195年 長安の戦い02
秋の冷ややかな風が、長安のまばらな家並みの隙間を吹き抜けていく。空気の湿度はすっかり下がり、肌に触れる風はカサカサと乾いていた。その風が運んでくるのは、干からびた雑草の青臭さと、細かく砕けた黄土の刺さるような匂いである。
劉憲は、泥と木屑に汚れた薄手の直衣の袖を肘の上まで乱暴にまくり上げ、肩にずっしりと重い太い杉材を担いでいた。樹皮のざらざらとした無骨な感触が衣服の布地を透して皮膚を圧迫し、切り口から染み出た生々しい松脂の、鼻を突くような鋭い匂いが彼の首筋にまとわりついている。
あちこちの崩れた壁の向こうから、大きな鉄槌が木杭の頭を力任せに打ち込む、乾燥した高い音が響き渡り、それが長安の地を震わせる復興の確かな鼓動となっていた。
「州牧、その担ぎ方では右の肩ばかりに肉が偏って、明日にはまともに箸も持てなくなるだろうよ。もっと腰を入れて、体幹で支えるんだ。昔、黄忠のジジイに生垣を直すよう言われた時、嫌というほど叩き込まれたコツだぞ!」
近くで泥だらけの木槌を休めていた魏延が、首に巻いた手拭いで額の脂汗を拭いながら声をかけてきた。
「いや、文長、これくらいが丁度いいのだ。弘農の書庫の梁を直した時も、私はこうして一人で木材を運んだものさ。あの時は、もっと小ぶりな松の木だったがな」
「あの頃より、今の州牧の体は二回りほど細くなっているだろう。昭姫殿が裏の厨房で、今夜は生姜を利かせた温かい麦粥を作ると張り切っていたぞ。
これ以上痩せては、お小言を食らうのは俺たちなのだからな、ほどほどにしてくれや」
魏延は呆れたように笑い、自身の大きくひび割れた手のひらの豆を爪でいじりながら、再び重い槌を持ち上げた。劉憲はその言葉に微かに目を細め、傾きかけた秋の陽光が、宙を舞う細かな木屑を金色に透過させる様子を眺めた。
そこへ、ひずめの音が硬い地面を叩く、小気味よい響きが一団となって近づいてき。
先頭で手綱を引き、見事な鹿毛の馬から軽やかに降りたのは、あの日、劉憲が縄目のまま放り出したはずの男、賈詡であった。
衣服は曹操の使者にふさわしい、仕立ての良い暗紫色の錦衣に変わっていたが、裾には長旅の白い泥が斑点となってこびりつき、彼の体からは、馬の脂汗と上等な香料が混ざり合った、どこか人を煙に巻くような独特の匂いが漂っていた。
賈詡は飄々とした、まるで古い友人の家を訪ねるかのような軽い足取りで歩み寄ってくる。
劉憲は今まさに打ち込もうとしていた木杭から両手を離すと、手のひらに付着した砂粒を衣服で払い、不快感を隠そうともせずにその眉を深く顰めた。
「お久しぶりです、劉孝子殿。本日は我が主、大将軍曹孟徳様からの正式な使者として、この乾いた長安の地へ参りました」
賈詡は細い目をさらに細め、小癪な笑みを浮かべて一礼した。その仕草には、かつて死線を潜り抜けた者特有の、不気味な余裕が漂っている。
「お帰りください、賈詡殿。見ての通り、私は今、この長安を中心とした司隷の復興で指先一つ休める暇もないほどに忙しい。それに、貴方にそのように親しげに名を呼ばれる謂れはありません」
劉憲の、冬の氷のように突き放すような物言いにも、賈詡は一切動じなかった。むしろ、その頑なな拒絶の態度を、極上の肴でも見つけたかのように楽しむ風情で、さらに言葉を滑らせた。
「大将軍であらせられる曹孟徳様は、天子亡き後も、この荒れ果てた司隷の復興を黙々と続ける孝子殿の高き志と、その比類なき大徳にいたく感銘を受けておられます。
つきましては、その労に報いるべく、ぜひ車騎将軍位と、楚公の爵位を受け取っていただきたいとお考えなのです。これは我が主からの、最大級の敬意の証にございますよ」
「不要です」
食い気味の、即答であった。木材が地面に擦れる寂しい音だけが二人の間に流れる。その予想以上の冷淡さに、賈詡の薄い瞳の奥に、ほんの一瞬だけ計算の狂いを示す焦燥の火が小さく灯った。彼は衣服の袖を軽く整え、声を一段と低くした。
「……よくお考えなさい。三公の一つ、太尉であった曹嵩殿の後継にして、先帝、亡き霊帝陛下より西園八校尉に任じられた由緒ある名族。ご自身もすでに天下に王たる器を示されている曹孟徳様が、直々にその価値を認められた地位なのですぞ。
この大いなる権威を掲げれば、天下の偏屈な名士たちも、行き場を失った哀れな民たちも、貴殿の徳を慕って荊州やこの司隷へ雪崩を打って飛び込んでくる。世に蔓延る、己で勝手に名乗っているだけの自称の州刺史や、名ばかりの太守たちとは、明確に一線を画す絶対的な権威となるのですよ!」
賈詡の言葉には、油のように滑らかで、人を誘い込むような妙な熱がこもっていた。
「賈詡殿の言う通りですね。名利というものは、確かに人の目を惹きつける」
「おお、ご理解いただけましたか! では、早速公文書の手続きを……!」
「ですが、お断りいたします」
劉憲は静かに、しかし大地の底に根を張る巨木のように断固として、賈詡の老獪な眼差しを見据えた。
「私は今の、この泥に汚れた地位に十分に満足しています。
天子が、あの崩御された陛下が私に生前任じてくださった神聖な役割を、このような名利のために易々と放棄し、取り替えるわけにはまいりません。それは陛下への明確な不忠であり、私自身の矜持が許さない」
賈詡はあからさまに奥歯を噛み締めた。その頬の肉がピクリと震える。言葉を尽くし、天下の至宝とも言える官位を提示しても、この男の胸の奥にある頑強な芯には、権力の魅力が一切通じないのだ。
「でしたら、婚姻などはいかがです。男というもの、家を強固にするには美しい血筋が必要でしょう。側妃に、曹孟徳様の娘のうち、とりわけ見目麗しく、聡明な者を差し上げようと、我が主も申しておりますが」
「私には蔡琰という、私如きには過分な、そして魂を分かち合える者が既に傍らに居ります。これ以上、この貧しい身に何を必要としましょうか。彼女の淹れてくれる不味い薬湯があれば、それで十分です」
劉憲はそう言って、遠くの調理場の方を見やった。賈詡の焦りが限界に達し、その呼吸が微かに荒くなる中、劉憲は再び静かに口を開いた。
「曹操殿にお伝えください。わざとらしく人質を送ったり、無理に血縁の糸を結ばずとも、今のところ我らに貴殿と敵対する意思はない、と。お互いに己の信じる道を歩めば良いのだ。
……それから、天子の崩御という未曾有の悲劇によって、にわかに大義の旗を得た袁紹殿へ流れる名士たちの目を、こちらに甘い汁を吸わせて分散させようという、曹操殿の浅薄な意図も全て理解しております。
ですが、私のような瓦礫拾いにそのような大役は務まらない。あまり意味のない行為だとも、そのままお伝えください」
すべてを透き通る水のように見透かされた賈詡は、ついにその道化の笑みを消し去り、深く、胸の底から重い溜息を吐き出した。その吐息は、秋の冷たい空気に白く混ざって消えていく。
「……並の者なら、貰えるものは虎の巣の中でも得ておこうと飛びつくものですがね。どうにも貴殿という人は、私の計算の枠に収まってくれない。
儘なりませんね。……ですが、今は敵対しない。我が主にとっては、その一言を得られただけでも、この長旅の埃に塗れた甲斐があったというものでしょうか。良しとしましょう」
そう言って、諦めたように背を向けかけた賈詡だったが、ふと思い出したように足を止め、風の音に紛れ込ませるようにして、声を一段と低めた。その顔には、再び底知れない策士の昏い影が戻っていた。
「それより、孝子殿。せっかくここまで足を運んだのです、一つ、耳寄りな話を土産に差し上げましょう」
あまりの執念深さと粘り強さに、今度こそ魏延を呼んで追い出そうと決断しかけた劉憲だったが、賈詡がその乾いた唇から漏らした次の一言に、担ぎ直そうとしていた杉の木材を、あやうく足元へ落としそうになった。
「近々、寿春の袁術が……あの忌まわしい伝国の玉璽を我が物とし、新たな天子として即位する不届きな準備を、密かに始めましたぞ」
「なんだと……!?」
劉憲の喉から、鋭い空気が漏れた。周囲の槌の音が、一瞬だけ遠のいたように感じられる。
「さらに、話はそれだけに留まりませぬ。その配下である若き孫策は、主君のその愚かな即位を涙ながらに諫めるも全く聞き入れられず、ついにその歪んだ袁一族と袂を分かつ決意をしたようです。
自身が命懸けで切り開いた丹陽郡と呉郡の任地をそのまま手土産ともって、袁家から完全に独立するのだとか。南の風も、随分と騒がしくなってまいりました」
はじめて驚愕に大きく目を見開いた劉憲の、その動揺の色彩が走る表情をしっかりと確認すると、賈詡は心の底から満足げに、歪んだ唇の端を吊り上げた。
「では、私はこれにて失礼いたします。……司隷の復興、精が出ますな。せいぜい、瓦の裏の名が風化せぬうちに、街を完成させなされ」
嘲笑うような、あるいはその偏屈な実直さを心から称えるような、奇妙に余韻の残る言葉を風に残し、賈詡は再び馬に跨ると、長安の黄塵の向こうへと去っていった。
激しい蹄の音が遠ざかり、再び静けさを取り戻した秋風に吹かれながら、劉憲は胸の奥の激しい動揺を隠せないまま、どんよりとした雲が流れゆく南東の空を、ただじっと見つめていた。
袁術の身の程知らずな僭称、そして若き虎、孫策の決死の独立。
天子を失い、蜂の巣を突いたように動乱する天下の版図が、再び血の匂いを孕んだ不気味な地鳴りを上げ、内側から激しく蠢き始めていた。
史実メモ:197年春、袁術が寿春で皇帝を僭称する




