が隆起し、今にも飛びかからんとするその荒々しい殺気を、隣に立つ関羽が、目を閉じたまま無言で、しかし強靭な腕の力で押さえ込んで制する。
それは、劉備から「民を救う」という最大の大義名分を合法的に剥ぎ取り、実権の一切ない名誉職という豪華な鳥籠に閉じ込める。
同時にその強力な手足たる配下たちを、洛陽から遥か遠く、しかし「国防の要」という文句のつけようのない大義名分の下で前線へ配置し、完全に分断する。劉憲という男が克明に描き出した、一滴の血も流さぬ完璧な「梟雄封じ」の策であった。
天幕の隙間を吹き抜ける秋風が、微かに土埃を運んでくる。
劉憲の背後で、司馬懿がふっと、獲物を罠にかけた狩人のような残酷な笑みを浮かべ、諸葛亮は何も見ていないかのように、新しい木簡に「民の配置図」を淀みなく静かに書き進めていく。
十万の民の命を盾にして荊州の基盤を揺るがそうとした劉備の果てしない野心は、いま、劉憲が緻密に組み上げた巨大な制度の歯車の中に、音もなく、そして確実に噛み潰されようとしていた。




