199年 伝国の玉璽01
興平六年七月。盛夏の焼け付くような強い陽光が、輪郭を白く飛ばすほどに降り注ぎ、復興著しい洛陽の街並みをじりじりと焦がしていた。
路傍に避けられた石垣や砕けた瑠璃瓦が熱を溜め込み、足元から立ち上る陽炎が景色をゆらゆらと歪ませている。むせ返るような青草の匂いと、長年の風雨に晒された古い土の乾いた匂いが、重くまとわりつく湿気とともに鼻腔を突いた。
「州牧。あまり長く日なたに立たれては、体に障ります。この水もすっかり生ぬるくなってしまいましたが、少し喉を潤してください」
背後に控えていた司馬懿が、汗を拭いながら竹筒を差し出した。
「ああ、すまない。それにしても今年の夏は堪えるな。立っているだけで、足の裏から火のような熱が伝わってくるようだ」
劉憲は受け取った水に口をつけ、土の匂いが混じった微温湯をゆっくりと喉に流し込んだ。
「復興にあたる民や屯田兵たちには、こまめに塩を舐めさせ、梅の汁を混ぜた水を配らせています。それでも、午後のこの熱気では倒れる者が後を絶ちません」
「そうか……。かつての洛陽は、あちこちに豊かな水路が巡らされていて、夏でももう少し涼やかな風が吹き抜けていたと聞いているのだがな。
瓦礫をどかし、道を均すだけでも骨が折れるというのに、皆には苦労をかける」
「皆、あなたの命ならばと泥にまみれて槌を振るっていますね。ほら、あちらからも……」
司馬懿の言葉の通り、陽炎の向こうからは、掛け声とともに重い石を運ぶ者たちの確かな復興の槌音が、規則正しく響いてきていた。
劉憲は空になった竹筒を返し、草むした歴代皇族の霊廟の前に再び向き直った。
黒ずんだ石段には苔がへばりつき、かつて朱く塗られていたであろう柱も、今やすっかり色褪せてひび割れている。
劉憲は静かに目を閉じ、戦火に焼かれ、一度は無惨に打ち捨てられたこの都の魂を鎮めるように、深く長い祈りを捧げていた。
そこへ、ざっ、ざっ、と乾いた土を踏みしめる重い足音が近づいてきた。
護衛の兵たちが警戒して柄に手をかける音を聞き、劉憲がゆっくりと振り返ると、一人の老人が、供も連れずに疲れ果てた足取りでこちらへ向かってくるのが見えた。
すり切れて元の色もわからないほど薄汚れた直衣を身にまとい、乱れた白髪には大量の土埃が絡みついている。しかし、幾重にも刻まれた深い皺の奥にあるその澄んだ眼差しに、劉憲は見覚えがあった。
「劉州牧……。懐かしいな、息災であったか」
ひび割れた唇から紡がれた声は、長旅の渇きでしゃがれていたが、確かな芯があった。
「これは、徐璆様……」
劉憲は目を見張り、被っていた日除けの笠が地に落ちるのも構わず、すぐさま駆け寄った。
むわっと漂う汗と泥の匂い、そして血と膿の混じったような過酷な旅の臭気が鼻を突いたが、劉憲は少しもためらうことなく、熱を帯びた石畳の上に膝をつき、その場で深々と頭を下げた。
「かつて湖陽の地の、何も持たぬ若輩の私を支え、引き立ててくださった恩義……。
この劉孝子、片時たりとも忘れたことはございません。ご無事で何よりです」
額が地面の熱い石に届かんばかりに腰を折る主君の姿に、付き従っていた司馬懿や周囲の兵たちが驚きに息を呑み、色めき立つ。
しかし、徐璆はひどく日焼けした顔に自嘲気味な笑みを浮かべ、土に汚れた枯れ枝のような手で劉憲の肩を優しく制した。
薄い直衣越しに伝わってくるその手のひらは、骨ばってひどく冷たかった。
「よしなさい。もはや漢の官職など名ばかりの世だ。
私こそ、今や貴殿の門前に自分の馬を繋ぎ、拝謁を乞わねばならぬほど落ちぶれた身。
……州牧を名乗ってはいるが、実質的に荊州、司隷、交州の三州を治め、公と民に広く仰がれる者が、私のような無力な老いぼれに軽々しく頭を下げてはならん」
徐璆の言葉は、為政者としての威厳と振る舞いを諭す厳しい苦言ではあった。
しかし、その震える声音の端々には、かつて見込んだ不安定な青年が、今や嵐にも揺るがない立派な一国を背負う巨木へと成長したことへの、深い親愛と歓喜の涙が滲んでいた。
「さあ、頭を上げられよ。立派になったな、劉憲殿」
「徐璆様……」
立ち上がった劉憲の顔を見て幾度か頷いた後、徐璆はすぐにその表情を暗く曇らせた。周囲のうだるような熱気すら冷え込ませるような、重く沈鬱な空気を纏う。
「劉州牧。再会を喜んでおきながら唐突で申し訳ないが、実は、貴殿に深く謝らねばならぬことがあるのだ」
「謝るとは……徐璆様が、私にですか。 いったい何事です。道中、何かわが領で不手際でもありましたか」
「いや、ここまでの道を教えてくれた貴殿の配下は皆よくやってくれている。
そうではないのだ。私はこれまで、天子を僭称したあの狂気の逆賊、袁術のもとに捕らえられ、軟禁状態で留め置かれていた。
……そして、つい先日、奴の醜悪極まりない死によって、ようやくあの腐臭漂う寿春の地から解き放たれたのだ」
「なんと、袁術が死んだのですか!」
劉憲は思わず大きな声を上げた。蝉の鳴き声が一瞬、その声にかき消される。
数年前、袁術の動向を警戒して廬江の防備を固めるよう手配したばかりだったが、事態は想定していた以上に急速に、そして破滅的に動いていたのだ。
「そうだ。袁術は天子を僭称して以降、まるで何かに取り憑かれたように目を覆うほどの享楽に耽り、後宮には贅を尽くした一方で、外の民をひどく飢えさせ、政のすべてを一切顧みなかった。
かつて黄金色に輝くほど豊かだった寿春の地は瞬く間に荒れ果て、道端には餓死者の骨が転がり、野犬がそれを奪い合う有様だった。
当然、民心も、そして忠実だったはずの家臣の心も完全に奴から離れていったのだ。
やがて城内の食糧すら底を突き、曹操からの凄まじい軍事的圧力に耐えかねた奴は、とうとう誇り高き四世三公の袁氏の血統すら捨て去り、北で覇を唱える袁紹に帝位を譲って縋ろうとした」
徐璆はそこで言葉を切り、苦々しいものを吐き出すように咳き込んだ。
「……だが、その北上する逃避行の道中、付き従う者も次々と逃げ出し、あまりの惨めさと耐え難い飢え、そして絶望から、奴は寝台の上で激しく黒い血を吐き……そのまま、誰に看取られることもなく野垂れ死んだらしい。
蜂蜜水が飲みたいと、最期までうわ言のように繰り返しながらな」
徐璆の語る、あまりにも生々しい袁術の末路に、劉憲の表情は呆れと、拭い去れない哀れみに染まった。
名族の誇りと虚栄心に狂わされ、実も名もない砂でできた玉座にしがみついた男の、あまりにも呆気なく、そして惨たらしい幕引きだった。
「袁術が死に、周囲の残党が次への身の振り方を巡って混乱に陥った隙を突いて、私は動いた」
徐璆の声が、急に激しい怒りと悔しさを帯びて震え始める。その目が血走った。
「奴が死ぬまで後生大事に抱え込んでいた『玉璽』を、この手で奪い取ったのだ。
それを粗末な布に包んで懐深く隠し、夜陰に紛れて無我夢中で洛陽を目指し馬を走らせた。
天子の霊廟という、本来あるべき元の清らかな場所へ返し、二度とあのような不届きな野心家どもに利用させぬために」
徐璆の枯れた両拳が、骨の関節が白く浮き出るほど固く、激しく握りしめられた。
激しい悔恨と自責の念からか、伸びた爪が手のひらの肉に深く食い込み、その隙間から赤黒い血の雫が滲み出す。
ぽたり、ぽたりと、乾き切った洛陽の土の上に重い音を立てて滴り落ち、丸い染みを作っていった。
「……しかし、私は……私はこの期に及んでしくじったのだ。
途中で、曹操の軍に捕らえられ、懐の玉璽を奪われてしまった。我が身の不甲斐なさが、老いた無力なこの体が呪わしい……。
あの底知れぬ奸雄が、袁術の如く再び帝位を僭称し、あるいは名ばかりの傀儡の新たな天子を擁立し、その玉璽と強大な武威を以て天下に号するようなことになれば、漢室の命脈は、今度こそ完全に破滅する。
それだけは……それだけは耐え難いのだ。 すまない、劉州牧……」
血を吐くような悲痛な叫びを上げた徐璆は、積年の疲労と、限界まで張り詰めていた精神的な心労が限界に達したのだろう。
ふっと視線を泳がせ、白目を剥いたかと思うと、そのまま操り糸が切れた古い木人形のように、ふらりと前へ倒れ込んだ。
「徐璆様!」
劉憲は咄嗟に腕を伸ばし、その羽のように軽い体を抱き留めた。老人の肌からはひどい熱が放たれ、浅く荒い呼吸が劉憲の首筋にかかる。
劉憲は背後の兵たちに向かって鋭く叫んだ。
「早く、医師の吉本先生をお呼びしろ。 至急だ、冷えた井戸水も持ってこい」
兵たちが弾かれたように走り出す。老人の痩せ細り、骨と皮だけになった体をしっかりと抱きかかえながら、劉憲は徐璆が自らの血を流してまで守ろうとした「玉璽」の恐ろしいほどの重み、そして、それを手に入れた曹操という男の巨大な影を、焼け付くような洛陽の青空の向こうに幻視し、じっと見据えていた。
空気が焦げるような静寂の中、天下の天秤が、再び大きく、そして致命的な音を立てて傾こうとしていた。
史実メモ:皇帝として生活は豪奢を極めた袁術だったが、士卒以下はみな貧しさに飢え、袁術自身も困窮。袁紹に皇帝位を譲ろうと北上するも、劉備に阻まれ、そのまま病没。




