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200年 弓腰姫

晩夏、中原の広大な大地を揺るがす曹操と袁紹の大戦は、日に日に激化の一途をたどっていた。

その凄まじい地鳴りのような大震動の余波を受ける洛陽の劉憲陣営もまた、押し寄せる政務の波に呑まれ、文官・武官ともに疲労の限界に達しつつあった。


部屋の空気は、夕立を孕んだ重い湿気でじっとりと肌にまとわりつき、すだれの隙間から差し込む傾いた西光が、室内を飛び交う無数の埃の粒を赤銅色にじりじりと照らし出している。

机の上には何百枚もの竹簡・木簡から削り出された木の粉が白く積もり、濃く擦られた松煙墨のどこか焦げ臭い匂いと、廊下を慌ただしく行き交う兵たちの染み付いた汗の臭気が混じり合って、息苦しいほどの熱気を作り出していた。


「州牧、少し目を休めてくだされ。朝からずっとその細かい文字を睨みつけておいでだ。また吉本先生が来たら、不養生だとこっぴどく叱られますぞ」


傍らで書類を整理していた年配の文官が、皺の寄った手で新しく淹れたぬるい薬草茶を差し出しながら、いたわるように言った。


「ああ、すまない。どうも最近は、夕刻になると文字が二重にブレて見えて困るな。

昔、南陽で下級官吏として赴いたばかりの頃の夏は、これほど体に堪えなかったように思うのだが……やはり年を重ねるというのはこういうことか」


「何を仰います。まだお若い。ですが、ここ連日の洛陽の暑さは、昔のそれとはどこか違って、体にねっとりと絡みつくような嫌な暑さですな。今夜あたり、ひと雨くれば良いのですが」


劉憲は薬草茶を一口すすり、ざらついた茶器の手触りを確かめながら、小さく息を吐いた。


しかし、一時の世間話を引き裂くようにして、前線からの斥候がもたらした生々しい戦況の報告書が届けられた。劉憲はすぐに視線を戻し、まだ墨の乾ききっていない古絹の報告書に目を走らせた。


「劉備は、結局徐州から命からがら袁紹のもとへ逃げ延びたか。

袁紹は春の白馬の戦いで顔良と文醜という、誰もが恐れた二大巨頭の猛将を失ったというのに、やはり四世三公の名門の底力は違うな。

これほどの損失を出してもなお軍勢が衰えんとは。現時点では官渡周辺で、曹操陣営がかなり激しく押し込まれているようだ」


報告書を机に置くと、劉憲は深く、胸の奥に溜まった澱を吐き出すような重いため息をついた。


「もし曹操がこのまま敗れて袁紹の全土統一が現実のものに近づけば、天下の勢力図は塗り替えられ、また大きな政変が起きる。

その大混乱に乗じて、あの神出鬼没の劉備が万が一にも我が領内に逃げ込んできたら、それこそ目も当てられん。

国境を監視する密偵たちには、この酷暑の中でさらなる激務を強いることになって本当に心苦しいが、劉備の動向は一挙手一投足、影の動きに至るまで厳重に探らせてくれ。

あの男、次はどこの土地を荒らし回って民を泣かせるか分かったものではないからな。

……彼らには、この役目が終われば必ず、誰もが腰を抜かすほどの十分な恩賞を出すと約束しよう」


梟雄の不気味な動きを警戒し、劉憲が次々と的確な指示を飛ばしていると、先ほどの斥候と入れ替わるようにして、足音も静かに司馬朗が部屋に入ってきた。その手には、旅の垢で汚れた書簡が握られている。


「劉州牧、お忙しいところ恐縮ですが、長江の向こうから、いささか珍しい客人が見えられております。門外でお待ちですが、いかがいたしましょう。

衣服にはかなり潮の匂いが染み付いております」


「どこもかしこも墨汁と木簡の削り屑で汚れていて、客人を迎えるには相応しくない部屋で申し訳ないが、この非常時だ。贅沢は言っていられん。

丁重に、すぐにここへ通してくれ」


応接のための新しい部屋を用意する間もなく現れたのは、真夏の強い日差しに幾度も曝されてきたことが一目でわかる、日焼けした頑健な肌を持った老将であった。

その身には、中原のそれとは意匠の異なる、赤と黒の漆で固められた孫家の重厚な鎧をまとっている。

数多の凄惨な修羅場をくぐり抜けてきた者にしか宿らない、独特の鋭い殺気と凄みが、老いた身体の奥から静かに放たれていた。

部屋の中に、微かに湿った江東の川風と、古い鉄錆の匂いがにわかに立ち込める。


「それがしは孫家に代々仕える黄蓋、字を公覆と申す。この度は、我が新たな主君である孫権からの、切なる同盟と交易の申し出を携えて参った」


「長江の激流を越え、これほどの大変な時期によくぞ遠路遥々お越しくださいました、黄蓋殿。後ほど休める場所を用意させよう。その鎧を脱ぎ、冷たい水で汗を流されると良い」


劉憲は立ち上がって礼を述べつつも、老将の言葉の端にある、決定的な違和感に気づき、わずかに眉をひそめた。


「……少々お待ちください。黄蓋殿、私の記憶が確かならば、孫家の現主といえば、あの血気盛んな伯符殿ではないのですか?

なぜ、まだ年若い弟の孫権殿の名が主君として出てくるのです?」


劉憲の静かな問いに対して、黄蓋はそれまでの堂々とした態度から一転し、胸の奥を引き裂かれるような痛恨の情を隠そうともせず、深く、重く首を振った。その握りしめられた太い拳が、小刻みに震えている。


「……孫伯符様は、この春、江東の地を巡視中に、不覚にもかつて滅ぼした許貢の生前の子飼いらによる、卑劣な刺客の襲撃を受けられました。

あの時、劉州牧の陣営におられる吉本殿や張機殿のような、死者をも蘇らせると噂される名医が我が手元におれば、あるいは運命は違ったかもしれませぬが、我らの必死の治療も虚しく、傷が深く化膿し……若くして身罷られました」


「そんな……。あの江東の小覇王とまで謳われ、天下の誰もがその武威を恐れた男が、戦場ではなく刺客の手に倒れたというのか……」


驚愕のあまり、劉憲が指先に力を込めて持っていた竹の筆が、手元から滑り落ちた。コトコトと鈍い音を立てて机の上を転がった筆は、先ほどまで読んでいた貴重な前線からの報告書の上に、点々と黒い墨跡を新しく残していったが、今の劉憲にはそれを拭い取る余裕すらなかった。


「……そうでしたか。孫策殿とは父君の代から、我が方との戦場での因縁はあまりにも深かった。

ですが私は、いつかはこの天下の誤解をすべて解き、戦が終わった暁には、一人の男として、過去の戦友の息子の立派な成長を祝って、朝まで肩を並べて酒を酌み交わしたいと……心から願っていたのですがね。

世の無常とは、まさにこのことか。彼の武勇がこれほど早く潰えるとは、惜しい男を亡くした」


「……劉州牧のその温かきお心遣い、草葉の陰におる亡き主君に代わり、この老骨が深く痛み入る」


黄蓋は、劉憲の顔に浮かんだ偽りのない落胆と、哀悼の表情を見て、それまで敵地警戒のために頑なに強張らせていた表情を、ほんの少しだけ緩めた。

しかし、すぐに一国の使者としての冷静な表情に戻ると、本来の本題を切り出す。


「さて、肝心の要件にございます。我が新たな主・孫権は、以前に我が方が意地を張ってお断りいたしました、両国間の『交易』の件を、今一度白紙に戻して再考していただけないかと望んでおります。

長江沿いの民を干害から救い、飢えから潤すため、どうか劉州牧のお慈悲をいただきたい」


「ああ、その件ですか。構いませんよ。何も気にすることはない。

ぜひ、呉の国の豊かな塩や、新鮮な海産物を我が領内に売ってください。こちらも江夏の質の良い銅や、南陽の頑丈な鉄を喜んで諸侯と同等の価格で融通いたしましょう」


劉憲が、過去の恨み言を一切口にせず、何の条件も付けないまま間髪入れずに即断したため、黄蓋は完全に呆気にとられてしまった。

てっきり、過去の蘆江の戦禍を盾に厳しい外交交渉の条件を突きつけられ、江東の利益を削られるものと覚悟していたのだ。


「ま、まさか……。これほど容易く応じていただけるとは。いくら何でも、我が方に都合の良い条件ばかりを無条件に受け入れさせるわけには参らん。

そのような不義理を働けば、孫家の誇りが許さぬ。……おい、姫をここへ」


黄蓋が少し狼狽しながら背後に声をかけると、部屋を仕切っていた厚手の絹の帳が静かに開き、一人の少女が、供の者に連れられて部屋の中央へと歩み出てきた。


「孫尚香と申します。以後、お見知りおきを」


少女はまだ、頬に幼さの赤みが残る年齢でありながら、亡き兄たちの激しい血を色濃く引いた、燃えるような気の強さを全身から放っていた。

身にまとった鮮やかな紅色の衣からは、ほのかに江東の高級な香油の甘い匂いが漂うが、その腰には小さな飾り剣が誇らしげに佩かれている。

劉憲の姿を見ても物怖じすることなく、むしろその大きな瞳でまっすぐに睨みつけ、ぐっと胸を張って一歩前に進み出た。


劉憲はそのあまりにも勝気な姿を見て、困ったように眉を下げ、苦笑いを浮かべた。


「黄蓋殿、このような形ばかりの人質など、今の我が陣営には一切不要です。見てみれば、まだこれほど年若い、これからの少女ではありませんか。

このような多感な時期は、殺伐とした他国ではなく、江東の優しい母君や兄君のもとで、健やかにのびのびと育つのが一番です。

商売の約束は男に二言はありませんから、違えません。ですから、今すぐ彼女を連れて呉へお帰りいただいて大丈夫ですよ。道中の安全は我が兵に保障させましょう」


その劉憲の、親心にも似た優しすぎる言葉が、かえって少女の誇りを激しく傷つけた。孫尚香の形の良い眉間に、見る見るうちに深い皺が寄せられていく。その小さな足が、床板をトントンと鳴らした。


「何によそれ。私はあの虎と恐れられた孫堅の娘であり、小覇王と呼ばれた孫伯符の妹なのよ。その辺の腑抜けた弱卒の人質と一緒にしないで、もっと敬意を払いなさい。

……ふん、決めたわ。あなたが帰れと言おうが何だろうが、私は絶対にこの洛陽から、江東には帰らないからね」


ぷいっとそっぽを向いて、華奢な腕を組む少女の頑固さに、劉憲は天下を動かす激務とはまた違う、頭の芯が痛むような強烈な疲労感を覚えて、思わずこめかみを押さえた。背後では、司馬朗が声を殺してクスクスと笑っているのが聞こえる。


「……はあ。これだから孫堅殿の血筋というのは、どいつもこいつも一筋縄ではいかない。

分かりました、黄蓋殿。彼女は国と国を繋ぐ『人質』としてではなく、我が襄陽にある、広く門戸を開いた学舎の『学徒』として、正式にお預かりいたしましょう。

あの場所なら、諸葛亮や陸遜、黄月英など、同年代の優秀で学ぶ事もできる若者も多い。彼女のその有り余る気性にとっても、良い刺激になるはずだ。

もちろん、そちらの気が変わって寂しくなれば、いつでも呉に戻られて構いませんよ。引き止めはしない」


「……州牧の、海よりも深いご配慮、痛み入ります。この御恩は忘れません」


黄蓋もまた、実のところ江東の城内で、このお転婆で手の付けられない姫君の扱いに、ほとほと手を焼いていたのだろう。

劉憲に負けず劣らずの、どこか救われたような、そして深く疲れた表情を見せながらも、劉憲に向かって深く一礼した。

そして、梃子でも動かぬと部屋の隅の敷物にどっかりと居座る少女を、苦笑しながら宥め、襄陽への旅路の手配へと連れて行った。


去りゆく少女の、賑やかで騒がしい背中をすだれの向こうに見送りながら、劉憲は、これでまた襄陽の学舎が混沌とした賑やかさになるな、と、押し寄せる過酷な激務の書類の山の中で、わずかな心の安らぎと、温かい灯火のようなものを覚えるのだった。

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