195年 献帝03
天子救出戦の熱狂から三日。軍幕の中は、兵たちの人いきれと古い布地が湿気を吸った重い匂いが滞留していた。天窓から差し込む斜光が、幾筋もの埃の帯を空中に描き出している。
劉憲は未だ李傕らが立て籠もる長安を解放し、漢の版図を真に繋ぎ合わせるべく、李厳、荀攸、司馬兄弟と共に卓上の地図を囲んでいた。
縁が擦り切れ、幾つもの脂染みが浮いた古布の地図を文鎮で押さえながら、李厳が小言をこぼす。
「公達、また咳が酷くなっているのではないですか。夜露に当たるなとあれほど言ったでしょう」
「気遣い痛み入る、正方殿。しかし、この埃っぽい長安の風を吸い込めば、誰とて喉を痛めましょう。
それに、今朝飲んだ薬湯がどうにも泥水のように不味くありまして」
荀攸は薄く笑いながら、枯れた咳を一つ落とした。
「兄上、だから僕は言ったのです。あんな得体の知れない草を煎じるより、白湯の方がよほど体に良いと」
「仲達、公達殿に失礼だろう。長安の井戸水は石灰が多くて腹を下しやすい。薬湯を勧めたのは私だ」
司馬懿が不満げに鼻を鳴らし、司馬朗が宥めるように弟の肩を叩く。
劉憲は彼らのやり取りを半ば聞き流しながら、地図上の長安を指でなぞっていた。指先に触れる布のざらつきが、かつてのこの地を記した詩歌の記憶を呼び起こす。
「かつての長安は、もっと油と香辛料の匂いが風に混じっていたはずなのだがな……」
劉憲がふと呟いた時だった。
外から軍幕を弾き飛ばすような荒々しい足音と、怒号が響いた。異様な殺気を帯びた兵たちが、軍議の場へ雪崩れ込んでくる。
彼らに乱暴に引き立てられ、軍幕の粗末な敷物の上に放り出されたのは、太い麻縄で簀巻きにされ、口を汚れた布で封じられた賈詡であった。
かつての稀代の策士の面影はどこにもない。
上等だったはずの深衣は泥と枯れ草に塗れ、乱れた髪からは泥水と血、それに獣のような濃い汗の匂いが放たれていた。
縄目の食い込んだ手首は鬱血して赤黒く腫れ上がり、小刻みに震えている。
「賈詡か……。なぜ曹操と共に居らず、ここに居る?」
劉憲の問いに、連れてきた兵たちは互いに顔を見合わせ、しきりに乾いた唇を舐めた。
兵の一人が、甲冑の隙間から土埃の匂いを立ち昇らせながら、声を震わせて語り始めた。
「道中、馬の蹄が石に挟まりまして、それを取るのに手間取り……いや、そのようなことはどうでもよいのですが。
献帝は曹操の用意した舟で渭水を降り、黄河に差し掛かるあたりで……舟が漏水、転覆いたしました。
曹孟徳の兵も、遠巻きに監視していた我が兵も必死に救出に向かったのですが、努力虚しく……」
劉憲の視界が、一瞬にして音を立てて白く染まった。
天窓からの光が暴力的なまでに網膜を焼き、周囲の空気から突然、一切の湿度が失われたように感じられた。
指先から急速に血の気が引き、冷たさだけが全身を駆け巡る。荀攸が息を呑む音も、李厳が刀の柄に手を掛ける衣の擦れ音も、遠い水底から響いてくるように曖昧だった。
「……賈詡の口輪を解け。話を聞きたい」
ひどく掠れた己の声が、他人のもののように鼓膜を打つ。
兵が慌てて汚れた布を解くと、縛めを解かれた賈詡は激しくむせ返り、呼吸を整える間もなく、縋り付くような勢いで捲し立てた。肺の奥から吐き出される、泥臭い息が周囲に散る。
「公達、水筒を貸してやれ。死にそうな顔をしている」
「孟徳の用意した舟は郭汜の執拗な攻撃により傷ついており、荒れた黄河の流れには耐えられなかったのです!
これも全ては逆賊どもが天子を狙ったゆえの悲劇。我らも必死にお救いいたしましたが、陛下は大量の水を飲まれ、天命……天命も空しく、崩御なされました!」
「もうよい……」
劉憲の唇は、凍りついたように震えていた。
しかし、賈詡の言葉は止まらない。吐き出される熱を帯びた呼気と共に、彼の双眸には先刻までの惨めな絶望は消え失せ、次なる盤面の血肉を漁る怪物の光が宿っていた。
「劉憲様。貴方は洛陽を復興し、今や天下に号することのできる唯一無二の劉氏であらせられます。
天子亡き今、漢を立て直し、陛下のご遺志を継げるのは貴方しかおられない! この賈文和、犬馬の労も厭わず身命を賭してお支えいたします。
劉憲様、どうか洛陽にて天子として即位なされ……!」
「もうよいと言っている!」
劉憲の腹底からの怒声が、軍幕の布地をびりびりと震わせた。全霊を懸け、幾多の血を流して救おうとした希望が、冷たい濁流の底の藻屑となったのだ。
それを即座に己の延命と権力闘争の道具へと作り変えようとする賈詡の言葉は、今の劉憲には傷口に注ぎ込まれる猛毒よりも不快であった。
「公達……あの薬湯より、こやつの言葉の方がよほど吐き気を催すな。
……誰ぞ、この者を曹操の元へ送り届けよ。望み通り、あの炎のような奸雄に焼かれるがいい」
劉憲が冷徹に告げると、兵たちは賈詡を再び荒々しく引き起こし、太い縄を容赦なく締め上げた。
「痛い! 腕が折れる!」
賈詡の情けない悲鳴を無視し、兵たちは彼を引き摺っていく。夕闇が迫る風の中に消えゆく間際まで、男は喉を枯らして叫び続けた。
「後悔いたしますぞ! 天下はこれより、真の地獄となるのだ!」
その不吉な残響が遠ざかると共に、劉憲の意識は、底なしの深い漆黒へと塗りつぶされていった。
手をついた卓の木目、微かに香る土の匂い、復興という名の希望の槌音も、渭水のせせらぎも、今はもう何も感知できなかった。
献帝が崩御して三日。
劉憲は、窓を厚い布で塞いだ薄暗い部屋の中で、抜け殻のように寝牀の上に横たわっていた。
盆に盛られた粟粥は手付かずのまま冷え切り、部屋には吐き戻した胃液の酸っぱい匂いと、冷や汗を吸い込んだ寝衣の澱んだ匂いが立ち込めている。
部屋の隅に置かれた青銅の香炉からは、微かに香の煙が細く立ち上っていたが、その香りさえも今の彼の鼻腔には届いていなかった。
荀攸が執り行った天子の霊廟への埋葬の儀。
袁紹が天子を謀殺したとして曹操を激しく糾弾し、反曹操の旗を掲げたという血生臭い急報。
それらすべてが、今の彼には、遠くの枯れ草が乾いた風に舞い散る、意味のない摩擦音のようにしか聞こえていなかった。
すべてを懸けて追い求めた光は、冷たい河の底の暗闇に消えたのだ。
じっとりと汗ばんだ敷布の感触だけを感じていた劉憲の耳に、微かな衣擦れの音と、静かな足音が近づいてくるのが聞こえた。
布底の沓が、床板の軋みを丁寧に避けるように歩み寄る。
蔡琰、字を昭姫。彼女はわずかに埃の舞う寝牀の端に腰を下ろすと、布の隙間から漏れる一筋の光を背にして、動かぬ君をじっと見つめ、静かに語りかけた。
彼女の衣からは、墨と、書庫に積まれた古い竹簡の匂いがした。
「いつまで寝ておられますか?」
「……すべては終わったのだ、昭姫。天子は崩御され、漢室の命脈は途絶えた。私が積み上げてきた瓦礫の再建も、すべては無駄だったのだ」
劉憲の声は、幾日も水すらまともに通していない喉から絞り出されたように弱々しく、生きる力そのものがひび割れて枯れ果てたようであった。
昭姫は短く息を吐くと、劉憲の痩せこけた頬に冷たい指先を添え、その顎の線を静かに撫でた。
「この部屋、少し埃っぽすぎますね。先ほどすれ違った侍女に、あとで床を拭かせましょう。
それに、貴方の息もひどく荒れています。少し窓を開けますよ」
日常の些細な不満を口にするような声色で言いながら、彼女は手入れを忘れ、青白くやつれた顎に短く生え始めていた無精髭を二、三本、親指と人差し指で僅かに摘むと、容赦なく一気に引き抜いた。
「……っ、何をする。漢と共に死にゆく私を甚振りに来たのか?」
毛根から伝わる鋭い痛みにわずかに顔を歪めた劉憲に、昭姫は少しも悪びれず、凛とした声で告げた。
「孝子、起きてください。私はかつて、貴方が泥に汚れた髭を剃り落とした時、士大夫の価値は髭などでは決まらないと言いました」
彼女は、この三日でさらに骨張ってしまった劉憲の手を取り、両手で力強く握り締める。
彼女の手のひらの温もりと、僅かな汗の湿り気が、劉憲の冷え切った皮膚に直接伝わってくる。
「昨日、中庭の隅で、仲業殿が剣の素振りをしながら、友が寝込んでいる間に鈍ってしまっては申し訳が立たんとぼやいておられました。
公達殿は相変わらず咳き込みながらも、長安の戸籍録を整理し続けています。
皆、それぞれに日々の生を営んでいるのです。漢はまだ死んでおりません。未だ漢を信じ、漢に殉じて生きようとする民や、貴方の友、そして貴方を信じて付き従う配下たちが、ここに居るではありませんか。
皆、貴方が戻ることを、その眼を開くことを望んでおりますよ」
「……しかし、私は失敗したのだ。天子をお救いできなかった」
「漢とは、天子お一人のことを指すのではありません。天地と、そこに生きるすべての者を指すのです。
孝子、貴方は今も地獄の中で喘ぎ、助けを待っている長安の民を、そのまま見捨てられるのですか?」
昭姫の言葉の重みと、握られた手の熱。それらが、劉憲の凍りついていた血脈に少しずつ火を灯していく。
指先にじわりと確かな熱が戻り、枯れ木のように投げ出されていた腕に、じわじわと力が籠もる。
「……見捨てられるはずがない。彼らを救わずして、何が復興か。何が漢の忠臣か!」
劉憲の乾いた喉が鳴った。彼は昭姫の細い肩に手をかけ、己の体重を預けるようにして、ふらつきながらもその足で床板を踏みしめ、立ち上がった。
乱れた髪の隙間から覗く瞳から昏い濁りが消え去り、壁に掛けられた己の剣を真っ直ぐに見据える。
漢室という古びた看板を守るためではない。街角で嗅いだ胡麻油の匂いや、行き交う人々の他愛のない喧噪。そこに生きる人々を、一人でも多く救うために。
「正方を呼べ。長安を……人の世を取り戻しに行くぞ」
絶望の淵から立ち上がった男の背中には、もはや一切の迷いはなかった。
窓の隙間から差し込む一条の陽光が彼の横顔を照らし出す。復興の槌音は、止まることなく再び響き始めようとしていた。
史実メモ:196年7月、献帝は焼け野原となった洛陽に帰還。9月、曹操は潁川郡許県に献帝を迎え入れる。




