194年 舒県の戦い
初夏の強い陽光が、新しく張られた洛陽の執務室の窓を白く染め上げている。まだ青さを残す風が微かに吹き込むものの、盆地特有の湿った熱気がじっとりと首筋にまとわりつき、墨の匂いと古い木簡の埃っぽい匂いをむせ返るほどに濃くしていた。
「孝子、少し窓を細めましょうか。日差しが木簡に反射して、目がお疲れのようだ。それに、先ほどから額に汗が滲んでいますよ」
「いや、構わん。風が通らない方が息苦しい。しかし正方、お前のその葛の衣は涼しげでいいな。
宛にいた頃、黄巾を追って村々を駆けずり回った夏の暑さを思えば、これでも天国のようなものだが」
「あの時は、甲冑の下で汗が煮えくり返るようでしたね。私も今朝は少し胃が重く、冷たい井戸水ばかり飲んでおります」
李厳が苦笑しながら麻の布で自らの首筋を拭った直後、届いた報せの竹簡が、執務室の空気を不穏な熱で満たした。
「袁術が廬江太守・陸康に兵糧の供出を求めた」
竹簡のささくれた表面を指の腹でなぞる劉憲の顔が曇る。それは要求という名の脅迫であり、侵攻への露骨な口実であった。
「正方、袁術は来るだろうな」
劉憲が疲れたように息を吐き出して呟くと、李厳は深く頷き、擦り切れた竹簡の戦略図の一点を指でトントンと叩いた。
「廬江の陸康殿は頑固な御仁。袁術の無体な要求を呑むはずがありません。
されど、廬江単独で袁術の軍勢を押し返すには限界があります。守り抜くことはできても、敵の戦意を挫くまでの打撃は与えられぬでしょう」
李厳は竹簡の束を脇に退けて一息つき、具体的な増援案を提示した。
「主将には剛毅な李通を、軍師には郭嘉を送るべきかと。
それから……黄忠殿が鍛えていた魏延という青年にも、一隊を預けてみてはいかがでしょう」
「魏延……あの大暴れしていた少年か?」
劉憲が目を丸くして身を乗り出すと、李厳は少しだけ呆れたような、しかしどこか楽しげな苦笑いを浮かべた。
「ええ。最近は槍の練習も放り出し、甘寧なる鈴を鳴らす派手な男と共に、洛陽の学舎に入り浸っていると聞きます。
黄忠殿に鉄拳で殴られていた頃とは、随分と様子が変わったようで。この前などは、書物の山に埋もれながら兵法の議論で取っ組み合いの喧嘩をしておりましたよ」
「あの悪たれが学舎に……。屯田兵と麦粥を順番を争いながら啜っていた彼らを何が変えたのかは分からんが、それは喜ばしいことだ」
劉憲は、乾いた風に揺れる窓辺の青葉を見つめながら魏延の出陣を認め、副将を付けて廬江へと送り出した。
秋風が乾いた土埃を巻き上げ、洛陽の街路樹から微かに枯れ葉の匂いが漂い始める頃。袁術軍を見事に退けた防衛隊の先触れが、帰還の報告をもたらした。
「州牧、少しお痩せになったのではないですか。復興の図面ばかり見て、また夜食の温かい麺を断っていると聞きましたよ」
「……公達か。いや、少し胃の腑が縮んでいるだけだ。秋の風は腹を冷やすからな。それより、報告書を見せてくれ」
戦果は十分であった。届いた木簡には、廬江の守りが堅守され、袁術の野心がひとまず挫かれたことが記されている。
しかし、報告書の末尾に記された敵将の名を認めた瞬間、劉憲の心に氷のような冷たいさざ波が立った。指先から体温が急速に奪われていくのを感じる。
「敵軍の先鋒、孫策……」
孫堅の長子、孫策。孫堅が戦死した後、劉憲は密かに彼の一族を捜索させていた。だが、広大な長江の波間に消えるように、行方は知れぬまま無情な歳月が過ぎていた。
「……孫策よ、なぜ父の仇である袁術になど従う」
劉憲の表情は、秋の夕暮れよりも深く、暗く沈んでいた。
かつて共に董卓と戦った孫堅は、暴走しがちな悪癖はあったが、剛直で誇り高い男であった。彼が帯びていた剣の鉄の匂いと、豪快な笑い声が耳の奥に蘇る。
その息子が、あのような傲慢な袁術の下で剣を振るっている。それが止むに止まれぬ事情ゆえか、あるいは乱世の血生臭い非情さゆえか。
「孫家が袁術の狗に甘んじているはずがない。だが、あの一族が袁術の軍勢として動く以上、長江の守りはこれまで以上に厳しくなるな。
あの水系の湿った空気ごと、塞がねばならなくなる」
劉憲は窓の外、暮れなずむ鈍色の空を見つめた。
救えなかった友の息子が、今は敵として牙を剥いている。
遠くから絶え間なく聞こえてくる、復興という希望の杵と槌音が響く洛陽にあって、その事実だけが劉憲の心に、決して拭い去れぬ濃い影を落としていた。
わずかに時を遡る。どんよりとした戦雲が垂れ込め、雨季特有の重く生温かい湿気が張り付く廬江の城壁。
眼下には、袁術から授かった「淮南の虎」の威容を誇る孫策軍が、静かに、しかし確実に包囲の網を狭めていた。
何千という兵が踏み荒らす泥の匂いと、煮立てられた油の饐えたような悪臭が混ざり合い、鼻腔を塞ぐ。
だが、城壁の上の空気は、悲壮感とは程遠いものだった。
「おい興覇、お前出発前に学舎の食堂で、俺の分の豚肉まで平らげただろう。お陰で腹が減って力が出ねえぞ」
「うるせえ文長、一体何日前の話だ。あれはお前が竹簡を読むのに夢中で残していたから片付けてやっただけだ。
それに、今朝も粟飯を三杯もおかわりしたくせに寝言をほざくな」
魏延が腹の底から響くような哄笑を上げ、城壁から身を乗り出して眼下の敵軍を挑発する。
「ほら、どうした! 近寄って来い。来たら来たで投石車の餌食だがな!」
その横で、腰に下げた鈴の音を涼やかに響かせながら、甘寧が不敵に笑った。
「文長、北側から強硬突破を狙う騎兵が見える。
……やるか。劉州牧が以前語っていた『鹿砦』と『破竹の計』を組み合わせて仕掛けるぞ。青竹の準備はできている。一気に燃やせ!」
「ふははは! 騎兵よ、竿立ちになるがいい! 驚いた馬ごと弩の餌食よ!」
燃え盛る松明が投げ込まれ、仕掛けられていた大量の青竹が炎に包まれる。中の水分が膨張し、耳をつんざくような凄まじい爆発音が連続して轟き、熱風が顔を叩く。
かつては己の拳と罵声でしか己を表現できなかった悪たれどもが、今は学舎の油臭い灯りの下で学んだ兵法と、劉憲の過去の戦術を自分たちなりに咀嚼し、狂気のような高揚感とともに戦場を楽しんでいた。
軍師として随行した郭嘉は、壁の陰で埃まみれになりながらそんな二人を見つめ、肩をすくめて苦笑した。
「まったく、あの二人には暑さも恐怖も関係ないらしい。私の持参した気付けの薬酒を分けてやりたいくらいですがね。
なんとも面白い。一体誰の真似をすれば、これほど型破りな策士が出来上がるのやら……。
まあ良いでしょう。私も私で、揚州兵の心をへし折りに行くとしましょうか」
郭嘉は哄笑を続ける二人を横目に、風を避けた櫓の下で、さらさらと流麗な筆致で書をしたため始めた。墨の香りが、血生臭い風の中で異質なほど静かに漂う。
その内容は、事実を巧妙に歪め、あるいは強調した、実に質の悪い「毒」であった。
『劉憲はかつて孫堅と誇り高く戦い、打ち破った後も彼を丁重に弔い、故郷へと送った。
それだというのに、嫡子たる孫策はその恩を忘れ、あまつさえ親の真の仇に膝を屈して、劉憲に弓を引く。
忘恩の徒に、果たして義はあるのか』
「さて、この文を揚州兵の中にばら撒きましょう。肉親を重んじる江東の者たちには、よく効くはずだ。
この湿気で墨が滲まぬうちに、矢に括り付けるとしましょう」
郭嘉の瞳に、獲物を狙う蛇のような妖しい光が宿る。
学舎という翼を得て、獣のような獰猛さに知略を付け加えた若き将たち。そして、彼らの暴走を確実な「勝利」へと繋ぎ変える天才軍師。
主将として陣頭に立つ李通は、照りつける陽光の下、味方ながらその底知れぬ成長と冷酷さに、背筋を伝う冷たい汗を拭うことができなかった。生温かい風に吹かれても、その震えは止まらない。
「……州牧、貴方の育てた雛たちは、いつの間にかとんでもない怪鳥になっておりますぞ」
李通の呟きは、鼓膜を破るほどの青竹が爆ぜる音と、孫策軍の激しい動揺を誘う風の音に掻き消されていった。
史実メモ:袁術が徐州を攻めるために陸康に兵糧の供出を求めるも拒否され激怒。孫策に命じ蘆江を攻める。陸康は舒県にて堅守するが、孫策の二度の包囲ののち敗北。陸康はその後病没。




