201年 乱世の梟雄01
興平八年盛夏。中原の乾いた大地を赤黒い血で染め上げ、天下の勢力図を根底から揺るがした曹操と袁紹の巨大な戦火は、ついに曹操の歴史的な勝利という形で、凄惨な決着を迎えつつあった。
敗れ去った袁紹の陣営は瓦解し、その苛烈極まる粛清の嵐や泥沼の派閥争いの混乱を逃れ、沮授や田豊といった、かつて河北を支えた稀代の智者たちが、着の身着のままで次々と洛陽へと流れ込んできていたのである。
「いやはや、沮授殿と田豊殿の政務の手腕には、ただただ恐れ入るばかりですな。
あの天井まで届きそうだった戸籍と流民の配備書の山が、彼らの手に掛かれば、まるで春の雪のようにわずか数日で溶けて消えてしまった」
部屋の隅で新しい筆の穂先を小刀で整えながら、文官の一人が感嘆の溜息を漏らした。
「全くだ。田豊殿などは、あまりの几帳面さに、文箱の端が少しでもずれているのを見ただけで顔を真っ赤にして怒り出す始末だがな。
……だが、彼らのような天下の頭脳が惜しげもなく差配に加わってくれたおかげで、ようやく我々も一息つける。
お前も、目の下にひどい隈ができているぞ。少し奥の部屋で仮眠をとってこい」
劉憲が、竹の繊維が残る粗末な竹簡の束から顔を上げ、自身の肩をトントンと叩きながら労いの言葉をかけた。
「お心遣い、身に沁みます。ですが州牧こそ、先日から軽い空咳が続いておられるではありませんか。
こんな埃っぽい庁舎で無理をなされば、また吉本先生が、あの泥を煮詰めたような酷く苦い薬草の汁を、なみなみと注いで持ってきますぞ」
「……頼むから、その恐ろしい名前を出さないでくれ。誰かが余計な事を漏らしたらしく、すでに昨日飲まされた。
襄陽にいる昭姫が淹れてくれる、微かに甘い菊花茶が心底恋しいよ」
彼ら一流の文官たちが即座に差配に加わったことで、焦げた匂いと酸えた汗の臭気が充満し、終わりの見えない流民の山に埋もれていた洛陽の戦場のような大監理業務は、ようやく劇的な落ち着きを見せ始めていた。
開け放たれた窓からは、真夏の刺すような陽光とともに、どこか気の抜けたような蝉時雨が遠くから聞こえてくる。
しかし、遠くの空に不気味な鉛色の暗雲が急激に湧き上がり、生温かく湿った突風が部屋のすだれを激しく揺らしたのと同時に、そのかりそめの静寂を無惨に切り裂く、最悪の急報が庁舎へと飛び込んできたのである。
「緊急報告申し上げます!」
バタン、と蝶番が悲鳴を上げるほどの勢いで扉が蹴破られ、頭から水を被ったような凄惨な有様の伝令が転がり込んできた。
革鎧からは、何日も不眠不休で馬を走らせたことによる獣のような強い汗の臭気と、血の匂いが立ち昇っている。
「劉備、汝南にて約十万もの流民を糾合し、西へ向けて大々的な移動を開始。
まっすぐ、まっすぐ我が領内の江夏を目指し、砂埃を上げて進軍中とのこと!」
「何だと?」
勢いよく立ち上がった劉憲の足が、卓の脚に激しくぶつかる。背後で、彼が座っていた紫檀の重い椅子が甲高い摩擦音とともに後方へ大きく弾き飛ばされ、固い土間に激突して凄まじい音を立てた。
静まり返っていた室内に、びりびりと空気を震わせるような衝撃音が反響し、舞い上がった埃が白く陽光に透ける。
「まだ秋の収穫にも程遠い、この全く実りのない残酷な盛夏だぞ……。
一体、あの男は何を考えている。それで、劉備らに引き連れられた十万の民の兵糧はどうなっているのだ、狂犬のように追撃してくるであろう、曹操の動きは?」
報告に上がった伝令の兵は、劉憲の鬼気迫る形相と、その双眸に宿った恐ろしい光に完全に気圧され、乾ききった喉をひくりと鳴らし、言いにくそうに口籠もった。
「それが……大変遺憾ながら、十万の民の胃の腑を満たすほどの兵糧などあろうはずもなく、民は各自の手持ちのわずかな食糧や、路傍の草の根を噛んで、辛うじて食い繋いでいるという凄惨な状態にございます。
すでに強烈な飢えや喉の乾き、果てしない疲労から進軍についていけず、力尽きて道中に置き去りにされる者や、命を落とす老若男女が数え切れぬほど多数出ている模様……。
そして曹操も、この異常な事態を極めて重く見ており、これ以上の労働力たる民の流出を防ぐための強行な捕獲と、劉備自身の息の根を今度こそ確実に止めるため、精鋭中の精鋭を放っての猛追撃を開始したとのことです」
劉憲の卓をついた両手が、そして固く握りしめられた拳が、怒りのあまりわなわなと小刻みに震え始めた。
爪が手のひらに深く食い込み、そこから血が滲み出しそうになるほどの恐ろしい力がこもっている。
みるみるうちに、彼の顔色から血の気が引き蒼白になったかと思うと、次の瞬間には、煮えたぎるような激しい憤怒の赤へと染まり上がっていった。
「……あの、腐れ外道めが。かつて許県周辺の罪なき村々を野盗の如く荒らし回っただけでは飽き足らず、今度は十万もの無防備で飢えた民を道連れにして、我が平穏な領内に逃げ込んでくるというのか。
自らが『天下の義人』として曹操という巨悪に無惨に追われる哀れな姿を、天下の諸侯に同情を引くよう晒すためだけに、何の罪もない十万の民の命を、文字通り使い捨ての肉の盾にするなど……」
劉憲は、口の中に血の味が広がるほど、激痛が走るほど奥歯をギリギリと噛み締め、決然たる大音声で言い放った。
「急ぎ江夏の黄祖殿と蔡瑁殿に最速の早馬で伝令を飛ばせ。 昼夜を問わず馬を乗り潰せ。
即座に水軍の防備を最高警戒まで固め、国境を完全に封鎖しろ。追撃の余勢を駆ってなだれ込んでくるであろう、曹操の軍勢を死に物狂いで警戒せよ。
同時に襄陽の文官は見習いを含め、一刻の猶予もなく全員江夏へ出向させろ。怒涛のように押し寄せるであろう流民たちの受け入れ態勢と、国庫を開いてありったけの穀物を放出し、大規模な炊き出しの準備を今すぐ整える!」
そこまで一気に怒鳴るように言い切り、荒い息を切らせる劉憲の恐ろしい覇気の前から、兵が這うようにして恐れおののいて退室していく。
外ではいつの間にか分厚い雲が太陽を覆い隠し、執務室の中はどんよりとした薄暗さに包まれていた。
死者のように静まり返った室内の中で、劉憲の胸の奥底で渦巻く怒りは、ついに制御不能な沸点へと達した。
劉憲は、机の上に山積みにされていた整理済みの竹簡の束と、手元にあった高価な象牙の筆を、腹の底からの怒りに任せて、まとめて力任せに床へと叩き落とした。
ガシャン、というけたたましい音が響き、結び目が千切れた竹簡の木片が、まるで飛び散る骨片のように無惨に室内に散乱する。
「あの梟雄がああああああッ!」
いつもは涼しげで穏やかであり、どれほどの無理難題や厄介事にも、呆れたような苦笑いで軽やかに応えていた主君の、これまで誰も見たことも聞いたこともないほどの、血を吐くような絶叫。
部屋の隅で、新しい木簡を抱えて控えていた司馬昭は、そのすさまじい気迫の直撃を受け、完全に腰を抜かして床にへたり込み、ガタガタと全身を震え上がらせた。
「ひぃっ、 劉憲様が、ついにご乱心だ。だめだ、私も意識が遠のく……。
わ、私にも早く気付けの強い薬を。誰か、誰か早く吉本先生を呼んで来てくれ」
天子という至高の権威を失っても怒りはせず、天下の宝である玉璽の価値を石ころ同然に貶め、凶暴な匈奴すら盤上の駒のように手玉に取ってのけた稀代の策士、劉憲。
彼が、その長きにわたる人生の中で、最も激しく、そして最も人間らしく激昂した瞬間であった。
十万の飢えた民という名の、いつ弾けるともしれない「最悪の爆弾」を無責任に抱え込んだ劉備の西進に対し、豊かな実りを謳歌していた荊州は、これよりかつてない激動の渦へと、否応なく巻き込まれようとしていた。
史実メモ:長板の戦い。208年、曹操の南陽郡侵攻に際し、劉備は江夏方面へと彼を慕う荊州の民十数万と共に逃亡した。




