196年 学舎01
興平三年春。厳しい冬の凍てつきを溶かした雪解け水が、襄陽の大地を黒く豊かに潤していた。
足を踏み出すたびに、ぬかるんだ土が靴底に微かに吸い付くような柔らかな感触を返し、陽の光を浴びて立ち昇る水蒸気が、草木の青々とした生命の匂いと共に空気を心地よく湿らせている。
瓦屋根の連なりに反射する柔らかな春の陽光は、微小な塵を黄金色にきらめかせながら街全体を暖かく包み込んでいた。
長安の復興に一定の目途をつけ、背後に屈強な文聘を従えて歩く劉憲は、久方ぶりにこの懐かしく穏やかな荊州の土を踏んでいた。
しかし、春の陽気とは裏腹に、その足取りはどこか鉛を引いたように重い。彼の鼻腔の奥には、長安の乾いた風に混じっていた、死と絶望の淀んだ匂いが未だにこびりついて離れなかった。
司隷を黒く覆い始めた「病」という名の得体の知れない影が、彼の心を冷たく縛り付けているからであった。
「孝子、どうした。先ほどからひどく足取りが重いようだが。やはり昨晩、無理をして書簡を読み漁ったせいで、目が疲れを訴えているのではないのか?」
少し後ろを歩いていた文聘が、腰の剣の鞘が衣に擦れる音を立てながら、友の青白い横顔を気遣うように覗き込んだ。
「いや、仲業、大丈夫だ。ただ、この襄陽の土の匂いが、あまりにも平和で……長安の乾いた灰の匂いとの違いに、少し目眩を覚えただけだ。
それに、朝餉の粥に少し塩を入れすぎたかもしれん。喉が渇く」
劉憲が乾いた唇を舐めながら、通りかかった学舎の大きな門扉の前に差し掛かった時だった。
分厚い木の扉の向こうから、木刀が打ち合うような乾いた音と共に、聞き覚えのある豪快な哄笑が春の空気を震わせて漏れ聞こえてきた。
「ふはははは、興覇よ! 貴様のその派手な衣装は策に使えるぞ! 同じ装束を四着ほど作り、背格好の似た部下に着せて別々の場所に配置するのだ。
敵がどこに進軍しても『げぇっ、甘寧!』と言わしめる、これぞ陽動の極み!」
「くふふふ、文長よ、それは面白い。だがな、その前に俺のこの上等な蜀錦の衣を、お前らの垢まみれの部下に着せられるのが我慢ならん。
それに、敵が慌てふためくほど俺の名が売れていなければ、その策はただの派手な着せ替え人形に終わるぞ。
もっとも、俺の名が天下に轟くのも時間の問題だがな!」
かつては気に入らない事があれば拳を振るうことしか知らなかった悪たれ共が、今や立派な学舎の庭で、兵法を肴に怪気炎を上げているのだ。
「それにしても文長、お前、最近少し腕の筋肉が落ちたのではないか?
昨日の組み手でも、踏み込みが半歩浅かったぞ。夜更かしして竹簡ばかり読んでいるからだ」
「ふん、馬鹿を言え。頭を使うと腹が減るのだ。昨夜も夜半に目が覚めて、冷えた粟餅を二つも平らげてしまったから、少し体が重いだけだ」
彼らの他愛のない、しかし確かな生気に満ちたやり取りを聞き、劉憲は思わず顔を綻ばせ、小さく苦笑を漏らした。
「……そんな大声で喧伝しては、どんな奇策も相手に筒抜けだろうに」
劉憲は微かに笑いながら、彼らの若く青々とした成長を眩しく思いつつ、今は一刻の猶予もならぬと己を戒め、先を急いだ。
街の外れにある、竹林に囲まれた龐徳公の庵に辿り着いた劉憲は、いつものように敷居の前で深々と礼を尽くし、静かに賢人と対峙した。
庵の中は、ひんやりとした古い土壁の匂いと、微かに燻る上質な香の香りが混ざり合い、俗世から切り離されたような静謐な空気に満ちていた。
窓から差し込む一筋の光が、龐徳公の淹れた茶から立ち昇る細い湯気を白く照らし出している。
「州牧、随分と顔色が優れぬな。長旅の疲れか、それとも春先の冷えが骨に障ったか。
まあ、この茶でも飲んで、少しその冷え切った内臓を温めなさい。昨秋に武陵から取り寄せた茶葉だが、香りは悪くないはずだ」
龐徳公は、枯れ枝のように細いが確かな力を持った指先で、古びた土焼きの茶器を劉憲の前に滑らせた。
「お気遣い痛み入ります、先生」
劉憲は茶器を両手で包み込むように持ち、その温もりを手のひらから吸収しながら、深く頭を下げた。
「龐徳公先生、今日参りましたのは他でもありません、どうかお知恵をお貸しください。
冬が明け、春の訪れと共に長安では激しく咳き込む者が増え、多くの民が熱に浮かされて命を落としております。医師の数も薬草も全く足りません。
これは私の徳が至らぬゆえ、あるいは天への祭祀に欠けるところがあるゆえの天罰なのでしょうか?」
劉憲の震える声を聞き、賢人は静かに、全てを見通すような深い瞳で彼を見つめた。
その瞳の中に、自己の権力ではなく民の命を純粋に危惧する誠実な光を読み取った龐徳公は、白が混じり始めた長い顎髭をゆっくりと撫でた。
「ふむ、お主はそう考えるか。古来、疫病が増えるのは、王の徳が足りぬからだの、呪いだのと言われてきた。
……だがな、雨が降れば傘を差すように、人の営みをもってそれを補い、病という自然の理に立ち向かえる者たちを、私はこの長い人生で幾人か知っておる」
「本当ですか! ぜひ、その人物をご紹介ください。この通りです!」
劉憲が茶器を置き、額を擦り付けるように身を乗り出すと、龐徳公は穏やかに首を振って語り始めた。
「薬湯を調合させ、熱を冷ます術を扱わせるなら、荊州は長沙の張機。字を仲景。
あやつは傷寒の病に滅法詳しい。
刃による創傷を縫い合わせ、身体の芯から癒すのなら、豫州は沛国の華佗。
司隷の土地であれば、かつて太医を務めていた馮翊郡の吉本という者らが居る。
華佗は雲に隠れた龍の如く、山野を歩き回って所在が掴めぬが、張機と吉本は今も生国に留まっているはずだ。
彼らを訪ね、その知恵を借りてみるがよかろう」
「張機、吉本、そして華佗……」
劉憲は、まるで暗闇の中で見つけた一筋の蜘蛛の糸を握りしめるように、その名を一字一句違わぬよう、己の胸の奥深くに刻み込んだ。
剣や盾では防げず、城壁すら越えてくる「病」という恐るべき敵に対し、彼は新たな賢人たちを求める決意を固めた。
漢室という古びた看板を失っても、そこに懸命に生きる民の、温かい息吹を守ることこそが、今の自分に課せられた真の使命なのだと信じて。
「ありがとうございました、先生。すぐに使いを出します。仲業、急ぐぞ」
急ぎ医聖らの元へ向かうべく立ち上がろうとする劉憲の背を、龐徳公の穏やかで、どこか楽しげな声が押し止めた。
「そう急ぐのもよいが、帰りにあの学舎に寄って行きなさい。お主が蒔いた種がどう芽吹いているか、素晴らしいものが見れるだろうて」
その言葉の真意を測りかねながらも、恩師の言葉に従い劉憲が学舎へと足を向けると、開け放たれた門の背後から、鼓膜を打つような豪快な声が降ってきた。
「おう、これは劉憲様の付き人ではないか。主のご意向で、お前も何か学びに来たのか? よい心がけだ! 歳を食ってからの手習いも悪くないぞ!」
振り向いた先にいたのは、春の陽光を反射してギラギラと輝くけばけばしい錦の衣をまとい、腰に歩くたびにチリンと鳴る真鍮の鈴を下げた派手な男、甘寧であった。
彼は劉憲の隣に立つ、見事な体躯をした文聘を一瞥し、勝手に納得したように首を縦に振っている。
そういえば、魏延とは陣中などで幾度も言葉を交わしたが、甘寧は戦場で暴れ回る姿や遠目から見るばかりで、こうして面と向かって言葉を交わすのは初めてだったと劉憲は思い返した。
「いや、私はただ様子を見に来ただけで……それに、少し喉が渇いているので……」
「遠慮するな! さあ、入れ入れ! 中には熱い湯も冷たい井戸水もあるぞ!」
劉憲は反論する間もなく、甘寧の荒々しくも屈強な腕で背中を無理やり押され、砂埃の舞う学舎の廊下へと踏み入った。
中は、劉憲の想像を遥かに超えた、活気ある「混沌」に満ちていた。古い墨と汗、そして真新しい竹の青い匂いが熱気と共に充満している。
老若男女が入り混じり、ある者は額に汗して必死に書を読み上げ、ある者は筆の先を割らしながら写本に筆を走らせ、ある者は算木を弾きながら算術の解を大声で競い合っている。
片隅の薄暗い場所では、子供たちが削りかけの木板の上で泥人形の兵を模した駒を動かし、「そこだ、右から回り込め!」と小さな軍議に熱中していた。
甘寧はある一室の前で立ち止まると、断りもなく、足の裏で扉を蹴り飛ばすような勢いで中へ入っていく。
そこには、墨で真っ黒になった手を振り回しながら激しい議論を交わす二人の青年、何やら竹のひごと麻紐を組み合わせて複雑な工作に耽る男児と女児、そして窓辺の埃っぽい陽だまりの中で、周囲の喧騒など聞こえぬかのように静かに古い竹簡を捲る少年がいた。
「おい、文長! 舎弟候補を連れてきてやったぞ!凡庸だが見込みがありそうな顔をしているだろう!」
甘寧の呵呵とした声に、卓に伏せていた魏延が顔を上げた。彼の髪には木屑が絡みついている。
彼は劉憲の姿を認めると、一瞬だけ目を大きく見開いて息を呑んだが、すぐに何かを察し、悪戯を思いついた子供のような、ニヤリとした含み笑いを浮かべた。
「興覇、そちらの方は何度か陣中で見た覚えがあるが……どなたかな? それなりに上等な身なりをしているようだが」
「ん? ああ、俺も名前までは知らんが、劉憲様と一緒にいるのを何度か見かけた。
その後ろのでかい奴と一緒にいる、付き人の一人だろう。おい、あんた、朝飯は食ったか? 腹が減っては学問はできんぞ」
甘寧の無遠慮な言葉に、背後の文聘が怒気を放とうとしたが、劉憲はそれを手で制した。魏延は「ほう」と深く頷き、わざとらしく咳払いをしてから芝居がかった口調で続けた。
「おお、それはよいところに来てくれた。ちょうど今、我らが三日三晩寝ずに編み出した『空陣の計』という画期的な策を練っていたのだ。
州牧の付き人なら、それなりに戦の知識も豊富だろう。ぜひ、素直なご意見を頂こうじゃないか!」
「どうした文長、急に喋り方が不気味だぞ。昨日食った川魚でも当たったか?」
甘寧がいぶかしげに首を傾げる中、魏延が卓の上に広げたのは、皺だらけの古布だった。
劉憲はそこに目を落とした。古布は料理の匂いが微かに残り、表面には粗い墨の線で、偽の陣に馬や兵を模した藁人形を配置し、敵を奥深く誘い込んでから伏兵で包囲する策が克明に描かれていた。
「……どこかで見た覚えもありますが、実によくできています。地勢の読みも正確だ」
図面を見た瞬間、劉憲の目付きが変わり、自然と一人の軍略家としての厳しい声色で口を開いていた。
「ですが、これだけでは敵の斥候に見破られる危険があります。
さらに夕方や明け方、あるいは深い霧などの視認しにくい状況を利用し、湿った青草を燃やして煮炊きの煙を模したものを上げれば、敵はより生活感を感じて騙されやすくなるでしょう。
偽報と組み合わせ、確実に陣の奥まで誘い出すのが肝要かと存じます」
「おおっ! 言うではないか! 付き人の割には、随分と実践的なことが分かっているな! 俺の考えた案よりずっと実戦向けだ!」
甘寧が心の底から感嘆し、劉憲の細い肩をバンバンと乱暴に叩く。その痛みに微かに苦笑しながら、劉憲は咳払いをして居住まいを正した。
「……お前の名を聞いてもいいか? 気に入ったぞ。どうだ、俺の部隊の下働きから始めないか? 飯は腹いっぱい食わせてやる」
甘寧の屈託のない問いに、劉憲は周囲の、息を潜めて見守る者たちの顔をぐるりと見渡し、静かに名乗った。
「はい。劉憲、字を孝子。……一応、この荊州牧を務めております。」
瞬間、甘寧の顔から表情が抜け落ち、彫像のように固まった。腰の鈴の音すらピタリと止まる。
部屋の中にいたすべての者たちの視線が、一斉に劉憲へと突き刺さる。工作をしていた子供の手が空中で止まり、窓辺の少年も竹簡から顔を上げて目を丸くした。
沈黙を破ったのは、腹を抱えて卓に突っ伏した魏延の高らかな哄笑だった。
「ふははははは! 傑作だ! 興覇、お前……おおかた、後ろに控えていた周倉か、以前陣で見た李厳あたりを劉州牧ご本人だと思い込んでいたんだろうよ!
州牧に向かって『下働きから始めないか』だと!」
「な……な、な……っ!? だ、だって、こんな凡庸そうな男が……!」
顔を朱に染め、指をわななかせて絶句する甘寧を横目に、劉憲は学舎の空気を深く吸い込んだ。むせ返るような墨の匂いと、若い汗の匂い。
ここに満ちる、形振り構わぬ「知の熱量」を肌で感じていた。かつての荒くれ者たちが、ここでは墨に塗れながらも未来の国造りを編んでいる。
龐徳公が「素晴らしいものが見れる」と言った意味を、劉憲は胸の奥深くで理解し、これから立ち向かう「病」という見えない敵への、確かな勇気を得るのだった。
史実メモ:献帝は上帝を安邑県に郊祀し、建安と改元する。
史実メモ:210年ころ、呂蒙は主君の孫権に諭され、勉学に励み、やがては魯粛すら唸らせるほどの教養を身につけた。呉の阿蒙に非ず。




