198年 治世の凡雄
興平五年冬。吹きすさぶ北風が河内の広大な大地を無機質な白に染め上げ、微小な氷の粒が枯れ木を叩く音が絶え間なく響いていた。
今年も重苦しい冬が暮れようとする頃、并州の豪族たちとの熱を帯びた対談を終え、本拠たる荊州の執務室へと帰還していた劉憲のもとに、天下の趨勢を大きく揺るがす一報が舞い込んだ。
「州牧様。少しお疲れのようにお見受けします。今朝方も酷く咳き込んでおられましたから、厨房に命じて生姜と陳皮を利かせた白湯を淹れさせました。喉を潤してください」
傍らに控えていた従者が、盆の上でかすかに湯気を立てる朱塗りの椀を差し出す。
「ああ、すまない。洛陽の底冷えが、まだ骨の髄にへばりついて離れないようでな。それにしても、あちらの乾き切った風に比べると、荊州の冬は水辺が近いせいか空気がねっとりと湿っていて、外套が妙に重く感じる」
劉憲は差し出された椀を両手で包み込むように持ち、じんわりと伝わる熱に細く息をついた。ふわりと鼻腔をくすぐる生姜の鮮烈な香りと、部屋の隅で燻る青銅の香炉から立ち上る沈香の重い匂いが混じり合い、室内に微かな温もりを与えていた。
しかし、卓の上に広げられた一巻きの竹簡が、その温もりを瞬時に冷めさせる。劉憲は椀を置き、燻された竹の乾いた匂いと膠の焦げたような墨の匂いが染み付いた木簡を指の腹でなぞりながら、深く、澱んだため息を吐き出した。
「……ついに、呂布が曹操に討たれたか」
報告によれば、あの比類なき猛将の首は、雪にまみれた下邳の城門に高く懸けられたという。凍てつく風に揺れる虚ろな目元と、血糊が黒くこびりついたその様を想像し、劉憲はわずかに眉根を寄せた。
それは、かつて全土を恐怖のどん底に陥れた董卓の血生臭い残り香がいよいよ完全に消え去り、兗州、青州、徐州、そして豫州の大部分が、曹操という男の手の内に完全に落ちたことを意味していた。
劉憲は立ち上がり、窓際に掛けられた古い絹布の地図に目を向けた。表面の粗い繊維が、鈍い冬の光を吸い込んでいる。
黄河を挟んで北の冀州では、袁紹が分厚い氷を割るように公孫瓚への攻勢をさらに強めつつ、覇を競うように曹操とヒリヒリとした殺気を交えてにらみ合っている。
目を南へ転じれば、豊かな長江の湿潤な風が吹く呉と丹陽を席巻した孫策が、小勢力ながらも若く鋭い爪を静かに研ぎ、分厚い霧の中で隙をうかがって息を潜めていた。
天下が刃を剥き出しにした激動の渦中にある中、劉憲の足元である荊州はおおむね何事もなく、柔らかな陽射しが土壁を温める穏やかな冬を迎えているはずだった。
……しかし、どれほど堅固に閉ざそうとも、平穏な地には外から奇妙な火種が持ち込まれるものである。
重厚な木材を組んだ執務室の扉が軋み音を立てて開き、外の凍てつく空気が白い刃のように暖気を切り裂いて入り込んできた。長沙太守の張羨が、定期報告のついでにと、何やら「厄介な土産」を連れて劉憲の前に姿を現したのだ。
「張太守、長沙からの長旅、ご苦労だった。ここ数日は霜が降りるほど冷えただろう。道中、風邪など引かなかったか?」
劉憲が労いの言葉をかけると、革鎧を軋ませて平伏した張羨は、白髪の混じった髭をさすりながら苦笑した。
「お気遣い痛み入ります。幸い雪には降られませんでしたが、寄る年波か、馬の鞍に長く揺られるとどうも腰の関節がこわばりましてな。
若い頃は三日三晩馬を飛ばしても、一晩寝ればけろりとしていたものですが」
「無理はするな。吉本殿から預かっている、血の巡りを良くする薬草の膏薬がある。後で誰かに届けさせよう。
……それで、その後ろで転がっている奇妙な荷物はなんだ」
劉憲の視線の先には、全身を太く粗い麻縄で簀巻きのように厳重に縛り上げられた一人の男がいた。
麻の硬い繊維が皮膚に食い込み、手首のあたりは赤黒く鬱血している。男は床に敷かれた布の埃にまみれ、獣のようにくぐもった唸り声を上げていた。名を、桓階という。
「劉憲様。この者はかつて尚書を務めた身ですが、先日から急に長沙の街頭で『曹操こそが古き漢を打ち倒し、新たな朝廷を作るべき真の英傑である!』などと大声を張り上げ、民を扇動し始めまして……。
やれ新しい時代だの、古い劉氏の血は切り捨てろだのと、唾を飛ばしてわめき散らしたのです」
劉憲は、身動きも取れずに床を芋虫のように這いずろうとしている男を見下ろし、呆れたような苦笑を浮かべた。
「……随分と手荒く縛られているようだが?腕の血が止まっているようだ」
「はっ。最初は役人もたしなめる程度にしていたのですが、あまりにもしつこくわめくものですからな。
放置すれば『せっかくの平和な長沙を、戦渦に巻き込む気か!』と激怒した民衆に囲まれ、あわや鍬や棒切れで寄ってたかって殴り殺されそうになりましてな。
やむなく兵士に捕らえさせ、命を保護する意味も含めてこうして固く縛り上げた次第にございます」
それを聞いた劉憲は、なんとも複雑な表情を浮かべた。
自らが心血を注いで築き上げた治世の足元で、このような騒ぎを起こし、不満を抱く者が現れたという自分の至らなさに、胸の奥に冷たい石を落とされたようにわずかに落ち込む。
だがその一方で、狂信的な眼差しで奸雄を英雄と称える男の狂言に一切惑わされず、今の平和を何よりも重んじて相手にしなかった荊州の民衆の賢明さを、ひどく誇らしくも思う。
割り切れない二つの感情が、温かい生姜湯の匂いの中で静かに去来した。
「息が詰まって死んでしまっては元も子もない。桓階の口縄を解いてやろう。少し、彼の話を聞いてみたいものだ」
劉憲が顎でしゃくると、張羨の後ろに控えていた兵士が進み出て、乱暴に結び目を引き解いた。布が外れた途端、涎と汗の混じったすえきった匂いがふわりと広がる。
桓階は待ってましたとばかりに、割れて血の滲んだ唇を震わせ、堰を切ったように怒鳴り散らした。
「ええい、放せ。己の保身にしか興味のない臆病者どもめ。お前のような凡愚な男が劉氏をかさに着て上にいるから、世が腐るのだ。
この、皇帝陛下を謀殺した悪逆の徒め。貴様のような古き時代にしがみつく弊害の塊が、曹孟徳様の偉大なる覇道を邪魔しているのだ」
口から飛び散る微小な唾液の飛沫が、窓から差し込む冬の光に乱反射する。そのヒステリックな声は、高い天井の太い梁にまでビリビリと響き渡るほど激しかった。
劉憲は騒がず、遮らず、怒りに血走ったその目を見据えながら、罵詈雑言の嵐を最後まで静かに受け止めた。
やがて桓階が息継ぎのために口をつぐんだ瞬間を見計らい、凍った湖面のように淡々とした口調で問いかけた。
「喉が渇くだろう。……ならば聞くが、そなたの言う通り曹操が全土を統一したとして、その後はいったいどうなるのか?」
「何……?」
想定外の静かな問いに、桓階の怒鳴り声が空振ったように止まった。
「新しい時代が始まる、旧弊を打破する。そう言葉にすれば確かに聞こえはいい。だが、あの者は絶大な武力と恐怖による統一はできても、その後の治世の維持は苛烈を極めるだろうな。
曹操の意に沿わない者は、どれほど才があろうと容赦なく誅殺される。
ひとたび反乱の芽が起きれば、かつてかの者が徐州で行ったように、泗水の流れが屍でせき止められるほど、罪なき民ごと撫で斬りにされ虐殺される。
それを『新たな秩序』と呼び、底知れぬ恐怖支配のうえに国が作られるのだ」
劉憲は衣擦れの音をさせて立ち上がり、床板を軋ませて一歩、桓階に歩み寄る。見下ろす瞳には、憐れみとも冷酷ともつかない暗い光が宿っていた。
「よく考えよ。そなたが今、長沙の陽だまりの中で好きなように思想を抱き、その危険な思想を大声で他人にばら撒いて、なおこうして五体満足で生きて私を罵っていられるのは、そこが他でもない荊州だったからだ。
もし、そなたが敬愛する曹操の膝元、許郡の広場でこれと全く同じように『現在の支配者を排し、別の者を立てよ』などと大言壮語を叫んだならば、いったいどうなっていたか。
間違いなく、そなただけでなく、何も知らない老いた親から赤子に至るまで一族郎党すべてが市中を引き回され、首と胴を無惨に切り離されていただろう。
そなたの理想とする英傑は、そういう男だ」
それは、ただの脅しではない。確固たる事実の重みを含んだ、氷の刃のような言葉だった。さっきまで顔を真っ赤にして青筋を立て、罵声を浴びせていた桓階の顔から、急速に血の気が失せてゆく。
蠟のように青ざめた唇が小刻みに震え、何かを言い返そうと開かれた口からは、ヒューという乾いた空気が漏れるだけで、反論の言葉は完全に喉の奥に詰まってしまった。
劉憲はそれ以上追及することなく、身を翻すと、張羨に向かって穏やかな声で告げた。
「この者を、念願の曹操のもとへ丁重に送ってやろう。
実際にかの男の器と、その血塗られた治世がどのような匂いをしているか、自身の目で見てくるとよい。あの者は出自や腹の奥に抱える思想を問わず、利用できる才覚ある者を好むと聞く。
もしこの者が運よく曹操に気に入られて仕えることができたなら、長沙に残しているこの者の家族も、兗州にでも呼び寄せるといいだろう。
私は、思想を理由に誰かの罪なき家族にまで手を出すような野蛮な真似は絶対にしないから、安心するといい」
そう告げられると、桓階はもはや一言も発することができず、ただ目から光を失いがっくりと項垂れたまま、無言で両脇を兵士たちに抱え上げられ、ずるずると足を引きずりながら部屋を去っていった。
扉が閉まり、再び訪れた静寂の中、張羨がポツリと呟いた。
「……よろしかったのですか?あの者を曹操に送ればどうなるかなど、わかったものではありませんが」
「自分で選んだ道だ。私にはどうすることもできんよ。
……さて、すっかり白湯が冷めてしまったな。淹れ直してもらおうか」
その後、桓階は劉憲の言葉通り、無事に兗州の曹操のもとへと送り届けられたようである。
しかし、彼が実際に曹操という男の凄惨な覇道を目の当たりにして何を思い、動乱の中でどのような末路をたどったのか、その先の顛末を詳しく知る者は、温暖な荊州の地には誰もいなかった。
史実メモ:長沙太守の張羨が零陵及び桂陽を挙げ、劉表に反乱を起こし、劉表はこれを包囲するが鎮圧できず。




