196年 学舎03
長沙郡益陽県。中原の激しい兵の血風や、全土に渦巻く権力闘争の不気味な地鳴りも、深く鬱蒼とした緑の壁に遮られてここまでは届かない。
張機がただひたすらに薬湯の研究に没頭するために築いた庵は、南海の湿った風が運んできた珍稀な甘松香や丁字の交易品と、長沙の深い山々が育む湿った土と地衣類の匂い、そして陰干しされた薬草の苦い香りに重厚に包まれていた。
かつて南陽の太守であった彼は、乱世の飢餓と疫病の中でより多くの命を実質的に救う「糧」を求めて、この水音の絶えぬ静謐な地へと移り住んだのだという。
劉憲が庵の前に立つと、薄暗い屋内からは薬研の石が擦れ合う微かな音や、陶器の摺鉢を休むことなく回すゴリゴリという鈍い音が聞こえ、辺りには鼻の粘膜をチクチクと突くような濃い野草の汁の香りが漂っていた。
近づく劉憲たちに気づき、麻の衣を着た一人の小僧が、煤けた竹の扉を細く開けて姿を現す。小僧の指先は、山芋の汁を扱ったせいか、薄黒く荒れていた。
「本日は先生は、奥の山へ茯苓を掘りに赴いており留守にしております。山路は日が暮れると足元が全く見えなくなりますゆえ、おそらく今宵は戻られぬかと。また後日来られますよう」
「仲業、その背負っている荷物から少し乾飯を出してくれ。構わないよ。ここで戻られるのを待たせててもらおう」
劉憲は穏やかに応じ、湿った苔の生い茂る庵の外の古木に静かに腰を下ろした。
だが、その日は冷ややかな霧が立ち込め、陽が山端に落ちて薄暗くなるまで待っても、張機が姿を見せることはなかった。劉憲の衣服の肩は、夜露の湿度でしっとりと重くなっていた。
翌日。朝霧がまだ消えぬうちに再び訪れた劉憲に対し、小僧は困ったような顔をして、着古した衣の袖をいじりながら言った。
「……今は、遠方から酷い熱病を患った別の来客を迎えており、先生はつきっきりで処方を変えておいでです。申し訳ありませんが、後日にしていただきたい」
「そうか。お忙しいのは良いことだ。それだけ救われる命があるということだからね」
劉憲は小さく頷いてそれだけ返し、昨日と同じ湿った木の根に腰掛け、蟻の列を眺めながら夕暮れの茜光が紫に変わるまで静かに時を過ごした。同行の兵たちが退屈そうに己の革帯の綻びを爪でなぞる音が、微かに響く。
そして三日目。
「本日、先生はご自身の体調不良につき、寝台から起き上がることもできず……」
「……っ、州牧を、荊州の主を三度も門前で虚仮にするか! 礼を失するにも程があるぞ!」
同行していた護衛の兵が、抜刀せんばかりに顔を真っ赤にして我慢の限界だとばかりに声を荒らげる。乾いた鉄の鞘が鳴る音が、静かな山林に鋭く響いた。
だが、劉憲はそれを細く白い手で制し、怯える小僧に優しく微笑みかけた。
「よせ。怒鳴れば先生の頭痛がひどくなる。……では、本日も夕暮れまでここで待たせてもらいましょう。
退屈凌ぎに、他の者に近くの市まで川の活きの良い魚でも買いに行かせます。病の時には、美味いものを食って滋養のあるものを腹に入れるのが一番ですから……」
劉憲がそう言いかけた、まさにその時だった。煤けた竹の扉の向こうから、低く、しかし驚くほどよく通る落ち着いた声が響いた。
「……そこまでの覚悟でおいでなら、入っていただきなさい。お待たせしてすまなかったな、州牧様」
それは三日間、頑ななまでに沈黙を守り続けていた医聖・張機の声であった。
扉がギィと重い音を立てて静かに開く。そこには、数多の傷寒の病と向き合い、死の匂いと戦ってきた男の、厳格さとすべてを包み込むような慈愛を同時に宿した黒い双眸があった。
部屋の奥からは、薬草を煎じる木酢の酸っぱい湯気が白く吹き出してくる。劉憲が「州牧」という血塗られた権威を笠に着るのではなく、一人の「民を救いたいと願う者」として門前に立ち続けたことを、その瞳は見定めていた。
「三日の辛抱、恐れ入った。衣服が朝露で随分と湿っておいでだ。
さあ、中へ。貴殿が救いたいと願う、その『長安の民の病』について、処方を練るために詳しく聞かせていただこうか」
劉憲は静かに、しかし深く一礼し、濃密な草の香りと炭火の熱気が満ちる庵の中へと足を踏み入れた。
「今長安では、私の徳が至らぬばかりに、胸をかきむしるような激しい咳を伴う病が蔓延し、多くの民が命を落としております。
彼らには帰るべき家も、温かい汁物を運んでくれる親類もいない者が多い。民を救うために、どうか先生のその力をお貸しください」
劉憲の言葉を聞き、張機は深く、長く、胸の隙間にある空気をすべて吐き出すように息をついた。その節くれだった手のひらは、すっかり表面の磨り減った摺鉢から離れ、静かに灰色の衣の膝の上に置かれる。
「劉憲様。あなたがかつて、義勇軍としてこの荊州の地で立ち上がり、宛の近くの貧しい村々をわずかな兵を連れ歩きながら守った日のことを……覚えておいでですか?」
劉憲が黙って頷くと、張機は窓の外の、光の屈折で青く光る竹林へと遠い目を向けた。
十数年前の、まだ誰もが若く、血の匂いが新鮮だった過去を振り返るように語り始めた。
「当時、あなた方義勇軍が、飢えた民のために命懸けで運んでいた兵糧がありましたな。
それを強奪した黄巾党の飢えた賊どもが、城内で次々と激しい下痢や嘔吐に倒れ、顔を青白くして『蒼天の怒りに触れた』『呪いだ』と噂が立ちました……。あの中に、何か、医師の目をごまかすものを仕込まれましたね?」
庵の隅の古い柱が、パチリと炭の爆ぜる音を立てる。劉憲は誤魔化すことなく、真っ直ぐに医聖の、すべてを見透かすような瞳を見据えて答えた。
「……はい。奪わせる兵糧の底に、意図して腐りかけた古麦と、山野で採取したわずかな毒草の汁を混ぜました。そうせねば、より多くの村の女子供が飢えて死ぬところだったのです」
「やはり、そうでしたか。私も当時、運ばれてきた死体の爪の変色や、病人の吐瀉物の独特の匂いを見て、そうではないかと予測しておりました。
……ですから、貴方がこの寂しい庵に私を尋ねて来たと知った時、私は不覚にも、腹の底から冷たい恐怖を覚えてしまったのです。
貴方が誰よりも民を想う、高潔な志の持ち主であると、風の噂で十分に分かっているというのに、その手法はあまりにも残忍で道義にもとる」
劉憲は静かに目を伏せた。囲炉裏の灰の匂いが鼻をくすぐる。過去の戦い、生き残るための選択とはいえ、自らの手が黒い血と大罪で汚れていることは厳然たる事実であった。
張機は重ねて、値踏みするような鋭い声で問いかける。
「劉憲様は、あの手段を用いた己の恐るべき過去を、今どう思っておいでですか? 悔いておられますか?」
わずかな沈黙の後、劉憲はゆっくりと顔を上げ、陽光に透ける濁りのない、しかし強靭な意思を秘めた声で答えた。
「私は、正道に生きる多くの民と、彼らのささやかな暮らしを守るために、時に外法とも言える陰惨な策を多く用いてきました。
長安を内側から崩し、相争わせたのも、その一つです。
しかし……その外法を用いることで、今、そしてこれから先に助かる名もなき命が遥かに多く出るのであれば、私は未来永劫、地獄に落ちるとしても、躊躇することはありません」
己の罪の深さを完全に認めながらも、大義のために修羅の道を歩む覚悟。
庵の中に、呼吸の音さえ憚られるような重苦しい沈黙が流れた。やがて、張機の厳しい口元に、どこか諦観と、深い敬意の入り混じった複雑な笑みが浮かぶ。
「……そのお覚悟を聞いて、得心いたしました。毒を以て病を制すのも、また我が医の道。
貴方のような、自ら毒を飲む事を厭わぬお方が天下を治めるのであれば、私のこの小さな医学も、ただの気休めの呪術では終わらぬのでしょう。
非才の身ながら、これよりはお仕えし、薬箱を担いで長安へ向かいましょう」
「ありがとうございます、先生。……ああ、それと、長安へ行く前に襄陽の美味い川魚を食していってください。
私の部下たちが、今頃必死に鱗を剥いでいる頃でしようから」
こうして、心強い医聖の協力を得た劉憲は、すぐさま襄陽へと引き返した。
劉憲は旅の泥を落とす間もなく、蒯良や向朗を政庁に呼び寄せ、行政の新たな一手へと着手する。机の上に広げられた新しく削られた竹簡からは、青い香りが室内に広がっていた。
それは、これまで天下のどこにも存在しなかった、医学を専門に教え、薬草の性質と病理を組織的に研究するための「医学舎」、そして張機が求める多種多様な薬草を安定して育てるための、広大な「薬草園」の建造であった。
「向朗殿、予算が足りぬと言うなら私の直衣を売っても構わん。天下から、医術に明るい者、あるいは命を救う学問を真摯に志す者を、身分を問わずすべて襄陽に募れ。
費用はすべて州の財政から出す! 職人たちの槌の手を止めるな!」
劉憲の、地を這うような熱い檄が飛び、襄陽の地に新しく切り出された木材の香りと共に、新たな槌音が幾重にも響き渡る。
天子という漢の看板を失った世界で、劉憲は「医学」という名の、何物にも破られぬ確かな盾を民に与えようとしていた。すべては、冬の寒さと病の苦しみから、人々を一人残らず取り除くために。




