198年 南匈奴の呼廚泉
興平五年、春。暦の上ではすでに春が告げられているというのに、雁門郡陰館県の空は重く垂れ込め、肌を刺すような激しく冷たい風が、乾いた黄土を巻き上げながら土壁に絶え間なく打ち付けていた。
河内から并州の豪族を次々と取り込み、着実に交易路を北へと伸ばしてきた劉憲は、窓の隙間から入り込む微細な砂埃に目を細めながら、重厚な木造りの一室で、南匈奴の単于である呼廚泉と静かに対峙していた。
部屋の中央に置かれた青銅の火鉢では、粗末な木炭が赤黒く明滅し、苦味を帯びた煙の匂いが微かに漂っている。呼廚泉の纏う分厚い羊の毛皮からは、獣特有の強い脂の匂いと、長旅で染みついた古い乳の酸っぱい香りが立ち上り、部屋の冷え切った空気と混じり合って独特の重苦しさを醸し出していた。
「それにしても、并州の風は骨身に染みるな。長安や襄陽の湿った暖かさが、時折無性に恋しくなる。
単于殿は、このような凍てつく風の中で、よくもまあ顔がひび割れないものだ」
劉憲が、火鉢の上で湯気を立てている酒の銚子に視線を落としながらぽつりと感嘆をこぼすと、呼廚泉は毛むくじゃらの大きな手で自身の顎を無造作に撫でた。
「ふん、漢の地の寒風など、我らからすれば春のそよ風に等しい。大草原の冬の夜は、吐く息が瞬時に凍りついて地に落ちるほどだぞ。
劉州牧は、少しばかり南の陽だまりに慣れすぎているのではないか。肩の辺りがずいぶんと強張っているように見えるが」
「耳が痛いな。ここ数日、馬の鞍に揺られ続けたせいで、腰から背中にかけて鈍い痛みが抜けないのだ。
吉本殿の薬湯の匂いすら、今となっては恋しいよ。……さて」
劉憲は、火鉢の熱で表面が微かに曇った陶器の杯に温かい酒を注ぎ、それをゆっくりと卓の中央へ押し出した。酒の甘く芳醇な香りが、一瞬だけ獣の匂いを中和する。
「交易なら、大いに歓迎するところだ。こちらが用意できるのは馬、羊、そして麻黄といったところか。漢人が喉から手が出るほど欲しがるのは、昔からそのあたりだろう」
「まあ、そうなんだが……。我々としても、いつまでも血を流して奪い合うつもりはない。互いにとって安全かつ公平な交易がしたいのだ」
呼廚泉は出された杯を太い指で摘み上げると、ふんと鼻を鳴らして、酒を粗削りな仕草で一気に干した。温かい液体が喉を焼いたのか、彼は深く息を吐き出し、口元を毛皮の袖で乱暴に拭った。
「漢の国が荒れに荒れて、関所が閉ざされ交易も長らく滞っているからな。
我々も、ただ指をくわえて餓死を待つわけにはいかん。奪わねば生きられんのだ。
お前たちも知っていようが、草原に一度白災が来れば、見渡す限りの雪に覆われ、家畜は足の踏み場もなくバタバタと死に絶える。
交易が止まり、塩も麦も手に入らねば食う物もない。ならば、南へ降りて豊かな漢人の倉から奪うしかなかろう」
その切実な響きには、単なる略奪者の貪欲さではなく、過酷な自然に翻弄される遊牧の民の血の滲むような生存本能がこびりついていた。
「なるほど、事情はよくわかる。だが、それではいつまでも互いに安らぐ夜が来ない」
劉憲は、杯の縁を指の腹でゆっくりとなぞりながら、少しだけ声を潜めた。
「例えば、雲中などの黄河の支流沿いで、我らと共に粟を育てるのでは駄目なのか?
あの辺りの土の匂いは悪くない。水も引ける。定住して畑を耕せば、少なくとも飢えに怯える冬は越せるはずだが」
「馬鹿を言え!」
呼廚泉の鋭い声が、冷たい空気を切り裂いた。その瞳には、草原の猛禽類のような険しい光が宿っていた。
「我らが漢人のように腰を落ち着けて畑を作ってみろ。春に種を撒き、秋に実るまでその場を動けないのだぞ。
たちまち北の鮮卑にとって格好の的だ。我らは機動力を失い、奪う側から、一転して無防備に奪われる側に回ることになる。
定住など絶対にできんよ。他の部族にとっても、それは火を見るより明らかなことだ。
畑の土に足を取られて死ぬくらいなら、馬上で矢を受けて死ぬ方がマシだ!」
呼廚泉の言葉に、劉憲は頭の中で素早く并州北部の広大な地図を思い描いた。
雲中など黄河の支流沿いは、確かに土は黒く湿り気を帯び、農耕地としての適性は高い。しかし、そこは遮る山も大河もない、ただ風が吹き抜けるだけの大平原である。
鮮卑の騎馬隊が雪崩を打って押し寄せてくれば、防衛にいくら兵を割こうとも、決して足りはしないのが残酷な実情だった。
「……そうか。それは私の見通しが甘かった。ならば、農耕の無理強いはしないようにしよう。彼方には彼方の戦い方がある」
劉憲はすんなりと引き下がり、冷えはじめた酒を一口舐めた。
「ただ、門戸は完全に閉じないでいよう、もし部族の中に、いくさで疲れて南に来て定住や農業をやりたいと望む者が居れば、ある程度は受け入れられる。
土をいじる暮らしも、慣れればそう悪いものではないからな」
「うむ、そうしてもらえるとありがたい。戦えない老木や、幼い子供を抱えた女たちにとっては、命を繋ぐ道になるやもしれん」
「それと、白災についてだが……」
劉憲は身を乗り出し、卓の上に置かれた乾いた木片を指で軽く叩いた。コツン、という乾いた音が部屋に響く。
「地に深い穴を掘り、日干し煉瓦で上の建物を組み上げて蓋をする。そして、その穴の中に夏の間刈り取った豊かな干し草をぎっしりと貯めておけば、冬の刺すような寒さと、家畜の飢えをある程度は防げるかもしれん。
日干し煉瓦の泥なら、いくらでも手に入るだろう。どうだろう、友好の印に、我が方の土木技術者を派遣し、お好みの場所にひとつ作ってみようではないか。
作り方さえ覚えれば、貯蔵庫を自分たちの手で増やせるようになるはずだ。匈奴の暮らしが根底から安定すれば、互いに命を懸けて奪い合うことも減るだろう」
呼廚泉は太い眉を寄せ、少しの間火鉢の赤い炭を見つめていたが、やがて相好を崩した。
特に何かを強く要求されるでもなく、領土の割譲を迫られるでもない。かつて漢の治世が最も安定していた頃と同じような、対等で平和な交易の合意が取れた。
呼廚泉はそう認識し、「悪くない話だ。長旅の疲れが少しばかり癒えた気がする」と満足げに立ち上がった。
彼の足元で、すり減った革靴が乾いた床板をきしませる音が響いた。
単于の巨大な背中が扉の向こうへ消え、軍幕を兼ねた部屋の分厚い帳が下りると、部屋の中は急に外の風音が遠のき、静寂が降りてきた。
その静寂を破ったのは、部屋の薄暗い隅、帳の陰に息を殺して控えていた少年、司馬懿の不気味に低く響く唸り声だった。
「……悪党め。本当に、どこまで性根が腐っているのか」
「おい、仲達。何をぶつぶつ言っているのです。少し埃を吸い込んだからといって、そんな物騒な声を出さずとも……。水でも飲みなさい」
隣に座っていた兄の司馬朗が、竹筒を振って宥めようとするが、司馬懿の冷気を孕んだ舌鋒は止まらない。彼の細い目は、暗がりの中で爛々と異様な光を放っていた。
「何が『技術者を派遣して、馬が食う草の備蓄を助ける』だ。よくもまあ、あんな罠を、瞬き一つせずに平然と張れるものだ。兄上はあの州牧の腹の底が見えないのですか!」
「罠とは何だ。劉州牧は現に技術者を送ると……」
「だからそれが罠なのだ!」
司馬懿は膝を叩き、吐き捨てるように言葉を連ねた。
「いいですか、作り方を覚え、草原の各地に地下貯蔵庫ができれば、確かに匈奴は白災で失う家畜を減らせるだろう。
……だが、それはそのまま、奴らにとって致命的な弱点となるのだ」
劉憲は何も言わず、冷めた杯の酒をゆっくりと飲み下しながら、ただ静かに微笑んで少年の言葉を促した。
火鉢の微かな明かりが、彼の口角の上がり具合を影絵のように壁に映し出している。
「蓄えた草が焼ければ、冬を越えられず家畜は全滅する。つまり奴らにとっては、定住して農耕せずとも、絶対に守らねばならない『固定の拠点』が草原に点在することになるのだ。
さらに、冬場に家畜の食糧が足りなくなったとき、飢えた他の獰猛な部族がその草の詰まった貯蔵庫を必ず狙う。
奪い合いが起きる。内輪揉めから拠点を守るために、奴らは身軽な騎馬の利を捨てて、そこに兵をへばりつけねばならなくなるのだ!」
息もつかせぬ弟の凄まじい看破に、司馬朗は持っていた竹筒を取り落としそうになり、ぽかんと口を開けたまま劉憲と弟の顔を交互に見た。
劉憲は、まるで自慢の細工箱の仕掛けを見破られた悪戯っ子のように、悪びれる様子もなく目を細めて微笑んだ。
「別に嘘は言っていないぞ、仲達。匈奴や他の騎馬民が協力し合い、争うことなく草や大地を分け合えれば、自立安定した半農半牧生活も完全な夢物語ではない。
……ただ、人の欲がそれを許すかどうかは、私の預かり知らぬことだ。
我々は、防衛すらままならない雲中などの『守れない場所』から、険しい山脈や雁門関の内側への移住を民に急がせ、ここを強固な防衛線として再構築する。
移住が全て終わったら、あの空っぽになった雲中を、単于に『農業も可能な場所』として丸ごと明け渡してしまおう。
彼らがどの程度、漢人の残した農地や水路を活用できるかは不明だがな」
「たとえ畑の耕し方を知らずとも、水が豊かで草の生い茂る草原は、それだけで彼らにとって手放せぬ財産だ。
一度手に入れた広大な沃野を失いたくないばかりに、土地への執着が生まれ、縛り付けがますます強まるというわけか。
機動力を奪い、守るべき場所を与えて同士討ちを誘う……どこまでも底意地が悪い、邪智め!」
吐き捨てるように悪態をつき、薄暗い部屋の冷気を睨みつける司馬懿の脳天に、すかさず司馬朗の固く握られた拳が、ゴツンと鈍い音を立てて振り下ろされた。
「痛っ……! 兄上、なぜ私を唐突に叩く! 私の推理に狂いはないはずだ!」
「仲達、貴様という奴は、州牧様に対していくらなんでも無礼が過ぎるぞ!
お前はいつも物事を捻じ曲げて、悪く取りすぎるのだ! 現に州牧様は、南に来れば農耕民として手厚く受け入れるとまで慈悲深く言っていただろうが!
もっと人の善意を信じろ!」
頭を押さえて涙目で呻くひねくれた弟と、本気で顔を真っ赤にして怒る生真面目な兄。
埃っぽい軍幕の中で繰り広げられる、少し抜けた兄弟のやり取りを眺めながら、劉憲は再びこみ上げてくる腰の痛みを小さくさすった。
冷たい風が外壁を叩く音を聞きながら、彼はまた一つ、一滴の血も流さずに北方平定への冷徹な楔を打ち込めた確かな実感を、炭火の微かな暖かさの中で深く噛みしめていた。




