199年 伝国の玉璽02
洛陽の庁舎の一室は、急ごしらえの荒削りな土壁の匂いと、柱に使われた真新しい松材の青臭さが入り混じる中、外の肌を焼くような酷暑を忘れさせるほどの、重く息苦しい緊迫感に包まれていた。すだれ越しに差し込む鋭い夏の日差しが、空気中に舞う微小な塵を白く浮かび上がらせ、床板に濃い影を落としている。倒れた徐璆が青ざめた顔で別室へと運ばれ、吉本の治療に委ねられた後、曹操による玉璽奪取という激震を巡って、即座に幕僚たちの合議が開かれたのである。
「吉本先生によれば、幸いにも命に別状はないとのことですが……おいたわしい限りです」
蒯良が、手元の葛布の切れ端で額に滲んだ汗を拭いながら静かに呟いた。
「ええ。ですが、徐璆様があの老体で寿春からここ洛陽まで辿り着いたこと自体が、もはや奇跡に近い。
道中どれほど野草をかじり、恐ろしい目にあってきたことか。少しでも早く滋養のつくものを口にしていただきたいものです」
司馬朗が、卓の上に置かれた陶器の水差しから冷たい井戸水を自身の杯に注ぎながら応じる。水滴が杯の表面に結露し、室内の蒸し暑さを物語るようにゆっくりと流れ落ちていった。
だが、そんな沈鬱な空気を引き裂くように、蒯越と、若き司馬懿が声を大にして主戦論をぶち上げた。
「感傷に浸っている場合ではありません。曹操の拠る許郡は、ここ洛陽から目と鼻の先。風に乗れば向こうの軍馬のいななきが聞こえるほどの距離です。
奴は今、北方の公孫瓚をついに滅ぼして河北を完全にまとめ上げたあの袁紹と、黄河を挟んで一触即発のヒリヒリとした睨み合いを続けております。
さらに南へ目を向ければ、呉の深い森や長江の霧の中には、血気盛んな孫策も鋭い牙を隠して潜んでいる。こちらに兵を分散させるような余裕など、今の曹操には微塵もありません」
蒯越が卓をドンと叩くと、司馬懿がそれに呼応するように身を乗り出した。彼の細い目には、野心と焦燥が暗い炎のように燃え上がっている。
「まさに好機です。袁紹と密かに書簡を交わして結び、曹操が北に気を取られている隙を突いて背後から許郡を急襲するのです。
そして玉璽を奪い返し、ついでに曹操の息の根を止めましょう。今を逃せば、奴はあの玉璽を盾に必ずや厄介な動きに出ます!」
その好戦的で血気にはやる二人の意見に対し、蒯良と一室で議論に加わっていた落ち着いた司馬懿の兄である司馬朗が、一つ咳払いをして静かに、しかし断固たる響きで異論を唱えた。
「いや、待たれよ。焦りは目を曇らせる。亡き献帝を謀殺したのが他ならぬ曹操であるとの黒い噂が、袁紹の陣営からまことしやかに流れて以降、天下の名士たちの曹操に対する評価は根底から大きく揺らいでいるのだ。
その上で、何の大義名分もなく王公や天子を僭称したり、新たな天子を任命するような真似を奴がすれば、それこそあの愚かな袁術の二の舞だ。
我らが無駄な血を流さずとも、周囲の反発を招き自滅する。ここは刃を隠し、放置が上策かと」
「悠長なことを、 放置すれば、奴はその玉璽を使って偽りの勅を乱発し、我らを朝敵に仕立て上げる口実をいくらでも作れるのですよ!」
攻めるべきか、待つべきか。相反する正論と正論が火花を散らしてぶつかり合い、部屋の空気が限界まで張り詰める。外の木立で鳴く蝉のけたたましい声だけが、重苦しい沈黙の間を縫うように響いていた。
その時、上座に座る劉憲が、冷たい井戸水の入った杯をゆっくりと口元から離し、不意に薄く笑った。
「……仮に、許郡を落とし、あの曹操を首尾よく討ち取ったとしよう。だが、その次に来るのは何だ? さらに強大な軍勢を擁し、河北を制圧してますます肥え太った袁紹との、終わりなき泥沼の争いだ。
亡き陛下も、たった一つの古い石の印璽を巡って、これ以上漢の将兵や罪なき民の血が黄河の流れを染め上げることなど、決して望みはされまい」
「ならば、 曹操があの玉璽を恭しく掲げ、偽りの権威で天下の諸侯に号するのを、我らはただここで冷水をすすりながら指をくわえて見ていろと言うのですか!?」
劉憲の弱気とも取れる発言に、司馬懿が顔を真っ赤にして色をなして激する。その口調には、明らかに主君に対する苛立ちが隠しきれずに混じっていた。
「いや、黙って見ているつもりはないよ、仲達。そんなことはしない」
劉憲は穏やかに、しかしその双眸の奥底に、凍てつくような妖しい光を宿して言った。
「玉璽を、多くの血を流して力で奪い返す必要などない。
……ただ、その『権威』そのものを根底から叩き壊してしまえばいいのだ。かつてあの董卓は、自らの銭不足を補うために、銅に鉛や鉄を混ぜた小さく粗悪な悪貨を大量に鋳造し、市中にばら撒いた。
結果として何が起きたか。 貨幣自体の価値が屑同然に貶められ、誰も銭など信用しなくなった。……あれと全く同じことをする」
その言葉の真意を皆が測りかね、息を呑む。一瞬、部屋に冷たい静寂が降りた。
その時、部屋の薄暗い隅、書棚の陰で柱に寄りかかり、影のように静かに議論を聞いていた男、郭嘉が、上質な絹の衣服の擦れる音をさせてゆっくりと一歩前へ出ると、ひどく満足げな、そして邪悪な笑みを浮かべて口を開いた。
「いやはや、実に見事なお考えです、劉州牧。背筋がゾクゾクいたしましたよ。
……早速、私の手駒の中から腕利きの玉細工の職人を集めて、本物と見紛うばかりの精巧な玉璽を、そうですね、手始めに十個ほど作らせましょう。石材の調達は私に任せていただきたい。
そして『洛陽の瓦礫をどかし復興している最中、古き井戸の底から七色の気が立ち上り、真の玉璽が発見された』などと適当な因縁を称して、流民や商人に扮した細作どもで天下の各地、それぞれの群雄のもとへ同時にばら撒きましょう。
『天子に最もふさわしいあなた様にお持ちしました』と、彼らが一番喜ぶ美辞麗句をたっぷりと添えて。」
郭嘉は楽しげに肩を揺らし、劉憲に向かって芝居がかった手つきで深く一礼した。
「たった一つしかないからこそ天下の宝であり、至高の権威なのです。
それが、各地の太守や州牧らが『我こそが真の玉璽を持つ者』と当然のように持っていれば、それはもはや、ただの重くて冷たい珍奇な石ころへと成り下がる。
曹操がどれほど『本物』がこれであると主張しようとも、その絶対的な価値も、たちまち朝露のように霧散するというわけですな」
劉憲の浮かべた底知れぬ薄い笑みに、郭嘉が極上の礼と歪んだ歓喜で応える。二人の悪魔のような符牒が完全に一致し、部屋の温度が数度下がったかのように感じられた瞬間だった。
「……なんという、底意地の悪い」
計略の全貌を完全に理解した司馬懿が、顔からスッと血の気を引き、驚愕ののち、今度は畏怖に身震いするような声を上げた。
「力で奪い返すのではなく、その存在そのものを無価値にしてしまうなど……。玉璽には、高祖から連綿と続いてきた漢の歴史と血の重みがあるのだぞ!
それを、その辺の石くれにしようなどと、これぞ天下を根底から欺く、『邪智』の極みにして……」
「仲達、貴様という奴はまたしても口が過ぎるぞ!」
言い終わるよりも早く、司馬朗の怒りで固く握りしめられた拳が、風を切る音を立てて弟の脳天へと容赦なく振り下ろされた。ゴツン、という鈍い音が真新しい松材の室内に反響し、司馬懿は痛みに情けない声を上げて頭を押さえ、その場にうずくまる。
「兄上、また叩いたな。 私が何を間違ったことを言った、州牧の計略は確かに邪智であろうが!」
「黙らんか。古き殻を破り、無駄な血を流さずに世を治めるための見事な方策を、邪智などと呼ぶな!」
汗ばむような重苦しい緊迫感に包まれていた合議は、いつしか劉憲と郭嘉の恐るべき謀略の決定と、埃を舞い上げながら言い争う司馬兄弟のいつもの騒がしさの中に包まれていった。
洛陽の空高くでは相変わらず太陽が容赦なく照りつけていたが、曹操が血眼になって手にした「天下の象徴」は、間もなく、ただの滑稽で無価値な玩具へと変えられようとしていた。




