195年 献帝02
七月初頭。潼関。
容赦なく照りつける盛夏の陽光が黄土の大地を白く焼き、遠くの稜線を陽炎がぐにゃりと歪ませている。空気を吸い込めば、肺の奥まで焦げ付くような熱気と、立ち枯れた野草の匂いが鼻腔を突いた。
「州牧、首筋が酷く日焼けしておられますよ。洛陽から持参した薬膏を塗りましょうか。蓬生が効いていて、この暑さには幾分かましです」
「いや、構わんよ公達。今は甲冑の熱と汗で、薬膏など塗ってもすぐに溶けて流れ落ちてしまう。それより、水筒の水はまだ残っているか」
「ええ、しかしすっかり生温かくなっております。先ほど文聘殿が、もう少し塩気を足すべきだとぼやいておりました」
「仲業は汗をかきすぎるからな。……それにしても、風の音までが熱を持っているようだ」
劉憲が首に巻いた麻布で額の汗を拭ったその時、関の重い木扉の向こうから、激しい蹄の音が土煙と共に転がり込んできた。
馬の鼻先から白い泡が吹き飛び、斥候の男が転がるように鞍から落ちる。むせ返るような馬の汗と、乾いた土埃の匂いが周囲の空気を瞬時に張り詰めさせた。
「急報! 献帝、長安を出立! 洛陽を目指し移動を開始されました。同行するのは後将軍・楊定、および賈詡。一行は北東、覇陵県方面へと向かっております!」
報告を最後まで聞かず、劉憲は勢いよく立ち上がった。汗で張り付いていた衣が不快な音を立てて剥がれる。その瞳には、積年の憂いを晴らすべく覚悟の炎が宿っている。
「ついに動いたか……。よし、潼関を開け! 出撃だ。予定通り、主将に黄忠、副将に牛金を引き据えろ。軍師は蒯越。速やかに陛下を援護せよ!」
劉憲の張りのある声が、熱気のこもった関内に響き渡る。将たちが色めき立ち、革鎧が擦れ、鉄の武器が触れ合う硬質な音が次々と弾けた。
「漢升、急な出陣だが、いけるな」
劉憲が声をかけると、老将軍は白髪交じりの髭を撫でながら豪快に笑った。
「はっ、このような炎天下では、古傷の痛みなど汗と一緒に流れ出てしまいますわい。むしろ、若い牛金のほうが熱気にあてられて顔を赤くしておりますぞ」
「うるせえ爺さんだ、俺は血の巡りがいいだけだ。ほら、兜の紐が緩んでるぞ」
牛金がぶっきらぼうに言い返しながら、自らの大剣の柄を握り直す。劉憲は彼らのやり取りに微かに口元を緩め、さらに続けた。
「私と仲業、公達は別働隊として即応できる位置に布陣する。
いいか、決して潼関を閉じるな。ここが陛下の、そして我らの退路だ。退路を失えば、この熱砂の只中に沈むことになる」
混乱と熱気の中、荀攸が沈着な、氷を滑らせるような声で割って入った。
「……北東。やはり渡河して河東へと向かうのでしょう。港と河東の動きはどうなっていますか」
「壺関、依然として動きなし。されど、白波賊の李楽が動きを強めているとの報告あり!」
斥候のひび割れた声の答えに、劉憲はわずかに足を止めた。汗ばんだ額の奥で、思考が高速で回転を始める。
白波賊が名族たる袁紹と結ぶというのか。己の面子を何より重んじるあの袁紹が、野盗の類と手を組むなどあり得るのか。
いや、天子という究極の大義を得るためならば、一時的に名門の誇りを打ち捨て泥をすする事も厭わないかもしれない。それこそが、あの得体の知れない賈詡の描いた不気味な筋書きなのか。
だが、熟考する猶予はなかった。
視線の先、遥か地平の向こう。分厚い黄塵の向こう側で、献帝を乗せた簡素な馬車を護る楊定の小部隊に対し、郭汜率いる西涼騎馬の追撃軍が、凄まじい勢いで肉薄していた。
乾いた大地を揺るがす地響きと共に、怒号と悲鳴、そして命を削り合う刃の鈍い音が、熱波に乗って届き始める。
「今だ、漢臣の忠義を見せよ!」
黄忠が老将とは思えぬ腹の底からの豪快な声で号令を下すと、荊州の精鋭たちが郭汜の騎兵隊の脇腹を突くべく、疾風の如く熱砂を蹴立てて接敵した。
一筋の白刃がじりじりと焼ける夏の空に閃き、鈍い肉を断つ音とともに、ついに天子を巡る巨大な渦が、静寂の都・洛陽を目前にして激しく回り始めた。
黄忠の放つ太い矢が空気を引き裂き、荊州軍の猛攻が郭汜軍の脇腹を深く食い破る。
肉が裂け、血が飛沫となって空中の砂埃に吸い込まれ、一瞬にして周囲はむせ返るような鉄錆の匂いで満たされた。
通常の軍であれば、この一撃で戦列を崩し敗走してもおかしくない凄絶な損害であった。
しかし、郭汜の兵たちは死兵と化していた。
「退くな! 陛下をお連れ戻しせよ! 逃せば我らは皆、一族郎党処刑台行きだぞ!」
郭汜の血を吐くような怒号が響く。彼らにとって天子を奪われることは、即ちかつての主・董卓と同じ国賊の烙印を押され、絶望的な滅びへと直進することを意味していた。
逃げる天子の馬車にすら無数の矢が突き立ち、車輪が石に乗り上げるたびに、輿を守る楊定の兵たちが悲鳴に近い怒号を上げる。
「逆賊め! 陛下に矢を向けるか!」
袁紹、あるいは曹操といった外部の力ある諸侯が天子を保護すれば、李傕・郭汜らの掲げる薄っぺらな正義は一瞬にして雲散霧消する。
その純粋な恐怖が、西涼の荒くれ者たちを獣のような狂気に駆り立てていた。
守る劉憲と楊定、そして死に物狂いで追撃を続ける郭汜の軍。そこに、近隣に布陣していた李傕の残党も狂乱の渦に合流し、戦場は渭水のほとりで凄惨な乱戦へと発展した。
水辺の生ぬるい泥が血を吸って赤黒く変色し、踏み躙られた葦の青臭い匂いが、死臭と混ざり合って胃の腑を直接突き上げてくる。
やがて、天子の馬車は車輪に泥を絡ませて重く跳ね上げながら、ついに河辺へと辿り着く。
「何も来ていない……。よし、もう一踏ん張りだ! 必ずや陛下をお救いせよ!」
劉憲が自ら愛剣を振るい、迫りくる李傕兵の首を斬り飛ばしながら号令をかける。刃から滴る生温かい血が、彼の手甲を濡らしていた。
味方の援護が間に合えば、このまま陛下を保護し、あの復興の槌音が響く洛陽へ……。
そう確信しかけたその時、劉憲の視界の隅、濁った渭水の水面で不自然に揺れずに停泊している、漁船の一団が映った。
「まさか……」
その呟きが熱風に掻き消されるより早く、漁船を覆っていた薄汚れた筵が、一斉に勢いよく跳ね上げられた。古いイグサの埃っぽい匂いが風に舞う。
そこから陽光の下へ姿を現したのは、整然と隊列を組んだ、光を吸い込むような漆黒の鎧。微動だにせぬ規律を保った、曹操軍の将兵たちであった。
「……曹孟徳、これこそが賈詡の言う生き延びられる場所か!」
劉憲は思わず叫んだ。一部の荊州兵が反射的に漁船へ弓を向け、ギリリと弦を引き絞る音を立てるのを、劉憲は身を挺して制した。
「撃ってはならぬ! 構うな、天子のご無事のみを最優先せよ!」
怒号と水飛沫の混乱の最中、献帝と賈詡を乗せた小舟が、静かに、しかし確かな速度で岸を離れる。
郭汜軍から放たれた無数の矢が空を切って船体に突き刺さり、水面を激しく叩いて白い飛沫を上げる中、船団は力強い、訓練され尽くした櫂捌きで河の淀みのない流れに乗った。
「劉州牧、天子が……! 我らも追撃すべきです。今ならまだ間に合う!」
顔に返り血を浴び、息を切らした蒯越が馬を激しく寄せて、切迫した声で進言する。
彼が握る手綱から、馬の汗がぽたぽたと滴り落ちていた。しかし、劉憲は水面を滑って遠ざかる船団を見つめたまま、静かに首を振った。
「異度、お前のその肩の傷、手当てが先だ。血が止まっていないぞ」
「私の傷など今はどうでもよいのです! 陛下が、曹操の手に!」
「……追わぬ。今は天子が長安の地獄を離れ、確かな力を持つ者に保護されたことを喜ぼう」
劉憲の瞳には、天子を逃した悔しさよりも、どこか張り詰めていた糸が切れたような、晴れやかな諦念が混じっていた。
「いずれ、洛陽が真の都として蘇れば、陛下も自ずとお戻りになる日が来る。今は……曹操に預けるのが最善なのかもしれぬな」
河面を滑るように進む小舟の群れは、夏の強い日差しを跳ね返す水面の眩しさの中に溶け込み、東の空へと遠ざかっていく。その行き先は、曹操が自らの牙城を築きつつある地、許県。
劉憲は、柄を握る手に残る血の粘り気と戦いの熱を確かめながら、静かに、そして重々しく剣を鞘に収めた。
長安という、長きにわたる悪夢は終わった。だが、次なる覇権を巡る、より巨大な時代の渦が、生温かい河の風と共に始まろうとしていた。
史実メモ:7月、献帝東遷。長安を脱し、覇陵県に至る。その後弘農郡華陰県に至り、李傕らの追撃を受けながら弘農県へ。元白波賊の李楽らを味方につけ、黄河を渡り河東郡の安邑県に至る。




