200年 白馬の戦い
興平七年初夏。まだ夏浅いとはいえ、洛陽の広大な盆地に降り注ぐ陽光はすでに肌を刺すような刺々しい熱を帯び、むせ返るような湿気が真新しい土壁の匂いとともに空気を重く淀ませていた。
白馬の地で凄まじい火花を散らして激突した曹操と袁紹。天下を二分するその巨大な大戦の余波は、ようやく復興の槌音が響き始めていたこの洛陽をも、別の意味で凄惨な「戦場」へと変えさせていたのである。
呂布の手により焼け落ち、修復急造された城門へとひっきりなしに押し寄せるのは、刃を持たぬ大軍であった。
戦火の恐怖に顔を歪め、着の身着のまま逃れてきた膨大な数の流民たち、そして、書物の束だけを後生大事に抱えて行き場を失った豫州や冀州の旧弊な文化人や知識人たちが、乾いた土埃を巻き上げながら濁流のように流れ込んでくる。
無数の群衆から発せられる汗と泥、そして長旅の絶望が入り混じった酸えた臭気が、熱風に乗って仮庁舎の周囲を息苦しいほどに覆い尽くそうとしていた。
「孝子、 流民を武陵の屯田兵として送るための護衛兵と、最初の兵糧の用意がようやく整いました」
バタン、と仮庁舎の重い松材の扉が乱暴に押し開けられ、李厳が顔中から玉のような汗を吹き出しながら飛び込んできた。被っていた冠は斜めに傾き、上等なはずの絹の袍は土ぼこりと汗で体にべったりとへばりついている。
「おお、すまない正方。お前も汗まみれだな。そこの水差しから冷たい井戸水でも飲んで、まずは息を整えろ。
……それで、彼らの新たな戸籍の作成はどうなっている? 混乱に乗じて家族を離れ離れにしないよう、細心の注意を払ってくれよ」
「無論です。そこは抜かりなく。ただ、あまりの数に竹簡を削る小刀の刃がすぐに鈍ってしまい、文官たちが指先を血だらけにしながら作業しておりますが……。
それから、并州の豪族たちからも『開墾の人手が圧倒的に足りぬ』と悲鳴のような書簡が山ほど届いております。あちらの冷涼な気候にも耐えられそうな屈強な者を見繕い、開墾地へ一部の民を振り分けて送る手配も同時に進めております」
李厳が喉を大きく鳴らして生温かい水を飲み干す横で、室内では数え切れないほどの文官たちが、膠と煤の混じった濃厚な墨の匂いを漂わせながら、無数の木簡を抱えて小走りに駆け回っている。
床板がミシミシと軋む音に混じり、すだれ越しの窓の外からは、大量の人を各地へ移送するための荷車が車輪を軋ませる音や、興奮した馬のいななき、さらには腹を空かせた赤子の泣き声が、陽炎の向こうから絶え間なく聞こえてきていた。
劉憲は、手元に山積みにされた木簡の一束を、深い溜息とともに卓の端へ追いやった。指先は乾いた墨で黒く染まり、竹のささくれが皮膚をこすった微かな痛みが走る。ふと視線を上げると、傍らに控えていた文聘が、憤懣を隠しきれない様子で奥歯をギリギリと噛み締めているのが目に入った。
武人の太い腕が固く交差され、強く握りしめられた拳は関節が白く浮き立ち、分厚い革鎧がギリと音を立てている。やがて、我慢の限界を超えたように、文聘の野太い激昂の声が部屋の空気を震わせた。
「それにしても、あの劉備め! 一体何を考えているのだ。曹操の誅殺を大義名分として徐州で軍を起こし、手薄になった背後を突く……というところまでは、兵法として理解できなくもない。
しかし、蓋を開けてみればその中身が、許県周辺の無抵抗な村々を略奪し、野盗のように荒らし回るだけとは何事か! なぜ漢室復興や『義』などという高尚な旗を掲げる者が、曹操の正規軍とは戦わず、無防備に震える民ばかりを獣のように狙うのだ!」
怒りで真っ赤に血走った文聘の目を真っ向から受け止めながら、劉憲は疲れの滲む顔に、どこか冷め切った苦笑を浮かべた。中原を騒がせるあの男の、美しく語られる理想と、血にまみれた現実のどうしようもない乖離。
「……まったくだ。その略奪のせいで家を焼かれた者たちまでこちらに逃げてきて、我らの忙しさにさらなる拍車がかかったのは否めんがね。飯の味もわからなくなるほどの喧騒だ。
だが、仲業、ここで遠くの不義をなじり愚痴をこぼしても始まらないのだよ。この前代未聞の大流入をここ洛陽で捌ききれなければ、食うに困った何万という流民たちは、明日にはたちまち暴徒や賊と化して、この復興の地を再び荒野に変えるだろう。
今、安寧に暮らしている荊州の民のため、そして、これから我らの民になる者たちのために、ここで足を止めるわけにはいかないのだ。
……それにしても、士元殿。出仕していただいた最初の仕事が、いきなりこのような過酷な政務となってしまい、本当に済まないな。従者に肩など揉ませようか」
劉憲が申し訳なさそうに視線を向けると、部屋の隅の簡素な机で、相変わらず風采の上がらない、しかしその奥深い双眸に無類の智慧の光を宿した男、龐統が墨で黒く汚れた大きな袖で額の汗を無造作に拭った。
「なあに、お気になさりませんよう。洛陽のすぐ東の目と鼻の先で、あれほど派手な天下の馬鹿騒ぎが起きているのです。こうして泥を被り巻き込まれるのは、ここに来た時から覚悟の上。仕方がありませんな。
それよりも州牧様、目の下に酷い隈ができておりますぞ。少しは奥の寝台で横になってお休みくだされ。過労で倒れでもしたら、またあの吉本殿が血相を変えて飛んできて、どこの沼の底から掬い上げてきたのかと思うほど飛び上がるほど不味い薬湯を、無理やり喉の奥へ流し込まれる羽目になりますぞ」
吉本が事あるごとに「為政者の不養生は万死に値する」と称して差し出してくる、あの禍々しく黒ずんだ液体のことだ。焦げた泥と苦草を煮詰めたような強烈な匂いと、三日は舌の根が痺れて使い物にならなくなるほどの絶望的な苦味。それを思い出しただけで、劉憲は条件反射のように盛大に眉を顰め、胃の腑がヒクリと痙攣するのを感じた。
「……ご免被る。確かに、それだけは勘弁してもらいたいな。ああ、早くこの狂乱を片付けて襄陽の屋敷に戻り、昭姫が淹れてくれる上品な茶をゆっくりと飲みながら、息子の文伯の顔が見たいものだ」
劉憲の脳裏に、ほこりっぽい洛陽の空気の向こう側、遠く離れた襄陽の穏やかな景色がふわりと浮かび上がった。愛する妻・昭姫が静かに奏でる琴の涼やかな音色と、彼女の絹の衣から漂うほのかな蘭の香り。そして、まだ幼く柔らかい我が子の、泥だらけになって笑う愛らしい姿。
最後に襄陽を発つとき、息子は確か、学舎の庭先で諸葛亮の衣の裾を引っ張り、大柄な沙摩柯の広い背中によじ登ろうとして、年の離れた実の兄たちを慕うようにちょこまかと追い回していたはずだった。あの屈託のない笑い声が、今の劉憲にとって何よりの特効薬に思えた。
あの温かな日常の匂いを守るためなら、この果てしない激務の山など、何度でも、いくらでも越えてみせる。
「孝子、 手が止まっていますよ、手が。 郷愁に浸るのは夜になすってください。はい、次の書簡の山、来ますよ」
温かい記憶に浸る間もなく、李厳の容赦のない悲鳴のような催促が耳をつんざき、新たな竹簡の分厚い束が劉憲の机の上にドスンと重い音を立てて置かれた。舞い上がった埃が、すだれの隙間から差し込む西日にきらきらと光る。
天子が崩御し、あれほど諸侯が血眼になって求めた玉璽の権威すら形骸化していく、底なしの混沌の時代。洛陽という名のもう一つの戦場で、劉憲は目の前の無数の民の命を明日へ繋ぎ止めるため、痛む指先で再び冷たい竹の筆を固く握り直すのだった。
史実メモ: 袁紹は大軍を率いて南下し、配下の名将・顔良に白馬城を包囲させる。曹操軍は陽動と客将の関羽により、顔良本隊を狙う。




