↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
57/75

197年 小覇王

興平四年春。冬の間に降り積もった雪が溶け、むせ返るような湿気を帯びたぬるい春の風が襄陽の街を撫でていた。


遠く揚州の地にて、袁術が国号を「仲」とし、手に入れた玉璽を掲げてついに皇帝へと即位した。

その血迷ったかのような破天荒な報せは、早馬の蹴立てる土埃の匂いと共に、襄陽の政庁の片隅で黙々と薬湯を作り続けている劉憲のもとにも、当然のごとく飛び込んできた。


薄暗い調薬室の中は、薬草を煮詰める白濁した蒸気が充満し、格子窓から差し込む春の陽光が水滴に乱反射して、部屋全体をぼんやりとした緑色に染め上げている。


「州牧、手が止まっておりますぞ! そこのすり潰し方が荒い!

繊維が残っていては、煎じた時に成分が十分に溶け出さぬでしょうが!」


背後からの容赦ない一喝に、劉憲は慌てて石の摺鉢を動かした。手元からは、乾燥した艾葉の青臭くもツンと鼻を突く独特の匂いが立ち昇ってくる。


「わかっている、吉本殿。だが、この石の乳鉢は見た目以上に重くてな。昨日から回し続けているせいで、右手首の筋が悲鳴を上げているのだ。

少し、腱を休ませてはくれまいか」


「甘いことを仰るな。手首の痛みなど、長安で私が診てきた四肢の腐り落ちる重病人に比べれば、羽虫に刺されたようなものです。

それに、為政者たる者、自らの手で薬と毒の境目を知る知識がなくてどうするのです。さあ、泣き言を言わずにもう百回、均等に回しなされ!」


傍らで、細長い指先を器用に動かして乾いた薬草の葉脈を取り除いているのは、司隷からやってきたばかりの医者、吉本である。

彼は張機が先んじて出仕し、華々しく医学舎が立ち上がったと聞くや否や、馮翊郡から襄陽へ文字通り飛んできて「なぜ元太医たる私に一番に声をかけない!」と劉憲の胸倉を掴む勢いで激怒し、州牧たる劉憲を平謝りさせた剛の者であった。

今や彼はこうして、劉憲に直々に薬術の基礎を叩き込んでいる。


「……で、いかが致しましょうか?いくらなんでも、これを座視するわけにはいかないでしょうね……」


濃厚な薬草の香りと湿気が立ち込める中、軍議の重々しい書状を持った蒯良が、眉間をやたらに揉みながら困ったような顔で問うた。

彼の着物からは、古い竹簡の埃っぽい匂いがする。劉憲は、べっとりと額に張り付いた汗を麻の袖で拭いながら、摺鉢を回す手を止めずに淡々と答えた。


「捨ておけ。いくら袁氏が四世三公の名族であろうと、天下の道理を知る名士や智者が、これほど大義の無い浅薄な僭称を承認するはずがない。

名も実も無き偽りの帝位など、玉座に座った己の脂肪の重みでいずれ勝手に失墜する」


しかし、劉憲はそこで思考の糸を途切れさせず、窓から差し込む光に目を細めて付け加えた。


「子柔、最近少し咳が続いているようだが、吉本殿に後で喉の薬をもらっていくといい。

……それと、一つ懸念がある。誰からも承認されぬという焦りから、袁術が周囲へ八つ当たり気味に無軌道な兵を出す可能性は高い。

李通に命じ、前線の廬江の防備を数段厚くしておくよう伝えてくれ。あの袁術の狂気は、時に鋭い刃となる」


劉憲の読みに違わず、湿気を帯びた空気が重苦しい夏に変わる前になると、袁術は下邳の地で勢力を伸ばしていた呂布に猛然と狂犬のように噛みつき、徐州の豪族たちを巻き込んだ、泥沼のように粘り着く戦乱へと突入していった。


天下が袁術の呆れた暴挙に揺れる中、ひび割れた大地を踏みしめて荊州や司隷を行き交う流民たちの間で、ある不思議な噂が風に乗って囁かれ始める。

すえた汗の匂いと、乾いた泥の匂いに混じって、その噂は瞬く間に襄陽の市場にも広まっていた。


「荊州の劉憲様は、漢室の正統なる臣として『楚公』を名乗り、見事にあの焦土となった洛陽を復興されたそうだ」


「いや、今は亡き天子様から、公に封ぜられるよう密詔を受け取っておられたらしいぞ」


無論、劉憲は未だに「荊州牧」以外の肩書きを名乗ってはいないし、自らの印綬をすげ替えるつもりもない。

楚公の位などもとより、曹操の使いが来た折にきっぱりと辞退している。


「……おそらく、自身の主である曹操に『魏公』でも名乗らせたい、あの賈詡の陰湿な仕込みだな」


執務室の窓際で、劉憲は夏の乾いた風を顔に受けながら、呆れたように細く長い息を吐き、噂の出処を冷たく断じた。


「皇帝を名乗る袁術という最悪の悪例が出た今、さらに私が既成事実として『公』を名乗れば、曹操もまた世間の厳しい目を引くことなく、するりと公を名乗りやすくなる。

袁紹の強大さに怯え、あちらに傾きかけた名士たちの心を、こちらと曹操側とで分断して繋ぎ止め、天下を三分して袁紹の一極集中を防ぐ狙いだろう。

まったく、あの男の策は、いつも生臭い血の匂いがする」


そこまで一気にまくし立てると、劉憲は急にこめかみの奥を錐で揉まれるような頭痛に襲われ、それを振り払うように強く頭を振った。視界が微かに歪む。


「州牧、また酷い頭痛ですか。天下の毒を一人で飲み込もうとするから、そうして頭の芯が腐るのです。

思案が過ぎるのも体への毒です。ほら、ちょうど煎じ上がったこの特製の薬湯を、熱いうちに一息に飲みなされ」


背後から音もなく近づいてきた吉本が差し出してきたのは、分厚い陶器の椀になみなみと注がれた、漆黒の液体だった。

湯気からは、焦げた木の根と獣の胆汁を混ぜたような、鼻が曲がるほどの強烈な苦味が立ち昇り、表面には油膜が虹色に不気味な光を屈折させている。


劉憲はその見るからに恐ろしい液体を前に、袁術の皇帝僭称の報を聞いた時以上の、この世の終わりのような苦い顔をするのだった。



秋の冷たい木枯らしが、襄陽の街の枯れ葉をカラカラと音を立てて巻き上げながら吹き抜ける頃、遠く揚州の孫策のもとへ外交の使者として派遣されていた向朗が、土埃にまみれた渋い表情で帰着した。

衣服からは、長江の湿った川風と、船底の古い木の匂いが染み付いている。

その報告を、劉憲は執務室の奥で、どこか予想していたような、諦めを含んだ重い面持ちで聞いた。


「向朗殿、長旅ご苦労だった。まずはこの葛湯を飲んで、体の芯の冷えを癒してくれ。唇がひどく荒れているではないか」


「お気遣い痛み入ります。……道中の揺れよりも、孫策殿との会談で心が削り取られる思いでした。

幕僚の方々は、我が荊州との交易に非常に乗り気のようでしたが、孫策殿ご自身は血走った目で私を睨みつけ、『親の仇である劉憲とは取引など絶対に結ばぬ』と……取り付く島もございませんでした」


「そうか。やはり、伯符殿は私を、父君である孫堅殿を罠に嵌めて討った不倶戴天の仇と見ているのだな……。

誤解を解くには、まだ時間が足りぬか。呉郡の豊かな塩や海産物を、江夏の銅や南陽の鉄と交換できれば、廬江など長江沿いの内陸の経済が血液のようにさらに活性化し、多くの民の生活が潤うと思ったのだが……」


劉憲はがっくりと、肩の骨が軋むほどの深いため息をついて肩を落とした。

視線の先の奥の部屋では、薄絹の衣を纏った蔡琰が、まだ幼い我が子を膝に抱き、柔らかな陽だまりの中で優しくあやしている。

部屋には、乳の甘い匂いと、洗い立ての清潔な布の香りが満ちていた。劉憲は、赤子の透き通るような白い肌と、その愛らしい寝顔に目を細め、ぽつりと漏らした。


「あの柔らかい頬を見るたびに思う。

この子が大きくなり、剣の重さを知る頃までに、大人たちの過去の泥沼の因縁が解消でき、孫策殿がこの子にとっての、歳の離れた頼もしい兄のようになってくれれば嬉しかったのだが。

……世の中、己の思い描くようにはままならないものだな」


劉憲の脳裏に、かつて反董卓連合の折、長沙太守として魯陽の雑然とした陣営で共に過ごした孫堅の姿がありありと思い浮かんでいた。

獣の脂で手入れされた分厚い革鎧の強烈な匂い、鼓膜を破らんばかりの豪快な笑い声。

度々その剛直すぎる暴走に頭を悩まされたものだが、劉憲は孫堅の裏表のない、真っ直ぐに燃え盛る炎のような気性を決して嫌ってはいなかったのだ。

だからこそ、その血を色濃く受け継ぐ遺児である孫策とも、手を取り合いたかった。


「……まあ、仕方ない。焦っても縺れた糸は切れ目から血を流すだけだ。向朗殿、他に揚州からの報告はあるだろうか?」


「はい。一つ、不可解にして厄介な事態が。

……会稽郡の太守である王朗殿が、突如として我が軍に降伏の使者を出してまいりました。

現在は、ひとまず私が臨時の処置として、引き続き太守の任をお任せしておりますが」


劉憲の頭の中に、冷水を浴びせられたような大きな疑問符が浮かび上がった。


「……待ってくれ。会稽といえば古くから良質な陶磁器が作られ、豊かな土を持つ地。

私はそこを、あくまで対等な交易の相手として、銅銭と引き換えに結ぼうとしたはずだろう?

なぜ、戦も交えずに突然降伏してくるのだ。私は他人の土地を奪う野盗ではないぞ」


向朗は白髪の混じりはじめた顎髭を力なく撫でながら、困り果てたように説明を続けた。


「孫策殿が、江東の虎として猛然と呉の厳白虎を攻め滅ぼす一方で、王朗殿の治める会稽郡や、劉繇殿の丹陽郡にも、息詰まるような凄まじい軍事的圧力をかけているようなのです。

王朗殿としては、このまま孫策の若く暴力的な軍勢に麦畑を踏み荒らされ、戦火で先祖伝来の領地が焼かれるよりは、長安すら復興させた劉州牧の大樹の陰に降ることで、巨大な盾になってもらい、一族郎党を守ってほしいと……」


「……なんと」


劉憲は思わず、卓の上に両肘を突き、両手でこめかみを強く抱え込んだ。吉本の飲ませた薬湯の苦味が、胃の奥から再びせり上がってくるようだった。


「これでは、ただでさえ私のことを父の仇として目の敵にしている孫策殿に、さらに『俺の獲物を背後から卑怯に横取りした男』として、新たな恨まれる理由が最悪の形で重なったではないか……」


江東の小覇王が、今にも赤い外套を翻し、髪を逆立てて怒り狂いながら刃を向けてくる姿が、ありありと目に浮かぶようであった。

しかし、己の庇護を求めてきた弱き者を、見殺しにするように無下に捨てるわけにはいかない。


「……致し方ない。王朗殿の降伏を受け入れ、民の命を預かった以上、見捨てるわけにはいかん。

正方に命じ、会稽の防衛のために、至急、強兵と弓矢の物資を長江沿いに送ってくれ。

ただし、孫策殿の逆鱗を刺激しすぎぬよう、決してこちらから打って出るな。あくまで城壁に張り付く『専守防衛』に徹するのだぞ」


劉憲の、意図せぬ領土の拡大と、底なし沼のように深まる江東との因縁に、冷え込み始めた襄陽の執務室には、ただただ途方もなく重い溜息だけが虚しく響くのだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。