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196年 学舎02

学舎の隅、春の陽光が格子窓を斜めにすり抜け、室内に漂う細かな塵を黄金色の砂金のように煌めかせている陽だまりの中から、一人の少年がおずおずと進み出た。

少年の衣服からは、すり潰したばかりの青黒い松煙墨の鋭い匂いと、微かに甘い糊の香りが漂っている。

その瞳には、年齢に似合わぬ深く聡明な光が宿っていた。彼が抱えるようにして持っている色褪せた竹簡には、天下の地勢と要衝についての記述が細かな文字でびっしりと刻まれている。


「劉州牧、僕は陸康の孫で陸遜と申します。少しお聞きしたいことがありますが、よろしいでしょうか。

その……昨夜からこの竹簡を読み耽っていたせいで、少し目が霞んでおりまして、的外れなことを申しましたらお許しください」


少年は微かに充血した目を細め、指先についた墨の汚れを気にするように衣の裾でそっと擦った。

その名を聞き、劉憲はわずかに目を見張った。かつて廬江の地で、籠城戦の末に袁術と戦い抜いた、あの陸康の縁者か。

劉憲は少年の目線に合わせてゆっくりと腰を落とし、膝の関節が微かに鳴るのをやり過ごしてから、穏やかに頷いた。


「構わないよ。それにしても、随分と熱心なことだ。目を酷使しすぎると、歳を取ってから私のように竹簡の文字が二重に見えるようになる。

たまには遠くの緑を見るといい。私に答えられることでしたら、何なりと聞いてくれ」


「……ありがとうございます。この荊州は険しい山々に囲まれ、たとえ曹操や袁紹が大軍を差し向けようとも、入り口は南陽郡か江夏郡の狭い経路に限られます。

州牧が守られる司隷もまた、函谷関などの険しい関で塞がれています。一方で、曹操殿の拠る許郡は平原にあり、南陽のすぐ目と鼻の先に位置しています。

彼が北の袁紹や東の劉備と睨み合い、兵を割いている今なら、我が軍から攻め込めば容易に落とせるのではないでしょうか」


その言葉に、室内の空気が一瞬だけ引き締まった。幼いながらも、容赦なく戦局の核心を突く鋭利な観察眼。劉憲は内心で深く舌を巻いた。

この少年は、卓上の埃を被った地図を単なる乾いた図面としてではなく、血が流れ、兵糧が消費される生きた盤面としてありありと捉えている。

劉憲はこれを「子供の浅薄な戯言」として一笑に付し、煙に巻くのではなく、一人の対等な智者と向き合うように、真摯に言葉を返した。


「できるかできないかで言うなら、伯言殿の言う通り、力攻めでの制圧は可能だ。

しかし、多くの血を流して落とした後、そこをどう守りぬくのか。許は四方が開けた平地なのだ」


陸遜が小さく首を傾げ、さらさらとした前髪が揺れる。劉憲は、目の前の空間に地図を描くように、墨で汚れた彼自身の指をゆっくりと宙に走らせた。


「許を奪えば、奪還に全力を挙げる曹操の精鋭が牙を剥き、北からは好機とばかりに漁夫の利を狙う袁紹の重装兵が南下し、さらには南からあの袁術が濁流のように押し寄せる。

守るために、我々の大切な兵の命と、懸命に育てた兵糧が際限なく戦乱に注ぎ込まれ、一度退けても三方を常に、夜も眠れずに警戒し続けねばならない

……それは永遠に終わりのない、凄惨な悪夢となろう」


「……では、なぜ曹操殿はそのような死と隣り合わせの四戦の地を、わざわざ選んだのでしょう。僕ならもっと安全な場所を探します」


「中原の豊かな食糧生産能力と、それら四方からの刃すべてを跳ね除け、己の覇道で守り切れるという、途方もない圧倒的な自負ゆえだろうか。

こればかりは、冷えた酒でも飲み交わしながら、本人に直接聞かねば分かりようがないがね」


劉憲は、足の裏から伝わってくる襄陽の土の柔らかさと、自らが血と汗を流して慈しんできた地を思い描いた。

険しい山々に守られた、分厚い天然の要塞。豊かな雪解け水を湛えた、緑深い盆地。政争の渦巻く中原の動乱を俯瞰できる位置にありながら、南海の未知なる交易と、涼州の乾いた風が育む馬を繋ぐ、大いなる道。

そこは、知恵が静かに育ち、人々が飢えることなく夜露を凌いで眠れる、安寧のゆりかごなのだ。

天子を失い、漢室の正統という古い看板が音を立てて揺らいだとしても。己が泥を啜りながら築いてきたこの「平和の土壌」こそが、何物にも代えがたい民の確かな盾となっている。


(ああ……やはり、私の歩みは決して間違ってはいなかったのだな)


劉憲は胸の奥の淀みが晴れていくような心地で、陸遜の細く柔らかい髪の毛を優しく撫でた。

未来を担う若き芽たちが、この安全な土の匂いのする学舎で知略を競い、熱を帯びた問いを投げかけてくる。

その光景こそが、劉憲が血を流し、骨を削ってでも手に入れたかった「復興」の真の姿なのだと、確信せずにはいられなかった。


陸遜との熱を帯びた問答に触発されたのか、部屋の隅で糊と木屑にまみれて熱心に工作に励んでいた男児と女児が、誇らしげに、しかし少し緊張した面持ちで小走りに駆け寄ってきた。

二人の衣服は松脂で汚れ、指先には小さな擦り傷がいくつもある。

彼らが小さな両手で大事そうに抱えているのは、動物の膠の匂いが鼻を突く精巧に作られた木製の模型と、炭でびっしりと細かな線が書き込まれた丸まった設計図だ。


「僕は諸葛亮、字は孔明といいます。こっちは月英。二人でこれを一晩中かかって考えました。さっき、月英が小刀で指を切りそうになって、僕が止めたのに怒られたんです」


「孔明ったら余計なことを。ほんのかすり傷ですよ。それより州牧様、これを見てください」


二人の子供らしいやり取りに目を細めつつ、劉憲は差し出された図面に顔を近づけた。

古紙から立ち上る埃っぽい匂いの中に、巨大な箱が背負わされたような、奇妙で無骨な形の弩が描かれていた。

模型の機構を指でなぞって読み解けば、箱の中に予備の矢を重力に従って装填し、側面の梃子を前後に一引きするごとに、次々と矢が弦に押し出され放たれる仕組みだ。


「なるほど、連射できる弩……。実によく考えられている。木車の噛み合わせも精巧だ。

さて、二人ならこの素晴らしい武器を、どのような地形で、どこで使うと考える?」


劉憲の問いに、二人は顔を見合わせ、首を傾げた。月英が控えめに、しかし自身の発明への確信を持って答える。


「……今ある、一発ずつしか撃てないすべての弩の代わりに、開けた平野でも森の中でも、戦場の至る所で使えませんか?」


「それは少し難しいだろうね。理由はいくつかある」


劉憲は子供たちの目線までさらに深く腰を落とし、教え諭すように、泥仕事で節くれだった指を一本立てた。


「第一に、戦場という血と泥に塗れた過酷な場所で、この複雑な部品が欠けた時、誰が戦の最中に直すのか。

機構が複雑になればなるほど、小さな泥や砂埃が一つ入り込んだだけでも故障しやすくなる。修理の手間と時間は、今の単純な弩の数倍かさむだろう」


諸葛亮の明るかった表情がすっと曇り、唇を噛んで黙り込む。劉憲は微かに苦笑して、二本目の指をゆっくりと立てた。


「第二に、重さ。巨大な箱と数十本の矢の重さがすべて加われば、狙いを定める兵の腕はすぐに痺れ、疲労は激しくなる。

かといって持ち運びやすいように小型化すれば、今度は弦の反発力が弱まり、矢の威力が落ちて敵の分厚い革鎧を貫けなくなってしまう」


憧れの「主君」からの、実戦に即した冷酷なまでに論理的な指摘に、諸葛亮の目尻にじわりと涙が溜まり始めた。鼻の頭が微かに赤くなっている。

まだ少年の柔らかな心には、己の徹夜の成果に対する論理的な否定は少し酷だったかもしれない。

劉憲は慌てて柔和な笑みを浮かべ、少年の震える小さな肩に温かい手を置いた。


「だが私はこの弩を、野戦ではなく『城壁の守り』として要所に配備したい。決して動かさぬ、据え置きの兵器としてね」


二人がハッとして顔を上げる。その瞳の奥の涙が、希望の光を反射してきらめいた。


「風雨を防ぐ城壁の上なら、落ち着いて修理も容易にできるし、大量の矢の詰め替えも味方の盾の裏で安全に行える。

重さの問題も、城壁の上に頑丈な台座を打ち込んで固定してしまえば完全に解決だ。

野戦では致命的になる射程の短さも、城壁という圧倒的な高低差が補ってくれる。

ここに、零陵で手に入れた毒を塗った矢を仕込めば……下から見上げる敵からすれば、逃げ場のない『毒矢の雨』が絶え間なく、文字通り雨あられと降り注ぐ。

最悪以外の何者でもない、身の毛のよだつ恐ろしい防衛兵器になるはずだ」


「……防衛、兵器」


諸葛亮が、その響きを口の中で転がすように噛みしめる。涙はすでに引っ込んでいた。


「職人に命じて、実際に原寸大のものをいくつか試作させてみよう。この素晴らしい図面を机上の空論で終わらせるにはあまりに惜しい。

本物が目の前にあれば、どこを削り、どこに鉄の補強を入れるべきか、次なる改良の糸口もすぐに見つかるはずだ。二人はその現場監督だ」


「はい! ありがとうございます、州牧様!」


諸葛亮の顔に、雲間から春の陽光がぱあっと差したような鮮やかな輝きが戻った。

月英もまた、次なる機構の改良案をすでに思いついたのか、瞳を爛々とさせながら、汚れた図面を胸の前に固く握りしめている。


子供たちの無邪気で鋭い問いが一段落し、彼らが再び木工細工の音を立て始めた頃、部屋の奥の暗がりから、一人の青年が足音を殺して静かに歩み寄ってきた。


その風采は決して上がるとは言えず、衣服の裾は擦り切れ、どことなく世俗の苦労と泥を一身に背負ったような枯れた雰囲気を纏っている。

しかし、劉憲はその猫のように丸まった背中の奥底に潜む、深淵のごとき知性の鋭い光を見逃さなかった。彼が近づくにつれ、安い酒の匂いと、古い書物のカビの匂いが微かに漂ってくる。


「劉州牧、お忙しい中お引き止めして申し訳ない。わたくし、龐徳公が不肖の甥、龐統、字は士元と申します。

……先ほどの、我が学舎の暴れん坊、甘興覇のあまりにも無礼な振る舞い、伏して深くお詫び申し上げます。あいつには後で、厠掃除を一ヶ月命じておきますので」


「いや、謝る必要など全く無い。むしろ、この学舎に集う若き知性の力強い輝きと、あの粗削りな活気を見られて、実に素晴らしい時間を過ごせた。

本当に、無理をしてでもこの場所を作って良かったと、心の底から思ったよ」


劉憲の偽らざる真っ直ぐな本心に、龐統は眠たげな目を柔和に細め、目尻に深い皺を作った。

そして、隙を見て窓から逃げ出そうとしていた甘寧の背中を、振り返りもせずに気配だけで射抜くような鋭い視線で押し留める。甘寧がビクッと肩を揺らすのが見えた。


「劉州牧の知恵、単なる木や鉄の道具の仕組みに留まらず、それを『実際の戦場のどこで、どう運用するか』という本質を子供たちに説く姿……わたくしのような者にも大変参考になりました。

流石は、洛陽や長安の数々の死線の難局を潜り抜けてこられた智者であらせられる。できれば、本日風邪を引いて欠席しております五渓民の少年、沙摩柯にも、今のその生きた言葉を直接聞かせたかったものです」


「買い被り過ぎだ。私はただの凡夫に過ぎない。わずかな知識と、凄惨な現場で這いつくばって埃にまみれて学んだことを無理やり結びつけ、その場その場で何が最善かを必死に、ただ必死に考えたに過ぎないのだ」


劉憲は心底照れくさそうに、後頭部を掻いた。


「おそらく、古の詩を優雅に詠じさせたり、分厚い書を暗誦させたりするような雅なことになれば、私はここに通うあの小さな子供たちにすら遠く及ばないだろう。

州の法を纏める時でさえ、蒯良からは『言葉が荒削りすぎて品がない』と朱筆で修正され、向朗からは『州牧の考えは理想主義すぎて財政が破綻する』と、耳が痛くなるほど小言を叩かれた身だからな。

私など、彼らのような本物の智者に支えられてようやく立っているようなものだ」


龐統はその飾らぬ言葉を聞き、愉快そうに肩を揺らし、声を立てて笑った。


「ここで学べるのは、あくまで『知識』という名の、水気のない種に過ぎません。それをどういう土に植え、どう育み、どのような実を結ばせるかは、ここを出た後の、彼ら自身の生き方で決まるもの。

魏文長などは、随分と猛々しく血の匂いのする妖花を咲かせましたが。

……劉州牧、私には貴方が、多くの民をその大きな影で包み込むような、地に根を張った大輪の牡丹を咲かせたように見えますぞ」


「過分な評価だよ、龐士元殿。周囲の支え、助けが無ければ、私はここまで息を繋いで歩んで来ることなど決して出来なかった」


謙虚に、しかし確かな感謝の念を口にして、劉憲は深々と礼を返した。

張機や吉本ら、原因不明の病に喉をかきむしって苦しむ民を救うための「次なる賢人」を求めるべく、彼は再び重い扉を開け、眩しい春の光と湿った風の中へと足を踏み出していく。


土に汚れた劉憲の頼もしい背中が、光の中に溶けて遠ざかってゆくのを見送りながら、龐統は誰にも聞こえぬほどの低い、地を這うような声で、独り言のように呟いた。


「……だからこそ、我らのような癖の強い偏屈者どもも、貴方のその不器用な優しさに惹かれ、命を懸けて仕えたくなるのです」


その言葉が、春の風に乗って劉憲の耳に届くことはなかった。

龐統の密かな独白は、未来の智を育む学舎の、木を削る音や紙を捲る心地よいざわめきの中に、微かな熱を帯びたまま静かに溶けていった。

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