195年 献帝01
興平二年、二月。長安の地を支配していた李傕と郭汜の野心は、ついには互いを喰らい合う猛毒へと変じた。かつての同盟者は激しく反目し、都の周囲は、触れれば爆ぜるような一触即発の緊張に包まれた。
三月、李傕が自ら皇宮に火を放ったとの報が届くと、劉憲は執務室の古い木の椅子を強く蹴って立ち上がった。一刻の猶予もない。彼は即座に、乾いた槌音が響く再建途上の洛陽から、西の要衝たる潼関へと兵を動かし、長安の深奥へ命を賭した密偵を放った。
そして五月、潼関。
初夏の強い陽光が容赦なく照りつけ、熱気を孕んだ乾いた風が、細かな黄土の微粒子を絶え間なく運んでいた。
巻き上がる砂塵が陽光を黄色く屈折させ、視界全体に鈍い膜をかけている。風が吹くたびに、口の中がじゃりつき、土の匂いが鼻腔の奥にへばりついた。
堅固な関城の上では、荊州兵たちが汗を拭うことも忘れて西の空を凝視している。
いつ、何が関の向こうから現れても即座に応じられるよう、油と松脂で固められた弓の弦は限界まで張り詰められていた。弦を握る指先には、革手袋の硬い手触りがじっとりと馴染んでいる。
そこへ、長安方面から一騎の使者が現れた。
馬は肋骨が浮き出るほどに痩せ細り、口元から白濁色の泡を吐きながら、蹄の裏を激しく石にぶつけていた。
文官らしき男の旅装も汗と埃、そして逃走中に浴びたであろう泥水で黒ずみ、薄汚れていたが、その瞳だけは濁流の底にある石のように底知れぬ静寂を湛えている。
「喉が鳴っているな。まずはこれを飲め。ここの井戸から汲み上げたばかりの冷たい水だ」
劉憲が自ら腰の竹筒を外し、その表面についた冷たい水滴を手のひらで拭いながら差し出した。
「かたじけなく存じます。……長安の井戸は、すでに死人の山で干からびました。これほど清い水の匂いは、久しく味わっておりません」
使者は掠れた声で応じ、貪るように水を喉に流し込んだ。劉憲の前で深く頭を下げた使者は、無言のまま、懐から一通の封書を差し出した。
その封には、ほんのりと長安の焦げ臭い煙の匂いと、安物の香の匂いが染み付いていた。湿った古絹の手触りが、劉憲の指先に重く伝わる。
封には、ただ一文字、「賈」と記されていた。
劉憲の背後に控えていた荀攸の視線が、瞬時に氷のような鋭さを帯びる。その双眸に映る燭光の反射が、一瞬だけ鋭く明滅した。
劉憲は封をとき、中に記された短い一文を静かに読み下した。
『七月、帝を外へ』
あまりに簡潔な、しかし天下の帰趨を動かすに足る宣告。重苦しい沈黙ののち、劉憲は重く顔を上げた。
「……賈詡殿は、随分と生き急いでおられるな」
使者は表情を変えず、淡々と応じる。
「長安は、もはや限界にございます。李傕と郭汜の兵が互いに同胞の血を流し、乏しい兵糧を奪い合っております。
あそこはもう、人の住む地ではございませぬ。一切の情を失った飢えた犬が、親兄弟を噛み裂くような有様にございます」
「……そうか。使者殿、君の衣服の裾が少し黒く焦げているな。皇宮の火は、まだ消えぬのか?」
劉憲がふと、男の薄汚れた衣の端に触れながら静かに尋ねた。
「ええ、未だ長安の北東からは黒い煙が立ち上り、夜になれば空が赤く染まります。これは木が燃える匂いではなく、宮女たちの絹や、古い竹簡が燃える不快な匂いでございますよ。
……私はその昔、宮中の図書を整理する小吏をしておりましたので、あの匂いはどうにも胸に悪く、夜も眠れませぬ」
使者が遠い目で呟いた言葉に、劉憲は小さく息を吐いた。天幕の外で、繋がれた馬が退屈そうに前脚を掻く音が規則正しく響いている。
荀攸が床の泥をわずかに踏み砕き、一歩前へ踏み出し、詰問するように問うた。
「賈文和殿は、一体どこへ陛下をお送りするつもりだ?」
使者は、わずかに口元を歪めた。乾ききった唇の端から、薄い血がじわりと滲む。
「陛下が、生き延びられる場所へ」
あえて意図をぼかしたその物言いに、荀攸は忌々しげに目を細めた。賈詡という男が、劉憲を救い主として選んだのか、あるいは単なる駒として利用しようとしているのか、その真意を測りかねているのだ。
劉憲が静かに問う。
「賈詡殿は、我らへ何を望まれる?」
「……潼関を、少なくとも閉じぬよう」
荀攸の目が冬の如き冷気をまとう。
「もし、郭汜が追撃すればどうなる」
「追うでしょうな」
「ならば、この潼関が血に染まる戦場となるぞ」
「なりましょう」
使者はまるで、遠い未来の出来事が既に記された書物を読み上げるかのように、他人事で、淡々としていた。その無感動な声が、夕暮れの空気の湿気を含んで重く室内に滞留する。
劉憲はしばらく黙考していたが、やがて腹の底に響くような低い声で言った。
「……陛下が長安の地獄を出られるのであれば、それだけでも十分な意味がある」
使者は満足げに、深く一礼した。
「文和も、そう申しておりました」
夜風が窓の隙間から細く吹き込み、燭台の獣脂の火が大きく爆ぜて揺れる。部屋の隅々に長い影が伸び縮みし、煤けた匂いが一瞬だけ強く漂った。
使者が足音もなく退出した後、部屋には重苦しい沈黙が落ちた。
「……州牧、あの男を信用なさいませぬよう」
荀攸が、自戒を込めた鋭い声で進言する。彼が握りしめていた木簡の端から、乾燥した木肌の繊維がわずかに剥がれ落ちた。劉憲は、揺れる火影を見つめたまま、苦く笑った。
「分かっている。賈詡という男、信用はできぬが、彼が提示する未来だけは、今の我らにとって唯一の光なのだ」
劉憲は、西涼を去る際に馬騰が残した警告を反芻していた。
「賈詡という男……気をつけろ。奴の吐く息はすべて罠だと思え」
陳倉の乾いた砂埃の中で聞いた警告が、今、不吉な予兆となって胸の奥に不快なざわつきを生んでいた。
室内では、荀攸が卓上の地図に鋭い視線を落としていた。
「文和は、間違いなく何かを隠しております。問題は、それが我らにとっての毒か、あるいは天下を測る秤か……」
「公達、少し目を休めたらどうだ。さっきから何度も瞬きをしている。武陵から持ってきたこの茶は、少し苦みが強いが頭が冴えるぞ。一杯淹れよう」
劉憲が、やや冷めかけた青磁の器を荀攸の前に差し出した。
「かたじけない。……州牧が淹れてくださるお茶は、いつも少し茶葉が多い。漢中の旅の途中で飲んだ苦い薬湯を思い出します」
荀攸が器を受け取り、その温もりに指先を這わせながら、ふっと表情を和らげる。
「あの時は茶葉などなく、野生の苦菜を煎じただけだったからな。それに比べれば、これは本物の茶だ」
劉憲が自分の器を回しながら微笑むと、再び地図の古くなった絹が放つ独特の湿った匂いが、二人の間に戻ってきた。
劉憲の視線は、潼関から北東へと伸び、河東を越えて河北の地へと至る。その指が一点を指し示した。布の表面が、彼の指の腹でかすかに擦れる音が響く。
「袁紹なら、大義を掲げて河東へ兵を出しても不思議はないな」
「壺関でございますか」
荀攸が短く応じる。四世三公の名族が、天子という究極の大義名分を得て全土に号令する。賈詡が密かに接触を図る相手として、これほどあり得る存在は他にない。
「あるいは兗州の曹操……。彼もまた、陛下を強く欲していると聞く」
劉憲の言葉に、荀攸は僅かに首を振った。器の中の緑の茶水が、不規則に揺れて光を跳ね返す。
「曹操は今、呂布との立て続けに大きな戦をこなしております。大軍を遠征させる余力は、まだ薄いでしょう。
彼の地は、今、麦の収穫もままならぬほど荒れていると密偵が申しておりました」
「ならば、やはり本命は河北か」
荀攸は地図の河東を指でなぞりながら、賈詡が描いたであろう盤面を読み解いていく。その白い指先が、羊皮紙に描かれた山脈の線をなぞる。
「賈詡は、我らを郭汜に対する楔に使う気でしょうな。我らが潼関で死に物狂いになって郭汜の追撃を食い止めている間に、壺関を抜けた袁紹の精鋭が、鮮やかに陛下を迎え入れる……」
「奸物め……」
劉憲は苦々しく吐き捨てた。自らの手を汚さず、劉憲の忠義を利用して、最も力ある者に果実を渡す。それが賈詡という男のやり方か。
「誰も信用せず、すべてを渡さぬ男でございますよ、あの男は。ただ、盤上の駒がどう傷つこうとも、最後には己の望む絵を描き上げる」
荀攸の言葉には稀代の策士への、辛辣な評価が混じっていた。
しばしの沈黙が流れ、冷え込み始めた夜風が関城の石壁の隙間を鳴らした。ひゅるひゅると鳴るその音は、まるで誰かの啜り泣きのようでもある。やがて劉憲が決然と顔を上げる。
「……それでも、陛下を長安の地獄に閉じ込めたままにはできぬ。たとえ賈詡の掌の上であろうと、陛下を外へ連れ出すことが先決だ」
劉憲は地図を指し、新たな布陣を命じた。
「潼関の兵を一部割き、河東の渡河点の監視に充てよ。大軍が現れれば即座に応じられるよう、斥候を倍に増やせ」
命令を下した後、劉憲は一人ごちるように、ぽつりと漏らした。その声は、夜風に混ざる土の匂いに静かに溶けていく。
「陛下が生きて、懐かしい洛陽へ戻れれば……それが一番良いのだがな。まだ、あの街の復興の槌音を陛下にお聞かせできていない」
荀攸は答えなかった。ただ静かに、卓の上に置かれた「賈」の一文字が書かれた書を見つめていた。その墨の文字は、薄暗い部屋の光の中でまるで生き物のように、次に来る混沌を嘲笑っているかのようであった。




